餃子

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今日は、《月一餃子の日》で、公共バスに乗って、家内と出かけました。何時もは、2路線を乗り継いで行くのですが、"18路"の「鼓楼」のバス停で降りて歩いて、お目当の餃子店「天天」に行ってきました。日本語で「老舗(しにせ)」と言える店で、随分昔から営業を続けていて、多くの顧客を持っているそうです。今日は、牛肉白菜餃子、豚肉白菜餃子、牛肉を各一皿、それにトマトと卵のスープのつもりが、間違えて、「豚肉の内臓とトマトのスープ」を注文してしまい、それでも美味しく飲んで、お昼にしたのです。これで73元(1100円ほど)でした。

前回来た時は、隣に、娘二人に連れられたお婆ちゃんが座っていて、餃子を食べていました。・・・若かりし日、子どもたちを連れ、元気だったご主人と、家族で連れ立って、この「天天」に、よく来たのでしょう。今朝は、お婆ちゃんが、『天天の餃子が食べたい!』と言ったので、一緒に住んでいる娘が、妹に連絡して、車椅子に乗せて3人でやってきた・・・そう想像してしまったのです。親子の会話はほとんどないし、そんなに箸が進む様子はないのですが、実に美味しそうに、お婆ちゃんが食べておいででした。

帰りに家内は、この町で唯一、「納豆」の買える店に行き、3つで一包みの物を2包買いに行き、私は、「日式面包店/日本方式のパン店」に行き、フランスパン2本、食パン1斤、銅鑼焼き2個を買い、路上で待ち合わせて、バス停まで散歩して、乗って来た下り線のバスに乗ったのです。ところが、途中でバス停で乗って来た四十代ほどの女性とバスの運転手が、激しく言い争いをし始めたのです。バス停から離れた所から乗りたかった女性が、バス停で乗せたかった運転手に、乗せてもらえない腹いせで、文句をつけたのが始まりでした。

乗客の大半は、この女性に、『あんたが悪いよ!』と言って、運転手に軍配を上げていました。私たちは、『算了算了suanlesuanle/もうその辺にしておこう』と言いたかったのですが、同乗のお婆さんたちが、そう言ってました。みんな自己主張が強いのには、驚かされます。それでも南方の街では、つかみ合い、殴り合いをしないで、言葉で激しくやり合って、その後は、スッキリしてるのです。日本人は、どうも「執念深い」でしょうか。

腹の中に仕舞い込まないで、外に出してしまう「国民性」で、『なかなかいいなー』、と思ってしまうのです。いつでしたか、欧米人が、顔を真っ赤にして肩と肩をぶっつけ合いながら、顔をこすり合いながら、言い合っている光景を、映画の中で見ました。拳を使わないのに、驚いたのですが、今日の光景は、それに似ていました。

家から外に出ますと、様々なことを見聞きできます。観衆も黙っていないで、口々に何か言っていて、実に賑やかでした。落ち着いたら、シーンとして、何もなかった様に普段通りなのです。
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頂く

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昨年、手術のために入院した病院の「リハビリテーションセンター」の入口の右壁に、[苦しみを超えて]という一文が、毛筆で書かれて、額の中に収められて掲出されていました。

この詩は、ニューヨークにある「物理療法リハビリテーション研究所」の受付の壁に掲げられているものの日本語の翻訳です。これは「病者の祈り」という題でもよく知られています。南北戦争に従軍して、負傷した兵士が書き残したものだと言われています。 

私は◯に 大きなことを成し遂げるようにと強さを求めたのに、 
慎み深く従うことを学ぶようにと 
弱い者とされた
より偉大なことができるようにと 健康を求めたのに
より良いことができるようにと 病弱さをいただいた           
幸せになれるようにと 豊かさを求めたのに 
賢明であるようにと  貧しさをいただいた  

人の称賛を得られるようにと 力を求めたのに 
神の必要を感じるようにと 弱さをいただいた        

いのちを楽しむことができるようにと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを楽しめるようにと いのちをいただいた     

求めたものは 何一つ得られなかったが 
心の願いは すべてかなえられた
このような私であるにも関わらず 
ことばにならない祈りはすべてかなえられた 

私は あらゆる人の中で 最も豊かに祝福されたのだ。 

きっと、私の入院した病院のリハビリ科長か、どなたかが、その事を知って、同じ様に掲出したのでしょう。人が病んで、弱くなった時に、初めて気づく事がある様です。これまで何度も入院生活をして来た私は、ほとんどが外科関係の手術をするためでした。体にたくさんのメスの跡が残ってしまいましたが、「男の勲章」と言いたいのですが、「人間の限界」を教えられる傷痕なのでしょう。

河野進という方が、[病まなければ]と言う詩を書かれました。上掲の[苦しみを超えて]と通じるものがあって、病んで初めて知る事が多くある事を詠んでいます。そうしますと、『老いて初めて知る事がある!』と言い換える事ができそうです。一人で地球の裏側にも行けたのに、どなたかに肘を支えられて歩く様な日が、そろそろ来そうです。人に支えられて生きる事を、初めて学べるのでしょうか。最近では、家内の手や肘を取って、歩いております。次は。

(ニューヨークの州花の「バラ」です)
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