手児奈

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私の最初に勤めた職場の母胎が、都内の市ヶ谷の駅のそばにありました。週一で、八王子から電車で、ここに出掛けて、新聞の一つの覧を担当してさせてもらっていたのです。その機関誌の編集をしていた方が、千葉県の市川から通っておいででした。お寺の住職をしながら勤務されていて、若い私を誘っては、神楽坂などの料理屋で、お酒をご馳走してくださったのです。とても好い人でした。

万葉集に、「真間の手児奈(ままのてこな)」のことが歌われています。

葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。)

語り伝えられている「手児奈」の物語りは、次の様です。

 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、菖蒲(しょうぶ)や葦(あし)がいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、飲み水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青い襟(えり)のついた、麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ、履物もはかないのに、上品で、満月のように輝いた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しく見えました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔や姿を写して見ますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足(はだし)や、白い手に傷がつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈の噂(うわさ)はつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやって来ては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、髪にかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。その様子は、夏の虫が明かりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と言いながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈の涙も小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。(市川市ホームページから)

この「亀井院」の住職が、この人だったのです。一度も、そこを訪ねる事がなかったのですが、「万葉の代(よ)」の人々は去り、景観は変わっても、語り伝えられた物語は、人から人へと残されているのです。

(市川市の市花の「バラ」です)
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