海外移住の日

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18才の頃、日本脱出を考えていました。ちょうど父たちの世代の若者が、『狭い日本にゃ住み飽いた!』と言って、大陸中国を目指して、東シナ海を渡って出掛けて行った様にです。広大な原野が広がる満州に、理想を求めてでした。私の父も、ご多聞に漏れず、現在の遼寧省瀋陽、当時は「奉天」と呼ばれていた街で過ごしたそうです。

戦前の中国は、「四億の民」が住んでいた様です。父は鉱山技師で、当時の国策に従って、自分の習得した技術を生かそうと、勇躍と出掛けています。しかし、途中で呼び戻され、朝鮮半島に遣わされたり、山形などの山を歩き回ったのでした。未掘削の大地が広がっていたのでしょう。若者が、夢を実現するには、そんな機会が目前にあったのでしょうか。

私は、「南十字星への憧れ」があって、南半球に行って見たくて、東京にあった「アルゼンチン協会」に手紙を書いて、《アルゼンチン移民》を考えてる旨、手紙を出しましたら、大きな封筒に一杯の資料を送ってくれたのです。それを見ながら、胸を膨らませていました。本屋に行き、「スペイン語」の自習書を買って、学び始めたのです。

ところが、大学に引っかかって、その夢は泡の様に消えてしまいました。『何がなんでも!』という強い気持ちがなく、簡単に諦めてしまったのです。農業や物作りや商いの資格も能力もなく、一体、出掛けて行って何をするのかの目標を持たずに、漠とした憧れだけだったので、結局は安易な道を選び取ってしまったわけです。

そんな昔を思い出していたら、今日のニュースの片隅に、今日は、「海外移住の日」の記念日だとありました。1908年6月18日に、「笠戸丸」に、781人の移民のみなさんを乗せて、ブラジルサンパウロの海の玄関の「サントス」に入港したのだそうです。父が生まれる2年弱前の事で、110周年になるのです。

そのサントスから、ブラジル全土に、また周りの国々に入植して、農地開拓を始めたのです。私が、ブラジルのサンパウロと、アルゼンチンのブエノスアイレスを訪ねた時に、多くの日系のみなさんとお会いしました。もちろんサンパウロの隣町に、義兄が移民していましたから、そこを訪問しました。

ブエノスアイレスでは、沖縄から移民した方たちが多く、洗濯屋や花屋をしながら、子育てをしてきたそうです。公務員や医師や新聞記者などを、子どもさんたちはなさっていると言っていました。日本料理で歓待してくださったのです。やはりお顔は、苦労の跡が残っておいでで、白人社会の中で、アルゼンチンは、そこに入り込むのが厳しかったそうです。

もしかしたら、私は「迎える側」にいたかも知れないと思って、ちょっと複雑な思いがしたのです。夢と現実は、かなり違うのですが、日系人は、アンパウロでもブエノスアイレスでも、しっかり働いて、頑張って生きてきた証をお持ちでした。でも、お年寄りは、祖国に帰れない寂しさが目に溢れておいででした。ご苦労が見える様でした。

(ブラジルの「サントス」の景観です)

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新緑の渓流の滝、今頃、そんな中を歩いたら気持ちが好いでしょうね。写真は、広島県三次市だそうです(☞HP「里山を歩こう」から)。様々に教えて頂き、一緒に働かせて頂いたアメリカ人起業家の友人が、この三次にいたことがありました。頭の毛の薄い方で、わが家に来られた時に、肩車してもらった次女が、この頭を手の平で叩いていたことがありました。彼は、ただニコニコするだけで、好い人でした。その子が、今や二児の母親になっています。

中国山地の台地の風景です。私たちが住む、この街の北にある、森林公園から、山に入ると、登山道の脇にも渓流が流れていて、夏場は涼を楽しめます。しばらく行ってませんので、この写真を見ましたら、行ってみたくなりました。山肌の隙間から流れ出る湧き水が、美味しいのです。美しい風景に、心が休まり、感謝です。

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カラオケ

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世界には、日本から始まったものが多くある中で、ここ中国でも盛んなのが、「カラオケ」です。学生さんに誘われた事がありましたが、一度も一緒に歌ったことがありませんでした。昔、何かの機会で、一度だけ歌ったことがありました。忘れもしない、「なみだの操」でした。”ミリオンセラー“とかで、街中でもラジオでもテレビでも、1970年代だったでしょうか、よく聞かされ、メロディーを覚えてしまっていました。歌詞を見ながら、デユエットに誘われて歌ったのです。

何年か前の夏に、この街の北の山の方の民宿に泊まったのですが、板に布が敷いてあるベッドで、薄掛け布団も、干された事がなさそうで、カビくさかったので、なかなか寝付かなかったのです。その上、近所の民宿で、大音量の“カラオケ”をしていました。『もう、そろそろ・・・』と誰も言えなかったのでしょう、きっと“◯長さん”でしょうか、一人で延々と歌って、零時を回っていました。上手なら子守唄になるのですが、音程が外れて、がなり声、絞り声で聞くに耐えませんでした。

実は、この小区でも、一昨日あたりから、夕方になると、同じ声の”おじさん“が、<独りよがり>で、ちっとも周りを気にしないで、歌い続けています。きっと、“◯長さん”の横暴に違いありません。わが家に来れば、カラオケ代とタクシー代を上げてもいいので、街中の個室で歌って欲しいほどです。<下手の横好き>なのでしょう。

この街の大学の外語学院で、しばらく学んだ時に、一人の老師が、歌を紹介してくれました。台湾の葉啓田と言う歌手が歌ったもので、「爱拼才会赢」と言う題でした。日本の演歌の様に、“こぶし”が入っていて、覚えてしまったのです。それで、新入生に「発音」の授業をやる時に、日本の歌と一緒に、この歌を台湾語で歌うことにしたのです。結構、雰囲気作りに好かったですし、大受けしました。

アッ、騒音が止みました。これで晩御飯が美味しく頂けそうです。一週間ほど前には、女性が、<変な猫(失礼!)>の様に、とても高い声で歌っていました。歌の上手くない人は、自分の歌を録音して聞かれても、下手だとは思わないのでしょうね。自信があるから、ああやって歌うに違いありません。真の友人は、言って上げるべきです。『もう、そろそろ・・・』と。そう言うのは、私の仕事(工作gongzuo))ではありませんので。どうしたらいいのでしょうか。

(いつか食べたい「牛肉麺(高雄市名物)」です)

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