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皇后の美智子さまには、そばでお世話をされた方が何人かおいででした。その中に、神谷美恵子さんがいました。この方は、精神医学の医者で、ハンセン氏病患者の島、「長島愛生園」で、青年期に奉仕をされ、後に、そこで精神科医長をされています。「生きがいについて」と言う著書も表しておられ、皇太子妃として過ごされる美智子さまのお話の相手をされ、適切な助言を、神谷美恵子さんが話されていたそうです。
いわゆる「平民」から、皇太子妃として嫁がれたので、皇族や爵位を持つ人たちから、それに迎合するマスコミから、《手酷い扱い(「いじめ」でした)》 を受けますが、美智子さまをかばったのは、昭和天皇だったそうです。何よりも旧習にとらわれずに明仁皇太子が、愛し支えたのだそうです。その苦しみを理解し、適切な助けを神谷美恵子さんから受けられたのです。
雲上人の別世界の<針の筵(はりにむしろ)>の様な上で、よく耐えられたというのが、美智子さまの凄さなのでしょう。私の家内なら、『何言ってんのよ。おとといおいで!』と言えたかも知れないのですが、流産、失声症などの精神的な苦痛を経験されて、よく皇太子妃、皇后として、今日まで過ごしてこられています。
どこの王妃や大統領夫人よりも、優れた気品を身に付けておいでで、実に楚々とし、また華々しくもあります。この美智子さまのそばで、お世話をした方に、もうお一人いました。東宮女官として、天皇家に30年もの間仕えた和辻雅子さんです。ご主人が亡くなった後、1979年に、宮内庁からの要請で、その任に就かれたのです。とくに美智子さまの信頼が厚かったそうで、その働きをとても喜ばれたそうです。
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この雅子さんのご主人、和辻夏彦さん(哲学者の和辻哲郎の長男)と、私は知り合いでした。「道徳研修会」が、高野山で持たれた時に、事務方の仕事でご一緒したのです。宿坊の 近くの茶所の「胡麻豆腐」が好きで、その会期中に何度もご馳走になったのです。それ以降、その職場を退職し、都内の学校で働き、アメリカ人起業家の助手になってから、ご自分が教壇に立っていた大学や、法人の監査をしていた私立高校を紹介してくれて、東京に戻って来る様に勧めてくれたのです。
この人なりに私の将来を、実の息子の様に案じてくれたのです。それ以降、忙しさにかまけて、恩義を忘れて疎遠になってしまったのは、申し訳なかったなと思って反省しております。また残された奥様が、そんな大切なご用をされていたのを知らなかったのです。中国に住むことなど、あの頃は思いもしなかったのですけれど、不思議な今があります。好い出会いがあったことを思い返して感謝しております。
(若かりし日の美智子さまと、和辻家のあった藤沢の鵠沼海岸です)
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