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ヨーロッパの国の中で、「オランダ」は、日本にとって一番馴染み深い国であったに違いありません。江戸幕府が、あの「鎖国」をした時に、唯一、このオランダとの交易を許して、長崎の「出島」を「貿易港」としたのです。1621年から1847年までの227年間に、オランダ船が「700艘」ほど来航し、 出島に接岸して、貿易が行われたと言われています。
それででしょうか、長崎の異国情緒を歌った歌が多くあり、「オランダ坂」とか「オランダ屋敷」とかを聞き覚えがあります。幕末以降、イギリスやアメリカに留学を志して出かけた人が多かったのですが、鎖国下で、多くの若者たちが、日本全国から、ここ長崎に遊学して、特に「医学」や「オランダ語」や「蘭学」を学んだようです。
これ以前は、安土桃山時代から、「南蛮貿易」が行われてきていましたが、江戸幕府は、これを禁じて、海外との交流を遮断してしまうわけです。子どもの頃に、「ギヤマン」や「エレキ」と言う言葉を聞きました。英語を覚える前に覚えていたのを思い出します。
私は、19歳の時に、九州に旅行した時に、この街を訪ねた事がありました。坂道が多く、やはり異国情緒が感じられてくる様だったのは、この街の歴史を知っていたからでしょうか。「紅毛人」と呼ばれたオランダ人を見かける事はありませんでした。このオランダ人は、若い頃に出会っ方が一人いました。結構日本語も、よく話せて、大きな体の方で、にこやかにしておいででした。
幕末に青年期を過ごしていたら、この私も、長崎に出かけていたでしょうか。 「解体新書」とか「蘭学事始」とかで啓発されて、海外遊飛のを夢見る青年であったかも知れませんね。明治以降も、「お雇い外国人」の中にも、多くのオランダ人がいたと言われ、横浜で活躍した、「フルベッキ」などを知っております。
向学心に富み、新し物好きの日本人にとって、「長崎」は、世界に向かって開かれた「窓」であったわけです。ここでの学びが、「明治維新」への原動力の一つになっていたことは確かです。「東日本大震災」の折には、オランダからの支援も大くあったそうで、大平洋戦争の折のジャワ侵略で、オランダとの関係は好ましくなかったのですが、関係回復がなされてきている様です。長崎が「被爆都市」、オランダがチーズと運河と風車の都市や国だけではないのですね。
(出島のオランダ商館のオランダ人と日本人の様子です)
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