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テレビ映画が全盛期だったのは、中学生の頃でした。とくに、アメリカ物で、日本語に吹き替えた番組には、字幕を読まないで好いので、物語に入り込める様に感じて、まるで、西部の草原を牛を追ってる"カウボーイ"になってるような気持ちになって、見入っていたのです。自分が日本人であり、東京に住んでいるのを忘れて、アメリカの西部の草原や砂漠にいる様に、忘我の心境だったでしょうか。
「ララミー牧場」とか「ボナンザ」とか、「ローハイド(Rawhide)」、カウボーイではなかったのですが、<賞金稼ぎ>が主人公で、街から街へ、犯人を追って行く活劇の「拳銃無宿」などは、勉強どころではなく、朝から、夜のテレビの放映時間が楽しみでした。 その頃、母が、よく作ってくれたおかずが、「ハンバーグ」でした。肉屋で、牛肉をミンチにひいてもらって、それに微塵切り(みじんぎり)にした玉ねぎと人参を加え、パン粉と卵と調味料で練り込んだ具で、厚みのある小判の様な形に手で作り、フライパンで焼いて、トマトやキュウリやブロッコリーなどの西洋野菜をつけたり、時には、ポテトサラダを添えたりしてくれました。
カウボーイたちは、一日の仕事を終え、野営し、料理番が食事をこしらえるのです。牛肉、ポテト、豆、スープ、固いパンが、夕食に出されて車座に座って食べていたのです。これは「ローハイド」に、よく出てきた場面です。そうすると、私は、母手作りのハンバーグを、お皿の上で、形を崩して、ご飯と混ぜて、フォークで食べると、その車座の中に自分も座って、一緒に食べてる様な気持ちになったのです。ですから、私の"カウボーイ料理"、"アメリカ料理”は、形を崩したハンバーグとご飯の混ざった物でよかったのです。ドイツのハンブルグで作られた物なのに、いいんです、私の思い入れにある食べ物なのですから。
この「ローハイド」のカウボーイの隊長の名が、"ギル・フェイバー"でした。3000頭もの牛を、テキサスからミズーリーまで陸路を運ぶのです。補佐役が、若かった日のクリントン・イーストウッドの演じた"ロディー"で、彼が忠実に仕えていたのが印象的でした。面白かったのは、カウボーイ仲間が、隊長を呼び捨てすると、ロディーが、『フェイバーさんだろ!』と、"Mr(ミスター)"と言い直させる、ちょっと<日本的>な下りが、中学生の私には面白かったのです。
体育教官室の前を通って、体育館での授業に、私は行こうとしてました。『大◯は・・・』と、<先生抜き>で大声で言って通ったのを、大◯が聞いていたのです。授業が始まると、開口一番、顔を赤く激して『準、出て来い!』と言うのです。『一対一で勝負しよう!」と言うのです。バスケットボールの勝負でした。どちらが勝ったと思いますか、私でした。 この大◯先生には、好い意味で可愛がられたのです。同じ中高の先輩でした。私が高校に入った時に、県庁の職員になり、退職してしまったのです。この方は、<先輩>でしたから、<さん>呼びしてました。
結構、西部劇も、《従順》とか《リーダーシップ》とか《仲間意識を強める事》とかが学べたのを思い出します。ただの娯楽番組ではなかったので、随分と人気があったのでしょう。風呂好きの私は、カウボーイが、水場を認めて移動していき、水が貴重で、ほとんど風呂に入らない様でしたので、アメリカに行って、"カウボーイ"になりたいとは思いませんでした。でも彼らの生活ぶりは、よく分っているつもりです、はい。でも、私の""カウボーイ料理"には、味噌汁と沢庵とラッキョがついてたので、"メイド・イン・ジャパン"だったのは笑えますね。
(1887年に撮影された本物の「カイボーイ(牛追い人)」です)
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