二つの駅

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この二葉の写真は、二つの駅の写真です。とても似ているのにお気づきでしょう。上の写真は、中国の遼寧省の省都・瀋陽にある「沈阳站/瀋陽駅)」で、下の写真は、「東京駅」です。似ているのは偶然ではなく、両駅ともに同じ設計者によって建てられているのです。日本統治下にあった時期に、ここは「奉天(ほうてん)」と呼ばれていて、「南満州鉄道」の本社が置かれていたそうです。その主要駅でした。

郷愁を感じられるのでしょうか、中国のみなさんの寛容さでしょうか、建て替える時に、忌まわしい過去を捨て去らないで、同じ様な形で、今も残されてあるのです。歴史に刻まれたものを大事にされているのでしょうか。大戦末期に、米軍機の空襲で、日本は焼土と化したのですが、京都や奈良の歴史的な文物や遺跡を避けたと言われています。そこには、古い中国の「洛陽」の街に模した、古い街並みや建物が残されていて、今、中国から多くのみなさんが、観光においでだと聞いています。

私の父は、その青年期に、この瀋陽駅を利用したのでしょう。生きていたら、懐かしく往時を思い出すことでしょう。何時か訪ねたいと思いながら、なかなか、その機会がありません。こちらにいる間、訪ねてみたいものです。
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口撃

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これは山梨県甲州市、旧塩山市の松里の農家の晩秋の光景を撮った写真です(岩波家)。「甲州百匁柿」の皮をを剥いて、天日干しにして作る「枯露柿(ころがき/干し柿)」です。まるでカーテンの様に、簾(すだれ)のように見えます。秋が深まるにつけ、秋空や冬空に映えて、なんとも言えないほど日本の農村特有の情緒です。

家内の好物ですが、よくできた干し柿は、目が飛び出るほどの値がつき、庶民の口には、なかなか入らなくなってきているのです。この干し柿の製造行程の途中で、商品になるのを、「あんぽ柿」と言って出荷され、高級料亭のデザートとして出るのだそうです。市販されているのは、小振りの渋柿から作っている様です。

数日前に、このアパートの入り口で、百匁柿と同じ形状の小振りの柿が、『甘いよ!』と売っていて、喜んで買って帰りました。生柿の好きな私ですから、早速洗って包丁で皮を向いて食べたのです。歯ごたえがあって、とんがった部分は甘くて美味しかったのですが、ヘタの近くの部分は、結構きつく<渋み>が残っていて、口中に広がってしまいました。もうがっかりでした。こちらのみなさんは、柔らかくなるまで待って食べる様です。

中国の柿は、渋柿が多く、平べったい「富有柿」の様な形状のものでも、渋いものが売られていて、注意しないと、<渋み>で口撃されてしまうのです。でも、今年もたくさん柿を食べました。まだ売っていますので、見つけようと思っています。こちらでは、上下に潰して作った干し柿はありますが、なぜか家内は欲しがらないのです。芸術品の様な、日本の「枯露柿」を知っているからでしょうか。
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タバコ

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映画には、「功罪」があります。《娯楽》と言う面では、ただ面白く興味深く、夢を見ている様な経験ができます。自分ではできないことを、俳優が、自分に代わって、痛快に、手際よく悪者を打ち滅ぼしてくれるのです。子どもの頃に観た東映の時代劇映画で、奉行所から役人が、悪者を召し取りに駆けつける場面で、思わず手を叩いて応援していたのを、昨日の様に覚えています。

裕次郎が、長い脚を下の方から映された映像が、スクリーンいっぱいに映されて、ほんとうにカッコよかったのです。外国映画では、まるでそこに、旅行で出かけているような錯覚さえ感じてしまいました。ジェームス・デーンの左手のー人差し指と中指の間に、タバコが挟んであって、それを口にもって行き、煙を吐いている様子は、とても美味しそうでした。こう言うのを、《疑似体験》とか《代替体験》とでも言うのでしょうか。

私は、映画を観て、タバコを吸い出したのではないのです。もう小学生の頃から、タバコをくわえていたのです。前にも書いたのですが、父は、喫煙家で、<煙草盆>を持っていて、家の畳の上に、常に置いました。そこから煙草、マッチをとって、吸い始め、灰を灰皿に入れていたのです。家にいて、庭で草取りをしてると、『準、一本点けてくれ!』と言うので、私は、父の様なしかめっ面で煙草をくわえ、マッチを擦って火をつけて、庭にいる父に渡したのです。小学生の時でした。一口が、二口に、三口になって、とうとう煙草の味を覚えてしまったのです。

でも、その悪習慣を、25歳でやめることができました。お酒も、ついでにやめれたのです。それまで、ほろ苦い日々が、私にもあったわけです。交番の前に来ると、わざと煙を、高く吐き出して通るのです。決まって、呼び止められるわけです。『君、幾つだ?煙草を吸っていいのか!』と言われるので、ポケットから《学生証》をおもむろに出して見せるのです。お巡りさんの困った顔が見たくて、何度もかやったことがありました。

6月31日は、「世界禁煙デー」だったそうですね。《百害あって一利なし》、まさにその通りです。入院中、カップラーメンを何度かくださった方が、2カートンのタバコを持って入院してきたそうです。『院内でタバコを吸ってるのを見つけたら、即退院!』と言う、高校並の規律があって、看護師さんに退院まで預けて、その決まりを守っていました。彼は、『今度こそ禁煙します!』と宣言して、家に帰って行きましたが、どっちを続けているか、ちょっと心配している、年の暮れです。
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手術

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これは、消えてしまったブログの再掲出です。今年最大の出来事は、「左腕鍵板断裂縫合手術」を、4月14日に、札幌の病院で受けたことでした。手術前後の記事で、4月15日の記事です。35日間の入院生活の最初の様子です。

12月9日の今日、術後8ヶ月が経過しています。全く痛みを感じることもなく、肩を意識せずに生活できています。執刀医、看護師、リハビリのスタッフ、差し入れをしてくれた友、見舞ってくれた息子、回復を願ってくれた兄弟たち、子どもや友人たち、そして家内に心から感謝しております。とくに、入院するに当たって、経済援助をしてくださった中国の友人たちには、心からの感謝を捧げます。

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昨日(今日は4月14日)と打って変わって、晴天の札幌の金曜日です。8時半に、JRと札幌地下鉄の駅の近くにある病院に来ました。入院の事務手続きをして、手術の担当をする看護士さんから、入院と手術について、さらに術後のリハビリや生活の仕方などの懇切な説明を受けました。医療事故を防ぐために、この病院 独自の努力をされているのが感じられ、とても安心感があります。

その後、《中国からやって来た日本人の患者(ナースステーションの一人の看護士さんがそう言ってました!)》の私に、《私が治します!》と言ってくれた担当医(中国の街からの私の問い合わせに回答してくださった医師で、この病院の理事長です)から、手術が1時間で終わる旨、説明を受けました。「骨密度」は、青年並みだそうで嬉しくなりました。

その後、病室に案内してもらい、《成田から宅配した旅行バッグ》を受け取って、着替えや本などを収納にしまいました。看護師長さんが来られ、中国から頼って来てくれた《押掛女房》の様な私を、『O医師が、◯さんが頼って入院してくれたことが、いつになく嬉しいそうでした!』、と言っておられました。水分制限は、14時までは自由とのことで、ちょっとほっとしています。昨夕、牛ステーキの全国展開をしている店で、《国産サーロインステーキ259g》を、娘が勧めてくれましたし、自分が食べたかったので奮発してしまいました。

独身時代以降、そんな《独り贅沢》をしたのは初めてのことでした。痛がるだろう自分への《なだめの御馳走》でしょうか。それで、朝昼なしでも空腹感が全くないのです。看護師の話ですと、夕方5時からの手術が終わって、麻酔がスッキリ覚めてから、夕食を取り置きしてあるので、出してくれると約束してくれています。手術着に着替えて、歩いて手術室に行くことになります。今は、午後2時前です。今日は、O医師は、何と9件の手術を執刀されるそうです。すごくタフな整形外科医師ではないでしょうか。順調なので、1時間ほど前倒しになると、言ってきました。

★ここからは、15日の朝8時20分に記します。

昨夕4時半頃に、担当看護師が迎えに来てくれ、歩いて手術室に行きました。4階の病室で意識が戻ったのは7時頃でした。手術も1時間で終わり、術後も順調とのことでした。みなさんの応援に、心から感謝しております。ありがとうございました。長男から、手術の様子を問い合わせがあったと伝えてくれました。

12年前の右腕の腱板断裂の手術の方法は、もっと時間がかかったでしょうか。あの時は、術後2日ほど、右腕を釣り挙げられて、ベッドに固定されてしまいました。看護師に『自殺者がいたんです!』と言われたほど、苦しい経験でした。それがすむと、アメフトのプロテクターをつけて、手を万歳したまま固定されていたのですが、今回は柔らかな資材の装具を着けてもいました。腹部で支える様にされています。

昨晩の夕食は、とっておいていただいた物を温め直してくれ、食べたのです。鷄肉の照り焼きとキャベツの炒めた物と薄い味噌汁と米飯でした。やー、完食してしまいました。今朝も大豆と人参の煮た物、大根の味噌汁、牛乳と米飯で、美味しくいただきました。同じ様な装具をつけた患者でいっぱいです。主治医の回診が、この後あります。午後は、何とリハビリの開始です。みなさんの愛に感謝して。

教育

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「若者」と「老人」を比較して、次の様に言っていました。

未来を見る☞☜過去を見る
これからの人☞☜これまでの人
覚える人☞☜忘れる人
上を向く人☞☜下を向く人
ピチピチ☞☜ヨレヨレ
異性が好き☞☜異性が嫌い
大食い☞☜小食い
金欠☞☜病欠
発展途上人☞☜衰退途上人
忙日閑あり☞☜暇日閑のみ

『そうだよなー!』と思ってしまいました。だからででしょうか、でも中学に入った時を、昨日のことの様に思い出すのです。父親は県立中学校から、家庭の事情で、都内の私立中学校に転校しています。この中学校は、<一高>への入学者数の多く、東京の私立では名門中学だった様です。そんな父が、私を、私立中学に入れてくれたのです。私の街で、大きなパン工場を、経営していたお父さんを持つ同級生が、同じ中学の女子部に入ったきりでした。

兄たちも弟も、街の公立中学に進んだのに、父の寵愛と期待を受けて、私は進学したのです。その学校の校長を、教育者の「鑑(かがみ)」と、父が高く評価していたからでもあったのです。そこは、<大正デモクラシー>の、日本の近代では、文化や芸術が花開いた、とても好い時代で、その時代の風の中で、独自の教育観に立った学校を建てたのです。

幼稚園、小学校、中高と、そして、<団塊(だんかい)>の進学者を受け入れるために、何年か後に、大学を併設しようとしていた学校でした。丸刈りの坊主頭で、海軍兵学校の様な、蛇腹の制服を着ました。医者や市会議員や商店主や中央競馬会関係者の子弟の中で、6年間学んだのです。

髭の生えた高校三年生と、産毛の生え立ての中学一年生が、同じ敷地の中で、過ごしたのです。次兄が高等部に、同時に入りましたので、《◯◯の弟》で、先輩に一目置かれていたのです。入学してすぐの時に、120人ほどの同級生の中から、五人が学年主任に呼ばれたのです。『しっかり勉強して、☆大を目指しなさい!』と発破を掛けられたのです。

五人のうち、誰も学校の期待に応えませんでした。三流の学校に、私は進んだのですが、その学校は、自分に一番相応しい学舎(まなびや)だったと、今も思うのです。幕末にやって来たアメリカ人医師や教師たちが、横浜と築地(つきじ)に建てた学校でした。「教育」とは、人のうちにある可能性を引き出してくれる働きですが、受けた教育は、私にもそうしてくれたのです。父や学校の期待に沿って、偉くはなれませんでしたが、これまでの歩みに満足しております。そうですね、もう「30年」、生きるつもりでおります。

年を重ねて、上述のリストの様に、マイナスばかりが残っているではなく、就学前に、重篤な病で死にかけたのに、ここまで生きて来られ、今も健康が与えられ、夢も自分には、まだあるのは、感謝なことであります。

(明治初期の「築地」の様子です)
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暖まってゆきなよ

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1974年の1月のことでした。よく聞こえてきたのが、「襟裳岬(作詞岡本おさみ、作曲が吉田拓郎、唄が森進一)」と言うフォーク調の歌でした。暦の上では「初春」ですが、まだ真冬の天気、そんな寒さの中で、聞こえてきたのです。

1 北の街ではもう 悲しみを暖炉で
もやしはじめてるらしい
わけのわからないことで 悩んでいるうち
おいぼれてしまうから
だまりとおした歳月(としつき)を
ひろい集めて 暖めあおう
えりもの春は 何もない春です

2 君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
すててきてしまった わずらわしさだけを
くるくるかきまわして
通りすぎた夏のにおい
想い出して なつかしいね
えりもの春は 何もない春です

3 日々のくらしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
かいならしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
えりもの春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
えんりょはいらないから 暖まってゆきなよ

この歌詞に、「暖めあおう」とか「暖まっていきなよ」と誘っている「暖炉」があり、暖房は、炬燵と火鉢、薪や石炭や石油のストーブ、そしてエアコンくらいしか知りませんでしたから、「暖炉」は、どんなにか暖かいかと羨ましく想像していたわけです。

古い歌に、「ぺチカ」という暖房器具が歌われて、知っていましたが、歌を聞いただけでは想像することができませんでした。満州やシベリアで使われていたもので、暖炉と調理に使われていた様です。朝鮮半島では、「オンドル」という壁や床に暖気を送って、部屋を暖める暖房の仕方ががあった様です。

子ども頃、父の家には、炬燵と火鉢があっただけで、それが標準的な日本の冬の暖房でした。それでも寒さの記憶がありません。今春、入院した札幌の病院で、子どもの頃の冬の「開拓部落」の自分の家の思い出を、食後のテーブルで、何度も聞かされました。と言うか、聞き出したのですが。窓の隙間から入ってくる雪で、朝になると寝床に雪が積もっていたとか、雪を沸かして水を作ったとか、冬の生活の大変さを聞かされたのです。でもみなさん、逞しかったのです。

もう北海道、襟裳あたりでは、「暖炉」に火が入ったことでしょうか。燃料は、薪ではなく、重油が燃やされて、部屋を暖かくしているのでしょう。そして、「暖まってゆきなよ!』と誘い合っていることでしょう。そう言えば、山形の新庄の出身の同級生が、冬の東京の寒さに凍えていたのです。東京の暖房が、十分な熱を与えていなかったからです。互いに「老いぼれ」てしまったのですが、半世紀も前の話です。横浜に住んでいる様ですが、どうしてるでしょうか。

(衛星から撮影した「襟裳岬」です)
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隙間風

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ニュースで、『はしだのりひこ、12月2日亡くなる!』と報じていました。同じ戦時下の時代の風のもとに生まれ、焼け野原から立ち上がって生きていく両親に育てられ、平和の時代に学び、経済の躍進を爆走する社会で働き、年を重ねて、後進に道を譲り、そう生きて来た同世代人の死は、やはり考えさせられるものが重く大きいのです。

"フォークソング"が流行っていた時代がありました。ヴェトナム戦争が、泥沼化していた頃に、その「反戦」の叫び声を上げて、アメリカの若者たちの間で歌われていた歌でした。それが日本の若者の共鳴を呼んだのです。私は"ノンポリ"で、『しなければならない戦争があるのかな?』などと思いながら、同世代が敵味方に別れて戦っていたので、早期終結だけを願っていました。

そんな"フォークソング"の流れの中で、1969年に、「風(歌:はしだのりひことシューベルツ、作詞:北山修、作曲:端田宣彦)」が歌われていました。

人は誰もただ一人 旅に出て
人は誰もふるさとを 振りかえる
ちょっぴりさみしくて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も人生に つまづいて
人は誰も夢破れ 振りかえる

プラタナスの枯葉舞う 冬の道で
プラタナスの散る音に 振りかえる
帰っておいでよと 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も恋をした 切なさに
人は誰も耐えきれず 振りかえる

何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
振りかえらずただ一人 一歩ずつ
振りかえらず 泣かないで歩くんだ
何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
吹いているだけ 吹いているだけ
吹いているだけ…

「難破(本来は軟派です)」なギターも、あえてやらない私でしたが、タバコを吸い、酒も飲み、恋もした青年期でした。時たま隙間風(すきまかぜ)が、心の中を吹き抜けていく様な、寂しくて、空虚な日がありました。何か泥沼に嵌って、底に吸い込まれる様な、そんな地獄への淵で、心の目が開いたのです。きっと私の魂の叫びを、母が聞き取って、その母性の無言の呼び声に、私の心が応答したのかも知れません。

それ以来、心を風が吹き抜けていく様な、"遣る瀬無い思い”をしなくなったのです。「はしだのりひことシューベルツ」が歌った、「花嫁(作詞:北山 修、作曲:端田 宣彦)」も、よく聞きました。

花嫁は 夜汽車にのって
とついでゆくの
あの人の 写真を胸に
海辺の街へ 命かけて燃えた
恋が結ばれる
帰れない 何があっても
心に誓うの

小さなカバンにつめた
花嫁衣裳は
ふるさとの丘に 咲いてた
野菊の花束
命かけて燃えた 恋が結ばれる
何もかも 捨てた花嫁
夜汽車にのって

そして「小さなカバン」を下げた女性と出会ったのです。今の家内です。その「カバン」の中に、悲しみや涙を仕舞ってもらい、封印したのです。「カバン」は、中身ごと、手の届かない何処かで処分されたはずです。

(ヴェトナムの世界遺産の「ハロン湾」です)
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相撲

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私たちの世代では、戦争で出征して、戦地で戦闘や病気で亡くなった、「父なし子(ててなしご)」が多くいました。とくに親しかった小学校での長島くんや馬場くん、高校での池宮くん、大学での今村くんなどがいるのです。赤紙で召集され、一兵卒であったり、陸軍士官学校を出て、高級士官だったりで戦死しています。叔父も、南方で不帰の人となっています。

今では、病気や事故などで、父親を亡くした子がいます。今朝、家内が、『"日馬富士"は、父なし子として育って、十六歳で、75kgの軽量体重で日本にやって来て、相撲界に入ったんだそう!』と言っていました。ニュースで聞いたのだそうです。そんな辛さを知っていて、同じ様な境遇の"貴之岩”を、特別に目に掛け、可愛いがってきたのだそうです。

横綱は、そんな彼が、<土俵に落ちている金>を拾って、強い相撲取りに大成して欲しいと思っていたのでしょう。結構我儘だった"貴之岩"に、規律と愛とが行き過ぎて、白鵬に対して無作法をする彼を叩いてしまったのが真実の様です。泥酔しての行為だったのではなさそうです。

もちろん暴力はいけません。でも横綱の心意気とか思いやりを知ると、気の毒に思えて仕方がありません。私たちの世代は、相撲取りには、特別な憧れがありました。二所ノ関一門が、私たちの街に巡業に来ました。通っていた小学校の校庭に土俵を作って、そこで勝負する相撲を見てから、兄たちと、二所ノ関部屋の力士の不安になったのです。そこには琴ヶ浜とか玉ノ海などがいたでしょうか。

当時、相撲と野球とプロレスが、<三大スポーツ>でした。サッカーの試合で気勢を上げている今日日の若者たちの様に、一喜一憂しながら取り組みや勝負に、関心を向けていました。まさに<気が踊る>と言うのでしょうか。もちろん、スポーツと言うだけではなく、<興業>と言われる、<見世物>の面を併せ持っているわけです。

以前の大相撲は、貧しいけれど、体格が大きい子どもが、誘われて入門するケースが多かったのです。その後は、大学相撲から入門するケースも増えてきていますが、かつての貧しい時代の<立身出世>の機会だったのです。ものすごい稽古量を積んでしか、這い上がることのできない、まさに実力と努力の世界です。 今では、モンゴル出身の力士の活躍が目立ちますが、豊かな時代になって、貧しさを克服しようとすることが必要ではなくなってきていますし、自分を打ち叩く様な稽古は流行らなくなっているのは事実です。近代スポーツをやってきた私たちでさえ、ビンタや拳骨は当たり前でした。連帯責任も取らされたのです。全国制覇をするレベルでしたから、とくに厳しかったのでしょう。 平和的な決着を願っています。 (大相撲の「番付」です) .

誕生日の朝顔

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今朝も、ベランダの柵の外で、朝顔が開いています。その隣に、金木犀が植えられていて、今朝は、曇っているからでしょうか、昨日の様な甘い香りがして伊豆、ほのかに香っています。先ほど、長女の主人に、"FaceTime"で、『誕生日おめでとう!』と祝福することができました。東部時間では、12月4日は明日ですが、北京時間で、そうしました。婿殿は、喜んでくれました。今年は、家族が一人増えたので、大変嬉しい年になりました。
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デザート

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この上の写真は、「シログアイ(ある地域で正月料理に使われる"クアイ"とは違います)」とか「水栗」と言われて、九州や南西諸島でも栽培されているそうです。「馬蹄(ばてい)」に似た栗ほどの大きさをしています。私たちに住んでいる街では、この時期になると、道端でカゴに入れて、量り売りで売っているのです。よく皮剥き器で薄皮を剥きながら、それを売っていいます。ほのかに甘く、梨の様な食感で、水分も結構あります。

この下の写真は、「马蹄糕matigan」と呼ばれている、食後の甘味の"デザート"で、この「水栗(马蹄)」を粉末にした澱粉質で作った、「羊羹」に似たもの(食感はゼリーの様)です。時々、いろいろな形にしたものが、中華料理に出てきます。美味しいのです。
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