25日の朝顔

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昨日今日と、こちらは暖かいのです。昨日は23℃もあったですし、今日も15℃ほどあります。それで、ベランダの手すりの朝顔が、少し開きかけています。開くには、気温が足りないかも知れませんね。もう一つ蕾があるのですが、どうでしょうか開いてくれたら大喜びなのですが。先ほど久しぶりに、散歩してきました。吹く風は冷たいようです。
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来福

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夕べは咳がひどくて寝眠れないほどでした。ウトウトとすると咳が出て、そうすると痰までが出てくるほどで、《泣きたいほど》でした。今朝起きて、着替えをしたのです。何と、昨日取り入れた靴下(黒と白の格子模様)の中に、《蜂(大型ですから"スズメバチ"でしょうか)》がいて、左足の親指の付け根を、嫌という程に刺されてしまったのです。すぐに、"ムヒ"を塗ったのですが、まだ痛みが取れません。

これを、まさに「泣きっ面に蜂」と言うのでしょう。子どもの頃に、蜂の巣を突っついて刺された事が何度かありましたが、ずいぶん久し振りで、中国に来て経験するとは思いもしませんでした。前に住んでいた小区の5階の家の外壁に、スズメバチの巣を見つけ、2回も落とした事がありましたが、 昨日は、<年の瀬>なのに、23℃も気温があったからでしょうか、蜂の巣と似た白黒で、柔らかな靴下を巣と勘違いしたのか、「かくれんぼ」をしていて、入ったのか、災難でした。どこか近くに巣がありそうですね。

「転んでもただでは起きない」で、中国では、「泣きっ面に蜂」とか「弱り目にたたり目」を何というか調べて見ました。"屋漏更糟连夜雨(雨漏りしてるのに連夜の雨)"、"船迟又被打头风(船が遅れてるのに向かい風が吹いている)"、"祸不单行(禍<わざわい>が重なってやってくる)"と辞書にありました。あいにく中国人の友人に聞いて確かめていません。家内が、干した 洗濯物を取り入れる時は、注意深く点検 していますが、雑な私はしないのです。

でも、人生、風邪や蜂に刺される事、雨や嵐の日ばかりではありません。今まで、治らなかった風邪や引かなかった痛み、止まなかった強雨も大嵐もないのですから。「災い転じて福となす(禍に遭ってもいつか祝福に変わる時が来る)」のです。中国語では"转祸为福zhanhuowei"で、意味は同じです。今日も暖かで、「小春日和(こはるびより)」ですね。
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手児奈

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私の最初に勤めた職場の母胎が、都内の市ヶ谷の駅のそばにありました。週一で、八王子から電車で、ここに出掛けて、新聞の一つの覧を担当してさせてもらっていたのです。その機関誌の編集をしていた方が、千葉県の市川から通っておいででした。お寺の住職をしながら勤務されていて、若い私を誘っては、神楽坂などの料理屋で、お酒をご馳走してくださったのです。とても好い人でした。

万葉集に、「真間の手児奈(ままのてこな)」のことが歌われています。

葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。)

語り伝えられている「手児奈」の物語りは、次の様です。

 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、菖蒲(しょうぶ)や葦(あし)がいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、飲み水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青い襟(えり)のついた、麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ、履物もはかないのに、上品で、満月のように輝いた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しく見えました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔や姿を写して見ますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足(はだし)や、白い手に傷がつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈の噂(うわさ)はつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやって来ては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、髪にかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。その様子は、夏の虫が明かりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と言いながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈の涙も小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。(市川市ホームページから)

この「亀井院」の住職が、この人だったのです。一度も、そこを訪ねる事がなかったのですが、「万葉の代(よ)」の人々は去り、景観は変わっても、語り伝えられた物語は、人から人へと残されているのです。

(市川市の市花の「バラ」です)
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