野の花の如く

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昨夕、配信してくださった"hp「里山を歩こう」"の写真です。上は「イガタツナミソウ(伊賀立浪草/三重県伊賀で発見されて命名されてそうです)」、下は「フナバラソウ(舟原草)」です。こういった花々は、里山や土手が、日本から消えて行ってしまったので、花々も消えて行くのだと聞きました。同じ立浪草でも、伊賀で咲く種類には、それに適った命名がなされるのですね。驚くのは、見てすぐに、「フナバラソウ」だと分かる観察眼です。

家内が学んだ学校の先生は、よく里山や野原に、学生たちを連れ出しては、『これは◯◯、どこどこによく咲いているんだ!』と教えてくれたのだそうです。専門は農学で、農業に携わるみなさんに、養鶏や、特別な作物の植え付けを指導して、経済的に自立する様に勧めていたそうです。

花には目もくれずに、チャンバラをして遊んで、少年期を過ごしたので、花の名前も知らない自分が、ずいぶん無知だと認めています。今になって、名のない草の美しさがわかり始めてきたのは感謝です。恩師が、「野の花の如く咲きなむ!』と言い残してくれたのを思い出します。

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残る悔い

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日本に帰化された、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、次の様に語っています。

『・・・私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。』

このキーン氏も、アメリカ軍の語学学校で、やがて占領する国で、戦後処理をするために、日本語を学んだ人でした。その学校のカリキュラムは、驚くものだったそうです。短期間の学びで、日本の日刊紙が読める様になったそうです。そう言えば、私が、“サンノゼ(サン・ホセ/カルフォルニア)”を訪ねた時に、一人のアメリカ人兵士と会いました。彼は、二十歳でしたが、『私は日本語を半年学んでいます!』と、流暢な日本語で話しかけてくれたのです。

戦時下だけではなく、1990年代の終わり頃にも、アメリカ軍は、希望する兵士に、外国語の学習をさせて、軍務だけにではなく、学問や文化の面で、人材を要請していたのです。日本語の上手な方に、何人もお会いしましたが、短期習得の方法があるのですね。私も、中高大と、何年も英語を学び、アメリカ人起業家とともに働いたのですが、英語力は不足しているままです。

後になって、『もっと熱心に学んでおくべきだった!』と、<後の後悔>をしたのです。どなただったか忘れましたが、「嵐が丘(Wuthering Heights )」を翻訳本ではなく、原典で読みたくて、イギリス英語を学び直した人がいると聞いたことがありました。それを聞いた時、決心して学ぼうと自分も思ったのですが、そのまま、今日を迎えてしまいました。孫たちと交流するためにも、学び直さないといけないと思っているところです。

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