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昨年の9月から、私たちが住み始めた小区のアパート群の各入口の左側の壁に、「雷 鋒(LeiFeng1940〜1962年)」と言う人民解放軍の兵士のイラストと一文が掲げています。毛沢東の著書を、毎日、熱心に学んだ人で、模範的な中国人(軍人)とされ、『雷峰に学べ!』とのキャンペーンが、今こちらでは再び盛んです。22歳で輸送中の事故で亡くなったのですが、身につけていた日記に、建国のための学び記されていたそうです。いわゆる「中国版道徳教育」の代表の様な人です。
日本の小学校でも、「道徳」の授業があります。5年生の教科書には、「星野君と定金君」と言う項目があって、「友情」を取り上げているのです。
『5年生になると、お互いに仲良く助け合っていこうとする仲間意識は育ってきています。しかし、自己中心的な考え方から友達の信頼を裏切ったり、相手からの一方的な友情を期待したりしているところもあります。そこで学校では、友達同士が信頼し合うことの大切さを理解させ、本当の友情、友達とは何かを考えさせていくように指導しています。』という事を目処にして授業をするそうです。
この授業のための資料の一つが、次の様なものです『星野君は、スポーツが得意な母親の影響もあり正義感の強い子どもだった。5年生に進級した星野君は、筋萎縮症で出席日数が足りず、6年生に進級できなかった定金君と同じクラスになり、定金君を背負って毎日学校へ通うようになる。教室や昼休みや放課後の運動場ではいつも一緒だった。6年生の修学旅行では、だれもが定金君の参加をあきらめていたが、星野君のはたらきかけで行くことができるようになった。そして翌年の春、修学旅行の思い出を胸に、星野君と定金君は、一緒に小学校を卒業することができた。』
この「星野君」とは、プロ野球の選手、監督、球団取締役を歴任した星野仙一氏の事です。お父さんを病気で亡くした彼は、姉二人と、自動車工場の寮母をするお母さんの手一つで育てられ、高校大学と野球を続け、名古屋を本拠地とする「中日ドラゴンズ」の投手として活躍した方です。監督としても優秀な成績をおさめています。
彼は、『俺は二流投手だ!』と自分を認めていたのですが、昨年は「野球殿堂」入りを果たした、名投手、名監督でした。そんな星野氏の小学校時代に、一年間、体の不自由な旧友を、毎日背負って登下校をしたのです。だれにでもできることではなく、級友の定金さんは、41歳まで生き、その星野君の示してくれた「友情」に、大きな感謝を表したそうです。その「友情」を教材に、これからの子どもたちに優しさを呼び起こそうと教えているのです。
激しやすさで有名で「闘将」とまで言われたのですが、よく、福祉活動に寄進して、この社会の弱者に、優しい心を向けてこられた方でした。野球ばかりしたのではなく、そう言った面でも、社会に貢献してきた事は素晴らしいことでした。この星野仙一氏が、一昨日、亡くなりました。日本のプロ野球を面白くさせた貢献者でした。ご遺族のみなさまの上にお慰めをお祈りします。
(星野仙一氏の生まれ育った倉敷市の"市の木"の「楠木」、監督時代、中日で投手の頃の姿です)
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