.

.
この街の今朝の気温は3℃だそうです。暦の上では「春」ですが、一年で最も寒い時期です。亜熱帯で、ブーゲンべリアが咲いているのに、この寒さです。アパート群の間から見える空は、晴れて、陽が射し始めています。こういう日は寒いのでしょう。吉林省や内蒙古は、どれほど寒いことでしょう。

この家の大家さんは、エアコンを入れていてくれましたので、夏場に使う扇風機を、書庫の上にセットして、部屋の空気をサーキュレートしますと、家中が暖かくなって、「舒服shufu/気持ち良く快適」です。風邪を長引かせた私は、「中药zhongyao/中国漢方薬」のおかげで、風邪もすっかり好くなりました。『弱そうに見える奥さんが強くて、強そうな準さんが弱いのが不思議ですね!』と、この日曜日に出先で言われてしまいました。

7時前に、大きなザックを背負った中学生が、わが家の窓の下を、元気に登校(中国語ですと"上课shangke")して行きました。家内が昨日お会いしたご婦人のお姉さまの息子さんが、「不登校」しているのだそうです。ご両親が離婚してから、部屋に閉じ籠もったきりだそうで、何か深く考えているのでしょうか。早く出てこられる様に願ったところです。どこの国の家庭事情も、大きな問題を抱えているのが分ります。

陽が徐々に高くなって、だんだん暖かくなっていくのでしょう。本格的な春は、すぐそこに来ていそうです寒さの中、好い一日をお過ごしください。
.

ララ

.


.
アメリカ合衆国という国が、戦時下の遺恨を乗り越えて、すばらしい国だという事が分かった一つのことは、"LARA物資(ララ/Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)"のことを知ってからです。私の二人の兄が通っていた小学校が、火事に見舞われて焼けてしまったことがありました。その焼け跡に、大きな"ドラム缶(石油を入れる様なものではなく硬紙でできた円筒缶☞写真参照)"が、焼け跡にありました。そこには、焼け出された"脱脂粉乳"が入っていて、手ですくっては、むせる様にしてぱくついたのです。これが"LARA"の物でした。

兄たちが、昼に弁当を食べる時に、いつも出されていた”ミルク”を作っていた材料でした。私も、兄たちを追って学校に入ってから、いつ頃まで続いたか覚えていませんが、弁当の時間には、いつも"ミルク"が供されて飲んでいました。敗戦国・日本の「就学児童」の健康のために、アメリカの「篤志団体(教会が中心になっていたそうです)」が全国の小学校に贈ってくれた物だということが、だいぶ後になって分ったのです。

もちろんアメリカも、「植民地主義」で、あの"ハワイ王国"を支配下に置いてしまった様に、日本にも、虎視眈々と支配の手を伸ばしつつあったことは、歴史資料が証明しています。日本が、中国の東北部に「満州国」を建設しようとしていたのと同じものです。どの国も、そう言った強い野心があるのです。

しかし、民間団体の占領国へ「優しい心」を向けた行為は、演技ではなく、その動機は「愛」でした。「日米時時事通信社(日米タイムズ)」の編集長だった浅野七之助という、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人が音頭をとったそう ですが。今、それを思い返して、自分の成長期の体が、そう言った「愛の物資」によって形作られたことが分って、感謝の念を覚えるのです。終戦直後の1946年に始まって、1952年まで続いたのです。

同じ様に「朝鮮戦争」後の韓国に対しても、同じ様な、食糧、衣料、医薬品などの援助が行われれていたと聞きます。私は、肺炎で死にかけたのですが、"ペニシリン"が投与されて生きる事ができました。これもまた、"LARA"のお陰でした。ですから、「鬼畜米英」ではない、祝福された面があるアメリカ社会には、感謝の思いが湧いてまいります。私たちも、「日本鬼子Ribenguizi」ではない反面を持っているのです。

成長期の自分は、父母が欠かす事なく食べさせてくれたのですが、病気が癒えた後は、いつも<食欲旺盛>でした。だから、あの焦げた《脱脂粉乳》のニオイと味は、"LARA"そのもので、今も鼻と舌が、その匂いと味を覚えているのです。
.