背中

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日本人だけでしょうか、人は、「背中でものを言う」のだそうです。ただし<無言>のままに、何か<声なき声>を発信させているのです。と言うか、生き方とか、在り方とか、過去にどんな事があったのかなどが、背中を見てると分かってくるから、そう言った言い方をするのでしょうか。寂しそうな背中をしている人を見かけた事があります。

家内の上の兄が、高校を卒業してから、ブラジルに移民しました。『バナナが思いっきり食べられるから!』だと冗談を言っていたそうですが、異国の地で、《一旗上げる》ためでした。そして家族を呼びたかったのでしょう。農業移民で成功を夢見たのですが、契約時の話と、現地の実情とは違っていて、裏切られたのです。一緒に働いていた仲間が自死し、その墓を涙を流しながら掘って、埋葬をしたそうです。

義兄は、手先が器用だったので、ある人から<時計の修理技術>を教わって、小さな店を出します。開拓地から馬に乗ったり歩いたりして、持ってこられた時計を修理しながら、地道に働いたのです。それで広い土地を買い、大きな家を建て、サンパウロの近くの町で、移民仲間では、まあまあ成功した一人でした。私は、アルゼンチンのブエノスアイレスや、パンパ平原の街で会議があって、それに出席した事があり、その帰りに、義兄を訪ねました。

サンパウロから、車で1時間ほどのところにある街でした。義兄は、時計の修理だけではなく、時計や宝石の販売もして盛況でした。そして父母と妹をブラジルに呼んだのです。私が訪ねた時には、義父は召されていましたし、義母は娘のいるアメリカを訪問中でした。一度も帰国しなかった義兄の<背中>も、ものを言っていました。長い異国での生活で、家族がいたり、親友がいたりしていましたが、私に愚痴や苦労話などしなかったのですが、《望郷の思い》が感じられたのです。

滞在中、義姉に誘われて、青空市場に買物に、一緒に行ったことがありました。日系人もまばらに、そこにいたのです。一人の年配のご婦人が、ご家族と歩いて来られ、通り過ぎて行きました。この方の<背中>が、寂寞としていたのです。年配の移民の方は、労働に明け暮れて、ポルトガル語を学ぶ機会がありませんでした。息子の世代とは会話ができても、孫やひ孫との間では、言葉が障壁となって、それができないのです。それだけの理由だけではなくて、移民一世の世代の<背中>は、『寂しい!』の声で溢れていました。

老いていく父の<背中>も、意気揚々として生きていた若い頃とは違っていました。そこには《苦労した年月》の声があるようでした。鏡に映した自分の<背中>は、なかなか全体を見る事ができません。きっと、中国のみなさんに、自分も何かを見られているのでしょうね。先週、街の中央を流れる河の岸に、掲出されている「街の歴史」に石板を見ていました。1940年代を刻んだ石板には、《日軍爆撃(日本の軍隊の航空機による攻撃の事です》が何箇所かに刻まれていて、死傷者の数も記してあるのです。

そんな過去がありながら、この世代のみなさんが『哪国人neiguoren/何人(なにじん)?』と聞いてきますと、私は『中国人!』と答えるのです。すると『違うだろ!』と、にこやかに言うのです。そこを離れていく私を見送りながら、過去の事ではなく、今の事を<背中>から感じていてくれているのです。四人の子どもたちは、私の<背中>に何を聞いていたのでしょうか。

(ブラジルの国花の「カトレヤ」です)
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