三年振りに

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居間の円テーブルに向かって座り、日本茶(「伊藤園抹茶入り緑茶」とティーバッグに印刷してあります)を飲みながら、十九階の娘の家の窓越しに、海を眺めています。大型の貨物船が三艘、錨を下ろしているのが見えます。雲り空で気温は、それほど高くありません。時間がゆったりと流れている、赤道直下の午後であります。街中から外れた海沿いの住宅地なのですが、三年ぶりの訪問で、この窓から見える風景を、新しいビルが邪魔をしているのが、少々残念でなりません。

街は,<生き物>なのでしょうか、時間と共に、どこの街も変わってしまいます。実は,この海の向こうに陸地が見えるのですが、そこはインドネシアなのです。今朝、娘が出勤する前に、『今日は<ヘイズ(煙霧)>があるかも知れないよ!』と言って出かけて行きました。この時期に、インドネシアの農村や山村で、<焼畑>をしていて、その煙が、海峡を挟んだ対岸から吹き込んで来るのです。両国の政府間で話がなされているのですが、一向に改まらないで、昔のまま同じような問題で、ここシンガポール住民は苦しんでいるようです。

どんなものか聞いてはいましたが、実体験できるかも知れないと思って、海と船と対岸に目やっているのですが、海岸の樹木の葉が揺れているのが見えますが、風向きが反対に吹いているのでしょうか、やって来ません。考えようによれば、伝統農業の一つの風物詩なのでしょうけど、工業化したこの国のみなさんにとっては、<公害>に違いありません。

日本のある地方では、<野焼き>というのをするそうですが、化学肥料などなかった時代には、こうやって農業を営んできたのですから、自然農法としては価値がありそうです。対岸の島では、何が植え付けられているのでしょうか。きっと芋とかモロコシなどかも知れません。

赤道直下で飲む緑茶も、随分と美味しいものです。お昼には、娘が買って冷蔵庫に入れておいてくれた、もろ味噌、梅干し、明太子、そして昨晩の残りの<チキンライス>の残りの鳥肉と野菜サラダで、家内と二人で済ませました。私たちにとっては、極上の<日本料理>と言えます。ここには長男家族も休暇で来ていて、昨日今日と一緒に過ごしております。二人の孫が大きくなって、聞き分けが好くなっていて、ジジババ気分も楽しませてもらっております。好いものです。『もう一杯!』と言った気分です。

(写真は、WMによる「シンガポール」です)

港街

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先週の土曜日、この街と台湾を結ぶ航路の港街に行ってきました。中国語では「码头matou」と言いますが、「波止場」と言うのが一番でしょうか。何度も訪ねたことがありますが、海峡を挟んで航路が再開した後は、まだ港がどこにあるのかが分らずにいました。それで、いつか台湾に船で行くことがあることを考えて、下調べに行ったのです。バスの発着場所、発車時間、所用時間などを調べました。小一時間ほどの公共バスでしたが、一停留所区間も、35ほどの停留所を経て終点までも、同じ<一元>で、日本円で16円程でした。この料金は、この8年も変わりません。公共料金が安いのが、この国の特徴でしょうか。

安いと言えば、お米も安いのです。生活必需品は、安く抑えられていて、パンなどは、日本並みの値段ですから、社会の弱者への優しい配慮があるのでしょう。さて、そこは、かつての軍港で、フランスとの間で海戦が行われたと言う歴史的な街です。前回行った時には、「海軍記念館」に入って見ました。日本の海軍との交流もあったようで、日本海軍の将官の写っている写真も展示されてありました。

イギリス海軍に倣っているそうですので、街中にイギリス風の建物が残っているかと思って、キョロキョロして見回しましたが、バス通りの主要道路からは、何も見つけることができませんでした。30階もあるアパート群が立ち並んだ箇所もあり、おおきな造船所があり、また水産卸会社が並ぶ所もあり、なかなか活気に溢れていました。お国柄でしょうか、取引のための「競(せり)」は行われていないようで、どのように海産物が捌かれるのかと思ってしまいました。何時か聞いてみたいものです。いわば近隣の「台所」と言った所なのでしょう。

そういえば、中国の海軍だけではなく、日本も、イギリスに倣ったと言われていました。私のひいじいさんは、技官将校として、イギリスに留学をしたと、父に聞いたことがありました。どんな人だったのでしょうか。この方があって父がおり、私があるわけです。何時も思うのですが、山の中で生まれたのに、海が恋しい気持ちが強烈にあると言うのは、こう言った背景があるからなのでしょうか。二つ違いの弟も、同じ所で生まれていますので、そんな思いがあるか、今度会った時には聞いてみようと思っています。炎天下を訪ねた港街の乗船場は、船が出た後で、ガランとして誰もいませんでした。

(写真は、この港の夕焼け風景です➡︎百度より)

違いを知ること

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日本人には、「対人恐怖症」が多くみられるのだそうです。これは全員が、そうだというのではなく、一般的な傾向として、民族としても、文化や地域性によっても、独特にみられることのようです。人の前に立つ時に、異常に緊張してしまう、あの、『あがってしまって、何を言って好いのか分らなくなって、頭が白くなってしまったんです!』とよく聞く、あの現象です。『家の恥にならないように!』と言う要求が、日本の社会の中にあって、言動に注意し過ぎて、緊張してしまうことが多くあるようです。

もちろん大胆で、物怖じせずに、何でもはっきりと言える人もいますし、自由に人前で振る舞える人もおいでです。表面的には、そのように見えても、心の中では、とても緊張型で、『手のひらに人と書いて、それを飲み込みなさい!』、『人を大根か人参にように思ってしまいなさい!』と言う、対処法があるのだそうです。ちょっと、<咒(まじな)い>のようですが。

これが昂じてしまうと、人の視線がいつも気になり、赤面したり、喉がカラカラになったり、声が上ずったりしてしまいます。この傾向は、日本人の自分にもあると思うのです。ヨーロッパの教育のように、何かにつけて、『あなたは、どう思うのか?』と問われて、みんなの前で、はっきりと自分の思いや考えを主張できることを、求められて学ばなかった日本人は、それを苦手とするのだろうと思うのです。

これを、精神医学的には、「文化依存症候群」と言うそうです。先ごろ、お隣の韓国で船の沈没事故があって、大勢の犠牲者を出しました。そのご遺族の方の悲しみとも、怒りとも、絶望とも取れる様子が、映像で見られました。『アイゴーアイゴー!』と激しく泣き叫んでいたのです。私には、韓国人の級友や友人がいまして、尊敬している人が多くいます。物静かな日本人に比べて、感情の表現が豊かだと思ってきました。これは、嫌韓で記すのではありません。この韓国のみなさんの一般的な傾向を、文化的に見ると、「火病」と言い、「文化依存症候群」なのだそうです。おもに引っ込み思案の女性に見られる傾向だそうです。

ヨーロッパ人にも、アメリカ人にも、アフリカ人にも、東南アジア人にも、この「文化依存症候群」が、それぞれ特徴的に見られると言うのです。グローバル化して、国際交流が頻繁になっている現代、違った地域や文化や民族の中にある違いを知ること、人や民族性の特徴や傾向を知ることは、好い交流のために、大切なことに違いありません。

高麗

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日本の山に、「駒ケ岳」と呼ばれる山が、20もあります。例えば、甲斐駒ケ岳、秋田駒ケ岳、木曽駒ケ岳、会津駒ケ岳などです。これって、「駒」が「馬」のことであることから、馬に似た山容を見せていて、そう命名されたのだろうとしています。また「独楽(玩具のコマ)」に似てるからとも言われるのです。さらに、ある民俗学者は、他の説を主張しておいでです。

この駒ケ岳の「こま」ですが、日本語の中には、山だけではなく、他にも使われているのです。例えば、狛、高麗、巨摩、独楽などの漢字表現があります。よく地名などに用いられているようです。東京には駒沢、駒場、駒込があります。駒口、駒山、狛江、狛犬(神社の門前の左右に対になって置かれている石像)、高麗人参、北巨摩、南巨摩、佐世保独楽(郷土玩具)などがあります。

これらの地名、山名、物産名 地域名、玩具名などの呼び方の元は、「高麗(こうらい/こま)」に由来していると、宮本常一が推論しています。そうです、朝鮮半島に、紀元900年代に起こり、高句麗、百済、任那、新羅などを統一し、474年間も統治し続けた国の名なのです。この「高麗」は、五世紀ごろには、そう呼ばれ始めていて、「高句麗」と関係があります。民族的に言いますと、渡来によって、漢族と満州族(女真族)と土着の民とによって形成されているそうです。

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その「高麗」から渡来した人たちによって、日本の文化や産業が形成されていると言うのが、大方の定説です。そうしますと、日本に帰化した朝鮮半島の人々が、古里の地名に因んで、さらには古里を懐かしんで、望郷の思いから、地名や物の名に「こま」を当てたのだと言うのです。そうだとするなら困らないで好いのです。

戦乱を逃れて、中国の東北部から、朝鮮半島へ、さらに海を渡って日本列島に渡来した人が、混交しながら、主な日本人を形成し、文化も稲作も機織りも、その流れの中で伝わったのでしょうか。上海から東シナ海を渡り、五島列島、玄界灘、瀬戸内海を経て、大阪の間を結ぶエンジン機関船で何度か行き来をしました。はるか昔は、大型の丸木舟に帆を上げて、危険の中を島から島へと渡来して来たのでしょう。大変だったろうと思うのですが、何か「古代の浪漫」を感じてしまいます。そう言った人たちの末裔が、私なのだからです。

(写真は「高麗青磁(yahooより)」、下は「満族の子どもたち(満州写真館より)」)

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『中国で、食べてばかりいる!』、と思っておいででしょうね。そうなんです、よく食事に招かれたり、招いたりして、食べています。<食の大切さ>こそ、中国五千年存続の中心点なのではと感じております。『生きるために食べる!』、『生きているから食べられる!』、『食べて生かされる!』のでしょう。健康だから、食べることができ、その健康を支えるために食べているのが、私たち人間に違いありません。

こちらのみなさんは、ついでに食べているようなことは決してありません。食べることや食欲を軽視したり、蔑視したりもしません。気取らないで、美味しく楽しく食べているのです。<食>が<生>の一つの中心なのです。大いに賑々しく食卓を囲んで、よく声高に喋り、朗らかでー話題豊富で、自己主張しながら、何時も隣席に気を配っています。食卓の上に運ばれた、大皿に盛られた料理を、囲んでいる全員が、自分の取り分を、全員のことを考えながら、小皿に取って食べています。私たちがモタモタしてると、自分のをさて置いて、小皿に取ってくれ、『食べろ!』と言います。

多く取っても、何度取っても意に介しません。一人一人の決めを尊重するのです。しかし恥ずかしい思いをしないために、剣を喉に当てているのです。私は、そうしていますし、みなさんが、そうされておいでです。こういった席で、子どもたちは、自分の好きな物を独り占めしないで、周りに配慮するように学ぶんでしょうか。

華南では、よく糯米(もちごめ)を食べます。一昨日の宴会では、具沢山の<混ぜ御飯>が供されました。糯米の粘りと具が好く合っていて、大変美味しかったのです。食材や味付けが似ていて、日本人好みの料理が多いのです。有名な<広東料理>に味などが近いようです。

最近、わが家では「ハンバーグ」を作って、お客さまをもてなしています。母伝授の作り方で、手製のソースの中で煮込むのです。子どもにも大人にも好評です。 お出でになられたら,ご馳走しましょう。どこの国にも、<民族料理>や<郷土料理>があります。その土地その土地、土地柄にあった食材が用意されていて、その家庭その家庭に美味しい調理法があって、伝統料理や家庭料理が出来上がるのです。明日の英気を養うのも、そんな料理を食べてでしょうか。

(写真は、アワビの養殖場です➡︎百度より)

「満月酒」

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私たちの住む街から、中国版の新幹線に乗って一時間半ほどの所に、昨日は日帰りで出掛けて来ました。麦わら帽子を被り、お祝いを持って、カンカン照りの中でした。こちらでは、赤ちゃんを「宝宝baaobaow)」と呼ぶのです。この「宝宝」を、私の教え子が出産して、祝福の行事をするとのことで、招かれて行ってきました。

お祝いに駆けつけた親族のみなさんが、次々と、この「宝宝」のいる部屋に入って来て、顔を覗き込んではニコニコと誕生を祝しておいででした。『父の兄の・・・』、『祖父の妹の・・・』と紹介されて、親族、家系の繋がりの強さを思いっきり感じさせられました。中国語には、父方の祖父には祖父の名称が、母親の叔母の娘には娘の名称が、それぞれ実に明確な呼び方があるのです。

この親族の間での、<男児>の誕生は、<姓>を継承するのですから、家系を重んじる中国の地方都市で生きて来られた一族にとっては、まさに<宝物>なのです。この「宝宝」が誕生して三十日の<お祝い>でした。ところが、まだ名前が決まっていないのだそうです。私たちの四人の子どもたちは、家内のお腹にいる間から、思案しながら、『ああでもないこうでもない?』と決めたのとは違うのが、興味深かったのです。『「木偏」の付く漢字を入れなければならないのです!』と言っておられ、『付けていただけますか!』と言われたのですが、『お二人が決めるのが一番!』と言って辞退しました。

祝福の宴には、二百人ほどが招かれ、借り切ったレストランの幾つものテーブルを、この「宝宝」と血縁のある両親の父母、祖父母の兄弟姉妹やオジやオバや甥や姪などが一堂に会していたわけです。この、まだ名のない「宝宝」を、家内は『タロウちゃん!』と呼んでいたのです。贈られた真紅の頭巾を被り、同色の嬰児服を身に纏い、首に金のネックレス、手首にも金の腕輪をしていたのです。これが<正装>なのだそうです。

この「タロウちゃん」の成長と健康、ご両親やご親族の祝福を願い、宴の途中でしたが、電車の時間もあって、教え子の弟さんに車で駅まで送ってもらい、車中の人となりました。この行事を、「満月酒」というのです。とても好い一日でした。また少し中国のみなさんの様子を知ることができました。

(写真は、「満月酒」の主役の「宝宝」です)

うな丼

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今日は、しきりに「うな丼」が食べたいのです。きっと「土用の丑(うし)の日」が近くて、お腹が何かを感じているのかも知れません。検索してみましたら、今年は<7月29日>だそうです。<腹時計>に、一週間ほどの誤差がありましたが、結構近いので驚いてしまいました。『よく食べた!』と見栄を張りたいのですが、偶にしか食べませんでした。

何時でしたか、天竜川の河畔にあった、「鰻屋」でご馳走して頂いたことがありました。川の流れを眺めながらだったからでしょうか、旧友と再会したからでしょうか、本当に美味しかったのです。結構、値の張った物だったのでしょう。どこでも<特上>を食べれば,満足できるのかも知れませんが,<並>だと、『食べた!』だけで、舌鼓を打つまではいかないのかも知れません。

食道楽の父でしたが、鰻を宅配してもらって食べたことはなかったと思います。子どもの頃に住んでいたあの街には、寿司屋はあっても、鰻を焼いて出す店はなかったのです。台湾では、輸出用に養殖をしていて、何時だったか、お客さんにもらったと言って、真空パックのタレ付きの焼き鰻を頂いたことがありました。期待したのとはちょっと味が違ったのですが、感謝して食べました。

こちらでは「鰻魚manyuマンイイ」と呼んで、ぶつ切りの料理が出されてきます。頂いたことがありますが、開いて、骨を抜いて、醤油に漬けながら、備長炭で団扇を使いながら焼き上げた、あの日本式の鰻の味が忘れられないので、ちょっと残念でした。誰が、あんな風に調理し始めたのでしょうか。「日本料理」が、世界文化遺産に登録されるのは、『もっともだなあ!』と思うのです。繊細で、手が混んでいて、持ち味を生かし、美しいのです。<匠(たくみ)の味>と言うのでしょうか。

『食べたい!』 のは、食いしん坊だからだけでなく、健康だからでしょう。と言うことで、今度帰ったら、誰かに期待しないで、自前で食べようと思っています。父が入院中に、『食べたい!』と言ったので、神田まで行って買って、父に届けた、あの父の贔屓(ひいき)の「鰻屋さん」に行ってみましょう。そう言えば、今年の一月の帰国時に、長女と次男と家内の四人で、食べていました。

(写真は、美味しそうな「うな丼」➡︎WMより)

孤児

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1955年(昭和30年)に、作詞が宮川哲夫、作曲が利根一郎、歌が宮城まり子で、「ガード下の靴みがき」と言う歌が世に出ました。

1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない

(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」

2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ

3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ

これは、戦争後の子どもたちの哀感を歌った歌です。少なくとも上の兄たちは、この靴磨きの少年と同じ世代で、上野や新宿や立川の駅頭で、靴磨きをしていても不思議ではありませんでした。ところが兄たちや弟や私には、実の両親がいましたし、当時は、中部の山の中で生活をしていたので、このような境遇とは無縁で、恵まれていたわけです。

父は、鉱山技術を学んでいて、国内ばかりではなく、朝鮮や満州に、技師として働いていましたから、所帯を外地で持っていたら、終戦を、遼寧省で迎えてたかも知れません。そんな可能性があったのですから、二人の兄と私は<残留孤児>になっていたことだってありそうです。靴磨きの少年の様子を、ぼんやりと思い描きながら、この歌を聞き、口ずさんでいたのを思い出すのです。

この少年たちは、自活していたのか、仕切り屋の親方に、靴磨き道具一式をあてがわれ、働いた分の何割かをもらっていた、戦争孤児が多かったのでしょう。新宿の青梅通り沿いに、今でも、JRの線路の東側と西側をつなぐ地下道があると思うのですが、ここに身寄りのない子たちがいたのを覚えています。篤志家のみなさんが、この少年たちのお世話をして、社会に送り出した功績は大きいと思います。また、アメリカに<里子>として行った子も多かったそうです。

あのような、社会から置き去りにされていた子どもには、生存力や生命力が強く、特別な<守り>があったのでしょうか、もう七十代を過ぎておいででしょう。好々爺、好々婆になって、ひ孫たちに囲まれて、幸福(しあわせ)に微笑み返されていたら好いですね。誰にも、辛い過去があるのですから。

(写真は、yahoo検索から「靴磨きの少年」です)

知恵

 

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『謝謝!』、これは中国語の『ありがとう!』で、最も有名な中国語です。スーパーの無料送迎バスに乗って、降りる時に、運転手さんに、そう小声で言うのです。そう言われた方は、ほとんど無口、無反応で聞き流していましたが、繰り返しているうちに、『慢走啊!』と返してくるようになりました。つまり、『お気をつけて!』と言う意味の祝福なのです。

これはバスだけではなく、こちらで生活をしていて、謝意を言い表す機会がある毎に、私が心掛けていることなのです。こちらでは習慣的に、いちいち、そう言ったことを言いません。『そんなこと言ったら、バカにされるだけ!』と言われますが、言われれ慣れていない相手ですが、必ず嬉しい表情をするのです。もし日本の社会が、<潤い>があるとするなら、この謝意や礼が、日常的に言葉や態度で言い表されているからに違いありません。

最近、こんなことを思っているのです。帰国して、街の銭湯に入る機会があったら、下湯を使って、湯船に入る時に、『冷えもんでございます。失礼します!』と、湯船に先に入っておいでのみなさんに言おうと思っています。昔の大人は、そう言って、<和やかさ>を醸し出して生きていたのだそうです。これって卑屈なのではありません。争いを避けるためでもありません。日本人が学び取った<知恵>に違いありません。

こちらでは、広い国土にもかかわらず、道すがら体がぶつかり合うこともあります。上手に避け合っているのですが、たまにぶつかってしまいます。ほとんどの場合、無言ですが、ある時は<舌打ち>とか『痛い!』が聞こえますので、その前に、『対不起(ごめんなさい)』と言います。こちらの方は、日本人のように『気をつけろい!』などと決して言いません。相手の行動を注意したりしないで、事実の<痛さ>だけを言い表すのです。これも<知恵>です。

名古屋にある大学の心理学の先生が、こんなことを言っていました。『若者の行動を注意してはいけません。そう言われると感情が傷つくのです。だから、<事実>だけを言うべきです!』とです。この時代の切れ易い、動物的な反応をする若者(この先生の言うことですが)に、そう接するための<知恵>であります。事実は否定できず、認めるだけですから。これって、争わないため<知恵>ではないでしょうか。

(写真は、以前日本女子サッカーが示した「謝謝」➡︎百度より)

さあ、外に出よう!

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ご多聞にもれず、こちらの子どもたちも、<ゲーム>の虜にされているそうです。面白く夢中にさせるものが、次から次へと売り出されていて、際限ありません。子どもたちばかりとは言えない、大の大人が嵌まり込んで、まるで<中毒症状>、<ゲーム症候群>となって、社会問題にもなっているようです。しかも半大人の二十代や三十代ばかりではなく、四十代や五十代にまで及んでいるのです

思い起こせば、私の育った街に一軒だけ<パチンコ屋>がありました。できたばかりの時に、父に連れられて入ったことがありました。子どもの両手に入るほどの玉を分けてもらって、父の隣で打っていたら、『チーン、ジャラジャラ!』と当たってしまったのです。あの気持ちこそ、パチンコの落とし穴、<蟻地獄>なのでしょう。何とも言えない<快感>があるのです。『どうしても止められないんです!』と言う,<パチンコ症候群>の気持ちも分かるのです。店内に景気の好いマーチが、ガンガンと流れて聞こえていました。

学校が休講で、時間を持て余した私は、新宿から松本行きの電車に飛びのって、甲府で下車、駅前のパチンコ屋に通ったのも二度や三度ではありませんでした。その後、このパチンコ、競馬も競輪も競艇もオートレース、麻雀やトランプなどの賭け事を、一切止めました。知らぬ間に深い穴の底に引き摺り込まれることを知った私は、この誘惑に勝てないと認めて、『すまい!』と決心し、今日まで生きてきたのです。宝くじも買いませんし、珈琲や食事を賭けたりもしません。

嬉嬉として遊んでいた子どもの頃が懐かしいのです。チャンバラや馬跳び、馬乗り、宝取り、鬼ゴッコ、三角ベース野球など、みんなで群れて遊んでいたのです。ああ言った遊びを、今の子どもたちの間に見なくなりました。それでも夕暮れになると、アパートの上の階から下りて来た就学前の子どもたちが、追いかけっこをしたり、石蹴りをしたりして遊んでいるのを見かけます。結構、子どもの遊びと言うのは、こちらも日本も変わらないようです。もし年寄りに聞き取り調査をしたら、面白い研究ができるだろう、などと思ったりしています。

ラジオで「紅孔雀」を放送していた夕方、その続きを聞きたくて、急いで帰って来ては、ラジオにかじりついて聞いたのが、私たちの子どもの頃でした。たくましく想像力を働かせて、ああでもないこうでもないと思い描いていたでしょうか。私たちは、<ラジオ世代>なのです。映像を見ないだけ、心の思いの中に、どうとでも想像できたのです。今でも、NHKのアナウンサーが、小学校に出向いて、<朗読会>を開くことがあるようです。何度か番組を見ましたが、子どもの集中力、想像力、感動が、ものすごいのに驚かされたのです。

子どもたちを、外に連れ出したいものです。面白い新発見、体験が溢れているのですから。子どもたちを食い物にするような、ゲーム産業や塾通いをさせる進学熱にも大反対です。さあ、電源を切って、大自然に触れられる外に、子どもたちよ、出よう!

(写真は、”百度”による、この町の可愛い「子どもたち」です)