手術

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これは、消えてしまったブログの再掲出です。今年最大の出来事は、「左腕鍵板断裂縫合手術」を、4月14日に、札幌の病院で受けたことでした。手術前後の記事で、4月15日の記事です。35日間の入院生活の最初の様子です。

12月9日の今日、術後8ヶ月が経過しています。全く痛みを感じることもなく、肩を意識せずに生活できています。執刀医、看護師、リハビリのスタッフ、差し入れをしてくれた友、見舞ってくれた息子、回復を願ってくれた兄弟たち、子どもや友人たち、そして家内に心から感謝しております。とくに、入院するに当たって、経済援助をしてくださった中国の友人たちには、心からの感謝を捧げます。

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昨日(今日は4月14日)と打って変わって、晴天の札幌の金曜日です。8時半に、JRと札幌地下鉄の駅の近くにある病院に来ました。入院の事務手続きをして、手術の担当をする看護士さんから、入院と手術について、さらに術後のリハビリや生活の仕方などの懇切な説明を受けました。医療事故を防ぐために、この病院 独自の努力をされているのが感じられ、とても安心感があります。

その後、《中国からやって来た日本人の患者(ナースステーションの一人の看護士さんがそう言ってました!)》の私に、《私が治します!》と言ってくれた担当医(中国の街からの私の問い合わせに回答してくださった医師で、この病院の理事長です)から、手術が1時間で終わる旨、説明を受けました。「骨密度」は、青年並みだそうで嬉しくなりました。

その後、病室に案内してもらい、《成田から宅配した旅行バッグ》を受け取って、着替えや本などを収納にしまいました。看護師長さんが来られ、中国から頼って来てくれた《押掛女房》の様な私を、『O医師が、◯さんが頼って入院してくれたことが、いつになく嬉しいそうでした!』、と言っておられました。水分制限は、14時までは自由とのことで、ちょっとほっとしています。昨夕、牛ステーキの全国展開をしている店で、《国産サーロインステーキ259g》を、娘が勧めてくれましたし、自分が食べたかったので奮発してしまいました。

独身時代以降、そんな《独り贅沢》をしたのは初めてのことでした。痛がるだろう自分への《なだめの御馳走》でしょうか。それで、朝昼なしでも空腹感が全くないのです。看護師の話ですと、夕方5時からの手術が終わって、麻酔がスッキリ覚めてから、夕食を取り置きしてあるので、出してくれると約束してくれています。手術着に着替えて、歩いて手術室に行くことになります。今は、午後2時前です。今日は、O医師は、何と9件の手術を執刀されるそうです。すごくタフな整形外科医師ではないでしょうか。順調なので、1時間ほど前倒しになると、言ってきました。

★ここからは、15日の朝8時20分に記します。

昨夕4時半頃に、担当看護師が迎えに来てくれ、歩いて手術室に行きました。4階の病室で意識が戻ったのは7時頃でした。手術も1時間で終わり、術後も順調とのことでした。みなさんの応援に、心から感謝しております。ありがとうございました。長男から、手術の様子を問い合わせがあったと伝えてくれました。

12年前の右腕の腱板断裂の手術の方法は、もっと時間がかかったでしょうか。あの時は、術後2日ほど、右腕を釣り挙げられて、ベッドに固定されてしまいました。看護師に『自殺者がいたんです!』と言われたほど、苦しい経験でした。それがすむと、アメフトのプロテクターをつけて、手を万歳したまま固定されていたのですが、今回は柔らかな資材の装具を着けてもいました。腹部で支える様にされています。

昨晩の夕食は、とっておいていただいた物を温め直してくれ、食べたのです。鷄肉の照り焼きとキャベツの炒めた物と薄い味噌汁と米飯でした。やー、完食してしまいました。今朝も大豆と人参の煮た物、大根の味噌汁、牛乳と米飯で、美味しくいただきました。同じ様な装具をつけた患者でいっぱいです。主治医の回診が、この後あります。午後は、何とリハビリの開始です。みなさんの愛に感謝して。

教育

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「若者」と「老人」を比較して、次の様に言っていました。

未来を見る☞☜過去を見る
これからの人☞☜これまでの人
覚える人☞☜忘れる人
上を向く人☞☜下を向く人
ピチピチ☞☜ヨレヨレ
異性が好き☞☜異性が嫌い
大食い☞☜小食い
金欠☞☜病欠
発展途上人☞☜衰退途上人
忙日閑あり☞☜暇日閑のみ

『そうだよなー!』と思ってしまいました。だからででしょうか、でも中学に入った時を、昨日のことの様に思い出すのです。父親は県立中学校から、家庭の事情で、都内の私立中学校に転校しています。この中学校は、<一高>への入学者数の多く、東京の私立では名門中学だった様です。そんな父が、私を、私立中学に入れてくれたのです。私の街で、大きなパン工場を、経営していたお父さんを持つ同級生が、同じ中学の女子部に入ったきりでした。

兄たちも弟も、街の公立中学に進んだのに、父の寵愛と期待を受けて、私は進学したのです。その学校の校長を、教育者の「鑑(かがみ)」と、父が高く評価していたからでもあったのです。そこは、<大正デモクラシー>の、日本の近代では、文化や芸術が花開いた、とても好い時代で、その時代の風の中で、独自の教育観に立った学校を建てたのです。

幼稚園、小学校、中高と、そして、<団塊(だんかい)>の進学者を受け入れるために、何年か後に、大学を併設しようとしていた学校でした。丸刈りの坊主頭で、海軍兵学校の様な、蛇腹の制服を着ました。医者や市会議員や商店主や中央競馬会関係者の子弟の中で、6年間学んだのです。

髭の生えた高校三年生と、産毛の生え立ての中学一年生が、同じ敷地の中で、過ごしたのです。次兄が高等部に、同時に入りましたので、《◯◯の弟》で、先輩に一目置かれていたのです。入学してすぐの時に、120人ほどの同級生の中から、五人が学年主任に呼ばれたのです。『しっかり勉強して、☆大を目指しなさい!』と発破を掛けられたのです。

五人のうち、誰も学校の期待に応えませんでした。三流の学校に、私は進んだのですが、その学校は、自分に一番相応しい学舎(まなびや)だったと、今も思うのです。幕末にやって来たアメリカ人医師や教師たちが、横浜と築地(つきじ)に建てた学校でした。「教育」とは、人のうちにある可能性を引き出してくれる働きですが、受けた教育は、私にもそうしてくれたのです。父や学校の期待に沿って、偉くはなれませんでしたが、これまでの歩みに満足しております。そうですね、もう「30年」、生きるつもりでおります。

年を重ねて、上述のリストの様に、マイナスばかりが残っているではなく、就学前に、重篤な病で死にかけたのに、ここまで生きて来られ、今も健康が与えられ、夢も自分には、まだあるのは、感謝なことであります。

(明治初期の「築地」の様子です)
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