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見たり聞いたりした事はあっても、「した事のない行為」と言うものが、結構あるものです。ある時、周り中でしていたので、その雰囲気に、つい呑まれて、してしまった事がありました。それは、お金を紙に包んで《おひねり》にして、舞台目掛けて投げる《投げ銭(なげせん)》でした。ちょっと距離があって、舞台に届かないで、どうも誰かの頭に当たってしまった様でした。よくある事なのでしょうが、謝るに謝れずじまいでした。
それは、長野県南部、「南信」にある、大鹿村で年に春秋二回開場される、「農村歌舞伎(田舎歌舞伎)」で、その年の秋にーー観劇していた時の事でした。それを「大鹿歌舞伎」と呼んで、何年か前に映画化された事がありました。その大鹿村の「広報」に、『大鹿歌舞伎は300余年前から、大鹿村の各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。歴史の変遷の中で、江戸時代から明治時代には、歌舞伎上演の禁令は厳しく、その弾圧をかいくぐりながら、村人の暮らしの大事な核として脈々と受け継がれてきました。大鹿歌舞伎の上演が無かったのは、終戦の年などわずかであったことを考えると、大鹿村の地芝居は隔絶された立地条件とめまぐるしい社会変化の中で生きてきた村の人々の心の拠り所であり、祈りに似たものであったといえます。』とあります。
娘婿が、南信の県立高校で英語教師をしていた時に、『ぜひいっしょに観劇しましょう!』と誘ってくれて、家内と二人で駆けつけたのです。その日は、生憎雨で、屋外から体育館の屋内に舞台をかえていました。満員御礼の盛況でした。演目は、「菅原伝授手習鑑」で、村民の中から選ばれた演者によって演じられていたのです。その「寺小屋の場」は、『菅丞相(かんしょうじょう)の一番弟子・武部源蔵は寺子屋を開き、そこで丞相の一子・秀才を密かにかくまって暮らしていた。しかし、それが丞相を失脚させた時平(しへい)に露見、秀才殺害の命が下り、首実検に三つ子の一人・松王丸を寄越す。子を持たない源蔵夫婦は、仕方なくその日入門してきた教え子を身代わりに殺して首を差し出す。松王丸はそれを秀才の首だと認めて帰ってゆく。実は身代わりとなった教え子は松王丸の子で、兄弟の中で一人だけ丞相の政敵に仕えたことに報いるために、わが子を身代わりにと寺子屋に送り込んだのであった。』が大筋です。
武士の世界の「忠」に従う厳しさが、「歌舞伎」を通して、農村にまで浸透し、《日本人の心》を形作ってくてきていたのでしょう。農民や商人などが主人公ではない世界の出来事が好まれて演じられていたのです。あんな山奥で「歌舞伎」が演じ続けられてきたと言うのは、そこが《落ち武者部落》で、村民の元々の出自は、武士だったのではないのでしょうか。武士の心を忘れないための「演芸」だった様に感じてなりませんでした。
「河原乞食(かえあらこじき)」と蔑まれてきた「歌舞伎」ですが、田舎歌舞伎を観させてもらって、感動を覚えたのです。幕府禁制の歌舞演劇なのですが、密かに演じ続けてきた気概も感じられて、《古き良き日本》に触れた様でした。また観てみたい思いがあります。ここ中国にも、「京劇」だけではなく、地方都市にも伝統芸能が残っていて、四川省成都に行った時には「川劇」を観せてもらった事がありました。住んでいますこの街にも残されてあるですが、まだ観た事がありません。方言で演じるのだそうです。今度は、舞台に上手にのるように「投げ銭」を放ってみたいと思います。
(「寺子屋」 三代目中村歌右衛門の武部源蔵。文化8年(1811年)7月、江戸中村座。初代豊国画。)