タニシ

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子育てをした街に住んでいた時、「ツボ」と呼ばれる巻貝をもらった事がありました。「田螺(タニシ)」を、その地方では、そう呼んでいたのです。貴重なタンパク源で、味噌汁の具にすると美味なのだそうです。とても沢山いただいたのです。タニシは、稲の刈り株の下にいるのだそうです。そして、その町の北の方の村では、稲刈りの終えた田圃(たんぼ)で、このタニシを養殖して、出荷していたのです。

ところが、どの様に養殖してるのかと言うと、「人糞(じんぷん)」を餌にしているのです。昔は、トイレは水洗ではなく、それは農家の貴重な肥料であったので、自然農法には欠かせなかったとの事です。タニシも、それを餌にしてると聞いてからは、急に食べなくなってしまったのです。もらったのはよかったのですが、結局大家さんに上げたら、大喜びされてしまったわけです。

私たちは、食料が何を餌や肥料にして生育しているかを知ってしまうと、食べるのを躊躇してしまう事があるのです。牛や羊は、草食ですが、豚は雑食でなんでも食べてしまいます。でも、<トンカツ>も<カツ丼>も好物で、そんな事忘れて食べてしまうわけです。そんな事を意識しないでいる方が賢明かも知れません。

私たちの住む小区の入口には、一階を商店にして、様々なものを売っているのです。野菜や果物、そして魚介類や肉も置いてあります。一軒の店頭に、鯉、ドジョウ、そしてタニシが置いてあって、それを見て、タニシの経緯を思い出したわけです。東アジア人は、同じ物を食べて生きてきたんだと、再確認しているわけです。稲作と、そこに生息する淡水の小さな生き物類(ドジョウやフナや虫やカエルやトンボや蝶やウンカ等)のフンや死骸などが循環して、一つの生態系が、何千年もの間、維持され作り上げられ続けてきてるのですね。

先週、家内とその商店の並びの端にある食堂に行って、この地方独特の麺と肉を薄皮で包んだスープで昼食にしたのです。近所の建設現場で作業をされている方が、ひっきりなしにやって来る、大流行りの店です。それが美味しいのです。食事が終わって、そこにある店を、じっくり見て回ったのです。小葱、里芋、レンコン、カボチャ、干し魚、キンカン、りんご、そう全く日本の店と変わらない品揃えでした。

ご夫婦で店を切り盛りし、綺麗に品並べをしていて、正直そうな好い夫婦です。子どもの面倒をするお母さんも出て来て、そんな人たちと世間話をしてしまいました。家内を、『阿姨ayi/おばさん』と呼んでいて、お得意さんなのです。そう日が延びてきています。太陽もベランダを照らす時間が増えてきています。

夕方になると、決まって、事務所が選曲するのでしょう「ベッサメムーチョ」のCDが流れてきます。上の家からは、まな板を使う音が聞こえてきて、帰宅途中の靴音もしてきます。中国の市井(しせい)は長閑(のど)かです。

(冬の田圃です)
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背中

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日本人だけでしょうか、人は、「背中でものを言う」のだそうです。ただし<無言>のままに、何か<声なき声>を発信させているのです。と言うか、生き方とか、在り方とか、過去にどんな事があったのかなどが、背中を見てると分かってくるから、そう言った言い方をするのでしょうか。寂しそうな背中をしている人を見かけた事があります。

家内の上の兄が、高校を卒業してから、ブラジルに移民しました。『バナナが思いっきり食べられるから!』だと冗談を言っていたそうですが、異国の地で、《一旗上げる》ためでした。そして家族を呼びたかったのでしょう。農業移民で成功を夢見たのですが、契約時の話と、現地の実情とは違っていて、裏切られたのです。一緒に働いていた仲間が自死し、その墓を涙を流しながら掘って、埋葬をしたそうです。

義兄は、手先が器用だったので、ある人から<時計の修理技術>を教わって、小さな店を出します。開拓地から馬に乗ったり歩いたりして、持ってこられた時計を修理しながら、地道に働いたのです。それで広い土地を買い、大きな家を建て、サンパウロの近くの町で、移民仲間では、まあまあ成功した一人でした。私は、アルゼンチンのブエノスアイレスや、パンパ平原の街で会議があって、それに出席した事があり、その帰りに、義兄を訪ねました。

サンパウロから、車で1時間ほどのところにある街でした。義兄は、時計の修理だけではなく、時計や宝石の販売もして盛況でした。そして父母と妹をブラジルに呼んだのです。私が訪ねた時には、義父は召されていましたし、義母は娘のいるアメリカを訪問中でした。一度も帰国しなかった義兄の<背中>も、ものを言っていました。長い異国での生活で、家族がいたり、親友がいたりしていましたが、私に愚痴や苦労話などしなかったのですが、《望郷の思い》が感じられたのです。

滞在中、義姉に誘われて、青空市場に買物に、一緒に行ったことがありました。日系人もまばらに、そこにいたのです。一人の年配のご婦人が、ご家族と歩いて来られ、通り過ぎて行きました。この方の<背中>が、寂寞としていたのです。年配の移民の方は、労働に明け暮れて、ポルトガル語を学ぶ機会がありませんでした。息子の世代とは会話ができても、孫やひ孫との間では、言葉が障壁となって、それができないのです。それだけの理由だけではなくて、移民一世の世代の<背中>は、『寂しい!』の声で溢れていました。

老いていく父の<背中>も、意気揚々として生きていた若い頃とは違っていました。そこには《苦労した年月》の声があるようでした。鏡に映した自分の<背中>は、なかなか全体を見る事ができません。きっと、中国のみなさんに、自分も何かを見られているのでしょうね。先週、街の中央を流れる河の岸に、掲出されている「街の歴史」に石板を見ていました。1940年代を刻んだ石板には、《日軍爆撃(日本の軍隊の航空機による攻撃の事です》が何箇所かに刻まれていて、死傷者の数も記してあるのです。

そんな過去がありながら、この世代のみなさんが『哪国人neiguoren/何人(なにじん)?』と聞いてきますと、私は『中国人!』と答えるのです。すると『違うだろ!』と、にこやかに言うのです。そこを離れていく私を見送りながら、過去の事ではなく、今の事を<背中>から感じていてくれているのです。四人の子どもたちは、私の<背中>に何を聞いていたのでしょうか。

(ブラジルの国花の「カトレヤ」です)
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150年

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よく、『明治は遠くになりにけり!』と聞いていたのですが、今年は、「明治150年」だそうです。父は「明治42年」に生まれ、私は「父34才の子」で、自分が生まれたのは「明治78年」になります。ご維新後、文明開花の「明治」の御代は、随分昔だった様に、子どもの頃には感じていたのです。ところが、『まだ明治は150年なのだ!』と、今では思う様になってしまってる自分にビックリします。その反面、「明治150年」の半分以上を生きてきた自分を思うと、ちょっと複雑な気持ちがしてしまいます。

まだ丁髷(ちょんまげ)をつけて、二本差しを腰に差し、草鞋(わらじ)履きで歩き、黒船来航に度肝を抜かされたのは、そんな昔ではないわけです。高杉晋作や坂本龍馬や西郷隆盛の世代は、昨日の様に思えてしまいます。「陸蒸気(おかじょうき)」と呼ばれた蒸気機関車が、新橋と横浜間に開業したのが「明治4年(1872年)」、電灯が銀座で灯り始めたのが「明治18年(1885年)」、電話が東京と横浜間で通話し始めたのが「明治23年(1890年)」ですから、今のリニア新幹線やスマホを考えると、短時間の間に、長足の進歩を遂げたことになります。

父の家で電気洗濯機を使い始め、テレビを見始めたのが1958年頃でしたから、「明治92年」の事になります。長男が生まれたのが「明治104年」になります。父や母の祖先をたどると、どこまで遡(さかのぼ)れるのでしょうか。「大爺さん(大婆さん)」は、どんな服装で、何を食べ、何を考え、どんな仕事をして生きていたのでしょうか。大陸から渡って来たのでしょうか。それとも北方から、または南方からやって来たのでしょうか。原点は、 「エデンの園」になるのでしょうか。

一世代一世代、その祖先に会って、『お爺ちゃん!』、『お婆ちゃん!』と呼び掛けて、どんな人たちだったのかを確かめてみ たくなる時があります。父に、『準は、ヒゲを生やすと俺の親父そっくりだ!』と言われて、ヒゲをたくわえた事がありました。もう父は召された後でしたが。ところが家内にも子どもたちにも不評判で終わって、すぐに、そにヒゲは剃り落としてしまいました。祖父は、ヒゲを生やして男を主張していたのでしょうか。会った事がありませんでした。最近、父の若い頃の写真が出てきたのです。十六貫の小太りだった父とは違って、若き父は、細面(ほそおもて)の美男子だったのです。どこか兄弟四人、その父に似てるのです。まあ当然なのですが。

(明治維新後の社会を象徴する「鹿鳴館」での舞踏会です)
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春夜

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昨年末、「銀漢の譜」や「蜩ノ記(ひぐらしのき)」を書かれた葉室麟氏が、惜しまれて亡くなられました。「遅咲きの歴史小説作家」と言われ、「直木賞」を受賞したのが、五十代の初めでした。こちらを訪ねてくれた友が、『葉室麟の作品が面白いので、時間があるときに読んでみてください!』と、一冊を置いていってくれたのです。久しく小説を読んでいませんでしたが、読み始めると、興味津々で、いっぺんに読破してしまいました。

それが「銀漢の譜」でした。月ヶ瀬藩の上級武士の子と藩士の子と農民の子の友情物語で、父の仇、女への淡い思慕、秘剣、農民一揆などが描かれ、NHKの木曜時代劇でも取り上げられたりしていました。その話の中で、「蘇軾(そしょく)」という中国の北宋時代の政治家で詩人でもあった人の詩が引用されていて、実に格調ある作品で、中学生の頃に、「漢文」に魅せられてしまった私には、あの頃を思い出させる内容でした。

世の中や人間が複雑なので、漢文調の簡潔さや潔さがなんとも言えないのです。暦の上では春ですが、もうすぐ春がこようとしていますが、この蘇軾に、「春夜」という詩があります。

「春夜」  蘇軾           

春宵一刻価千金     
花有清香月有陰     
歌管楼台声細細     
鞦韆院落夜沈沈     

[日本語の読み]
春宵(シュンショウ)一刻(イッコク)価千金(アタイセンキン)
花に清香(セイコウ)有り月に阴(カゲ)有り
歌管(カカン)楼台(ロウダイ)声(コエ)細々(サイサイ)
鞦韆(シュウセン)院落(インラク)夜(ヨル)沈々(シンシン)

[詩の解釈]
春の夜の一刻は千金に価する。 
花は清らかな香りを放ち、月はおぼろにかすんでいる。 
宵の口まで歌声や管弦であんなに賑やかだった高楼もすっかり静かになってしまった。 
女子供が遊んでいた邸の中庭のぶらんこも今は静かに垂れ下がり夜は深々とふけて行く。

李白や杜甫の詩も秀逸で、有名なのですが、「蘇軾」の詩が、ここに上げた様に歯切れがよくて好きなのです。「のたりのたり」の春の宵の静けさが、心に伝わってきそうです。

このところ寒波でこう寒いと、春の訪れが待ち遠しく感じられてしまいます。ニューヨークの先日は吹雪いていて、ものすごく寒かった様です。北半球の街々が凍(こご)えてしまっているのです。この町も早暁には2℃で、今季、最低の気温です。北宋の都の「開封」ででしょうか、赴任の地での春の事でしょうか、「春宵一刻価千金」、千金ほどに素敵な「春」の到来を、私たちも待ちわびたいものです。

(北宋時代の開封の街の風景です)
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サギ

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詐欺師の哲学は、『働かないで(汗をかかないで)楽してお金を手に入れる事!』なのだそうです。私は、『大学には行かせてやる、その後は、自分の手で自分の人生を切り開いて生きていけ!』と父に言われて生き始めました。それは、『自分で汗をかきながら生きよ!』との子を思う父親からの勧めでした。

それで、学校に行ってる頃、鶏のケージ作りの電気溶接、寒風の中で道端の広告塔に糊を塗り大きな紙の貼り付け、手作業でシャベルでの穴掘り、東京駅で開業したばかりの新幹線ホームで帝国ホテルの列車ビュッフェに食材の積み込み作業、大きな貨物船の船底でシャベルで大豆を掬っては大きな布袋に入れる作業、鉄骨をクレーンにかけて移動させる補助作業、牛乳工場の市乳課でビン入りの牛乳瓶の詰まった木箱を冷蔵庫内で積み上げる作業、ポリシャーを回しモップで床を吹きワックス掛けをしたりの清掃、名画家の古典の警備、デパートの盆暮の商品の配送、高級ホテルのボーイ、そんな事をしてきました。その他に、楽そうに思える「頭脳労働」もしたのです。それは楽とは言えないで準備が大変でした。学生を教えたり、人の相談にのったり、様々な仕事をして生きて来ました。

本当に泣きたくなるほど辛いこともありましたが、学生の頃に、『プロよりも好い仕事をしてくれる!』と煽てられ、『ここに就職してくれませんか!」と誘われたりして、いい気持ちにさせられたこともありました。そんな事で《労働の快楽》を教えられ、手ずから働いてこれた事は感謝なことでした。『いい男なのに指が太すぎるね!』と言われたのは《男の勲章》だったのでしょう。

その詐欺師ですが、彼らには<詐欺訓練学校>があるのだそうです。高倉健の映画に出てきた「網走番外地」や「富山刑務所」ではありませんが、そう言った所や少年院が、その学校なのです。収監中に、何を話題に談笑するのかと言うと、<人を騙す術>を、こっそりと練磨するのです。新しい<詐欺技術>を習得して、娑婆(しゃば)に出て、それを実践活用するのです。もちろん、『二度と犯しません!』と変えられる方もいますが、多くの方が累犯(るいはん)で再び犯罪に手を染めるのだそうです。

車の鍵をなくして、スターターの「直結」の方法を、私は独学で習得した事がありました。また、ドアーを針金で開ける技術も身につけたのです。よく困ってる人のドアーを開けてあげた事がありました。電子ロックの車はまだからかった事はありません。悪用すれば犯罪でしたが、人助けだけはしてきました。2年ほど前の夏に、路上で、<換金詐欺>に家内があってしまいました。端で見ていた、その彼の手先の器用さは、天晴れ(あっぱれ)でした。

詐欺って、それほど練達して、巧みなのです。人の親切や優しさに、上手につけ込む技術です。今年の成人式での《晴着詐欺》は、実に卑怯(ひきょう)ですね。騙しのプロが食べる《人を騙したパン》は美味しいのだそうです。どんな味でしょうか。味わってみたいとは思いませんが、善良な人は、《砂を噛むような味》だと思ってしまいますが、悪人は、そんな味覚感覚は持ち合わせてないのです。一度騙して、《冷や汗》をかかせて、ギャフンと言わせてみたいものですね。あっ、『復讐は天に任せよ!』と愛読書にありました。

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この街の今朝の気温は3℃だそうです。暦の上では「春」ですが、一年で最も寒い時期です。亜熱帯で、ブーゲンべリアが咲いているのに、この寒さです。アパート群の間から見える空は、晴れて、陽が射し始めています。こういう日は寒いのでしょう。吉林省や内蒙古は、どれほど寒いことでしょう。

この家の大家さんは、エアコンを入れていてくれましたので、夏場に使う扇風機を、書庫の上にセットして、部屋の空気をサーキュレートしますと、家中が暖かくなって、「舒服shufu/気持ち良く快適」です。風邪を長引かせた私は、「中药zhongyao/中国漢方薬」のおかげで、風邪もすっかり好くなりました。『弱そうに見える奥さんが強くて、強そうな準さんが弱いのが不思議ですね!』と、この日曜日に出先で言われてしまいました。

7時前に、大きなザックを背負った中学生が、わが家の窓の下を、元気に登校(中国語ですと"上课shangke")して行きました。家内が昨日お会いしたご婦人のお姉さまの息子さんが、「不登校」しているのだそうです。ご両親が離婚してから、部屋に閉じ籠もったきりだそうで、何か深く考えているのでしょうか。早く出てこられる様に願ったところです。どこの国の家庭事情も、大きな問題を抱えているのが分ります。

陽が徐々に高くなって、だんだん暖かくなっていくのでしょう。本格的な春は、すぐそこに来ていそうです寒さの中、好い一日をお過ごしください。
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ララ

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アメリカ合衆国という国が、戦時下の遺恨を乗り越えて、すばらしい国だという事が分かった一つのことは、"LARA物資(ララ/Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)"のことを知ってからです。私の二人の兄が通っていた小学校が、火事に見舞われて焼けてしまったことがありました。その焼け跡に、大きな"ドラム缶(石油を入れる様なものではなく硬紙でできた円筒缶☞写真参照)"が、焼け跡にありました。そこには、焼け出された"脱脂粉乳"が入っていて、手ですくっては、むせる様にしてぱくついたのです。これが"LARA"の物でした。

兄たちが、昼に弁当を食べる時に、いつも出されていた”ミルク”を作っていた材料でした。私も、兄たちを追って学校に入ってから、いつ頃まで続いたか覚えていませんが、弁当の時間には、いつも"ミルク"が供されて飲んでいました。敗戦国・日本の「就学児童」の健康のために、アメリカの「篤志団体(教会が中心になっていたそうです)」が全国の小学校に贈ってくれた物だということが、だいぶ後になって分ったのです。

もちろんアメリカも、「植民地主義」で、あの"ハワイ王国"を支配下に置いてしまった様に、日本にも、虎視眈々と支配の手を伸ばしつつあったことは、歴史資料が証明しています。日本が、中国の東北部に「満州国」を建設しようとしていたのと同じものです。どの国も、そう言った強い野心があるのです。

しかし、民間団体の占領国へ「優しい心」を向けた行為は、演技ではなく、その動機は「愛」でした。「日米時時事通信社(日米タイムズ)」の編集長だった浅野七之助という、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人が音頭をとったそう ですが。今、それを思い返して、自分の成長期の体が、そう言った「愛の物資」によって形作られたことが分って、感謝の念を覚えるのです。終戦直後の1946年に始まって、1952年まで続いたのです。

同じ様に「朝鮮戦争」後の韓国に対しても、同じ様な、食糧、衣料、医薬品などの援助が行われれていたと聞きます。私は、肺炎で死にかけたのですが、"ペニシリン"が投与されて生きる事ができました。これもまた、"LARA"のお陰でした。ですから、「鬼畜米英」ではない、祝福された面があるアメリカ社会には、感謝の思いが湧いてまいります。私たちも、「日本鬼子Ribenguizi」ではない反面を持っているのです。

成長期の自分は、父母が欠かす事なく食べさせてくれたのですが、病気が癒えた後は、いつも<食欲旺盛>でした。だから、あの焦げた《脱脂粉乳》のニオイと味は、"LARA"そのもので、今も鼻と舌が、その匂いと味を覚えているのです。
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投げ銭

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見たり聞いたりした事はあっても、「した事のない行為」と言うものが、結構あるものです。ある時、周り中でしていたので、その雰囲気に、つい呑まれて、してしまった事がありました。それは、お金を紙に包んで《おひねり》にして、舞台目掛けて投げる《投げ銭(なげせん)》でした。ちょっと距離があって、舞台に届かないで、どうも誰かの頭に当たってしまった様でした。よくある事なのでしょうが、謝るに謝れずじまいでした。

それは、長野県南部、「南信」にある、大鹿村で年に春秋二回開場される、「農村歌舞伎(田舎歌舞伎)」で、その年の秋にーー観劇していた時の事でした。それを「大鹿歌舞伎」と呼んで、何年か前に映画化された事がありました。その大鹿村の「広報」に、『大鹿歌舞伎は300余年前から、大鹿村の各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。歴史の変遷の中で、江戸時代から明治時代には、歌舞伎上演の禁令は厳しく、その弾圧をかいくぐりながら、村人の暮らしの大事な核として脈々と受け継がれてきました。大鹿歌舞伎の上演が無かったのは、終戦の年などわずかであったことを考えると、大鹿村の地芝居は隔絶された立地条件とめまぐるしい社会変化の中で生きてきた村の人々の心の拠り所であり、祈りに似たものであったといえます。』とあります。

娘婿が、南信の県立高校で英語教師をしていた時に、『ぜひいっしょに観劇しましょう!』と誘ってくれて、家内と二人で駆けつけたのです。その日は、生憎雨で、屋外から体育館の屋内に舞台をかえていました。満員御礼の盛況でした。演目は、「菅原伝授手習鑑」で、村民の中から選ばれた演者によって演じられていたのです。その「寺小屋の場」は、『菅丞相(かんしょうじょう)の一番弟子・武部源蔵は寺子屋を開き、そこで丞相の一子・秀才を密かにかくまって暮らしていた。しかし、それが丞相を失脚させた時平(しへい)に露見、秀才殺害の命が下り、首実検に三つ子の一人・松王丸を寄越す。子を持たない源蔵夫婦は、仕方なくその日入門してきた教え子を身代わりに殺して首を差し出す。松王丸はそれを秀才の首だと認めて帰ってゆく。実は身代わりとなった教え子は松王丸の子で、兄弟の中で一人だけ丞相の政敵に仕えたことに報いるために、わが子を身代わりにと寺子屋に送り込んだのであった。』が大筋です。

武士の世界の「忠」に従う厳しさが、「歌舞伎」を通して、農村にまで浸透し、《日本人の心》を形作ってくてきていたのでしょう。農民や商人などが主人公ではない世界の出来事が好まれて演じられていたのです。あんな山奥で「歌舞伎」が演じ続けられてきたと言うのは、そこが《落ち武者部落》で、村民の元々の出自は、武士だったのではないのでしょうか。武士の心を忘れないための「演芸」だった様に感じてなりませんでした。

「河原乞食(かえあらこじき)」と蔑まれてきた「歌舞伎」ですが、田舎歌舞伎を観させてもらって、感動を覚えたのです。幕府禁制の歌舞演劇なのですが、密かに演じ続けてきた気概も感じられて、《古き良き日本》に触れた様でした。また観てみたい思いがあります。ここ中国にも、「京劇」だけではなく、地方都市にも伝統芸能が残っていて、四川省成都に行った時には「川劇」を観せてもらった事がありました。住んでいますこの街にも残されてあるですが、まだ観た事がありません。方言で演じるのだそうです。今度は、舞台に上手にのるように「投げ銭」を放ってみたいと思います。

(「寺子屋」 三代目中村歌右衛門の武部源蔵。文化8年(1811年)7月、江戸中村座。初代豊国画。)

上がり

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子どもの頃には、《将来の夢》と言う、『大人になったらどうしよう?』と、思ったり話したりしていたでしょうか。少し大きくなった時には、『俺、♡♡が好きだ!』と親友と、秘密を分け合ったりしていました。中学生になった時、『〇〇大学に行くんだ!』と言っていました。そして、思春期の真っ只中で、『あの子が好きだ!』と、心密かに思ったりしていたのです。高校になったら、もう何かを諦めてしまったりして、現実が見え始めていました。やっと引っ掛かった大学では、『どんな仕事に就いたらいいかな?』と考えていました。仕事の機会を得てから、しばらくすると結婚相手の事を考えたのです。そして《糟糠之妻》と出会って、何と47年も生活を共にしています。

結構好い人生を生きて来たのではないでしょうか。長くしてきた仕事を、他の人に任せて、《強い手》 に引かれて、中国にまで来てしまいました。漢語を学び、導かれた街に来て、大学で教える機会を得たり、ある健康倶楽部の活動に参加したりして、今日に至っています。この夏で《満十二年》になります。風邪で寝込むと、何人もの方が『この薬を飲んでください!』と言っては、薬をくださるし、腰が痛いと、『この薬は香港(台湾、マレーシア、家伝)の薬で、効きますから腰に塗ってください!』と持ってきてくれて、家の棚には、何種類もの薬でいっぱいです。大事に思ってくださる方たちの間で、二人で生活をしています。

今日も、久し振りの出先で、<中薬(中国漢方薬)>を処方するために、知人の親戚の中医のお医者さんが、わざわざ来てくれました。また、『今週の水曜日に会ったら、好い薬があるので差し上げますね!』と言ってくれた方がいました。話し言葉が、60%位分かるでしょうか、そんな交わりで満たされています。私の愛読書に、『近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。』と書いてあります。兄たちも弟もよくしてくれますが、 そこから離れて、ここで出会った人たちとは、私の兄弟に勝るとも、劣らないほどの交友が与えられています。

日本のプロ野球を面白くしてくれた方が、先週亡くなられました。《反骨漢》で、やや《粗暴》でしたが、《人情味》を持った人でした。会った事も話したこともない人でしたが、ほぼ同世代(弟と同学年)でした。二回りほど上の人たちが亡くなり、そして一回り上の人たちの番になり、このところは、同世代が亡くなって逝きつつあります。夢を分かち合い、友情を交わし合い、好きな娘(こ)を競い合った仲間たちの番になってきたようです。『あいつは今、どうしてるんだろう!』と話しの中で聞くと、『去年逝ったよ!』と聞いたりします。

『百まで!』と豪語してる自分の番もありそうですね。歌人の"一休さん"が、次の様に詠みました。

正月や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

生まれてから、全ての人は、避けられないゴールに向かっているのです。私の母も、そして父も、「永生」を信じて、定められた自分の生を全うしました。そんな《生命の道》があるに違いありません。《双六(すごろく)》に《上がり》がある様に、私の一生にも《上がり》があり、死も涙も苦しもない世界が待っていてくれるのです。もうしばらく生かしてもらおうと願っている、2018年最初の日曜日です。
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友情

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昨年の9月から、私たちが住み始めた小区のアパート群の各入口の左側の壁に、「雷 鋒(LeiFeng1940〜1962年)」と言う人民解放軍の兵士のイラストと一文が掲げています。毛沢東の著書を、毎日、熱心に学んだ人で、模範的な中国人(軍人)とされ、『雷峰に学べ!』とのキャンペーンが、今こちらでは再び盛んです。22歳で輸送中の事故で亡くなったのですが、身につけていた日記に、建国のための学び記されていたそうです。いわゆる「中国版道徳教育」の代表の様な人です。

日本の小学校でも、「道徳」の授業があります。5年生の教科書には、「星野君と定金君」と言う項目があって、「友情」を取り上げているのです。

『5年生になると、お互いに仲良く助け合っていこうとする仲間意識は育ってきています。しかし、自己中心的な考え方から友達の信頼を裏切ったり、相手からの一方的な友情を期待したりしているところもあります。そこで学校では、友達同士が信頼し合うことの大切さを理解させ、本当の友情、友達とは何かを考えさせていくように指導しています。』という事を目処にして授業をするそうです。

この授業のための資料の一つが、次の様なものです『星野君は、スポーツが得意な母親の影響もあり正義感の強い子どもだった。5年生に進級した星野君は、筋萎縮症で出席日数が足りず、6年生に進級できなかった定金君と同じクラスになり、定金君を背負って毎日学校へ通うようになる。教室や昼休みや放課後の運動場ではいつも一緒だった。6年生の修学旅行では、だれもが定金君の参加をあきらめていたが、星野君のはたらきかけで行くことができるようになった。そして翌年の春、修学旅行の思い出を胸に、星野君と定金君は、一緒に小学校を卒業することができた。』

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この「星野君」とは、プロ野球の選手、監督、球団取締役を歴任した星野仙一氏の事です。お父さんを病気で亡くした彼は、姉二人と、自動車工場の寮母をするお母さんの手一つで育てられ、高校大学と野球を続け、名古屋を本拠地とする「中日ドラゴンズ」の投手として活躍した方です。監督としても優秀な成績をおさめています。

彼は、『俺は二流投手だ!』と自分を認めていたのですが、昨年は「野球殿堂」入りを果たした、名投手、名監督でした。そんな星野氏の小学校時代に、一年間、体の不自由な旧友を、毎日背負って登下校をしたのです。だれにでもできることではなく、級友の定金さんは、41歳まで生き、その星野君の示してくれた「友情」に、大きな感謝を表したそうです。その「友情」を教材に、これからの子どもたちに優しさを呼び起こそうと教えているのです。

激しやすさで有名で「闘将」とまで言われたのですが、よく、福祉活動に寄進して、この社会の弱者に、優しい心を向けてこられた方でした。野球ばかりしたのではなく、そう言った面でも、社会に貢献してきた事は素晴らしいことでした。この星野仙一氏が、一昨日、亡くなりました。日本のプロ野球を面白くさせた貢献者でした。ご遺族のみなさまの上にお慰めをお祈りします。

(星野仙一氏の生まれ育った倉敷市の"市の木"の「楠木」、監督時代、中日で投手の頃の姿です)
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