それでも

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悲惨な現実の中で、『それでも人生にyesと言おうと!』という言葉を、ビクトール・フランクルが残しています。フランクルは、ユダヤ人の精神科医で、あの悪名高い、ナチスの強制収容所から、生還した方でした。その収容中に、この言葉で、死の恐怖に怯えている仲間の間で、激励し合ったそうです。フランクルが、こんな話を残しています。

彼はヒトラーが、ウィーンに進軍してきた時、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では、医師として働きを続けることができないことが明らかでした。それで、アメリカ行きのビザを申請したのです。数年かかって、やっとビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっていて、強制収容所への抑留は、間違いない状況になってしまったのです。

しかし、彼には年老いたご両親がいました。その二人のビザを申請することも、取得することできませんでした。彼は、アメリカ行きを迷ったのです。彼がウィーンに残ったとしても、両親を救うことなどできません。しかし、両親を置き去りにして、自分だけがアメリカに渡ることができずにいたのです。

フランクルが家に帰ってみると、父親が、「ユダヤの会堂」の破壊された瓦礫の中から拾ってきた、大理石の石片がテーブルの上に置いてありました。そこには、ヘブル語の"カフ"というアルファベットが刻まれていたのです。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。

彼は、この文字を見た時、自分が、どうすべきかを理解するのです。両親と共に、ウィーンに残ることにしました。しかし、それは、彼自身も強制収容所に抑留されることを意味していたわけです。彼は自分の医師という立場を用いて、秘密警察官の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができたのです。しかし、フランクルは、間なく両親と共に、強制収容所に抑留されてしまいます。

お父さんは、そこで肺水腫に罹って、死の床につきます。彼は医師として、父の最後の「鎮痛剤の注射」を打つことができました。父親に、それをして上げた時のことを、『私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった!』と書き残しています。

一方、お母さんは、その後、アウシュビッツのガス室送りになりました。移される直前に、彼は母親に、祝福の祈りを請います。心の底からの祝福のことばを、母から最後に受けることができたのです。彼はその後の収容所生活の中で、母への感謝の思いで、心が満たされていました。
 
フランクルは奇跡的に、強制収容所の苦しみに耐えて、戦後、生き残ることができました。そこでの体験を「夜と霧」という本で証ししたのです。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は、高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることができるのだという証しでした。

(ウイーン市の遠景です)

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