次女が長野県の「南信州」に住んでいたことがあります。留学先で出会った青年と結婚して、数年経ってから、高校の英語教師を日本でしたいとのことで、”JET”という派遣機構の紹介でやって来たのです。阿南町と飯田市に住んで、三カ所の県立高校で英語を教えていました。この南信州に、「阿智村」と言う純農村があります。今では、農産品や木材や観光で収益を上げられるようになっていますが、戦争前には、日本でも貧しい地域の一つでした。
その貧しさの故に、人生の転機を求めてでしょうか、または「口減らし」のために、<農業移民>が国策として奨励され、それに応募して、多くの村民が出かけたのです。アメリカ大陸やハワイやブラジルへの移民とは、事情が違っていました。多くの少年たちも両親の下を離れて参加しています。
ハワイやブラジルやアルゼンチンに移民された方たちに、お会いしたことがあり、お話も聞かせていただきました。どこも、慣れない異国の厳しい気候や土地の状況下での開拓は、実に厳しかったようです。「王道楽土」という言葉で宣伝された満洲の開拓の移民総数は、27万とも32万とも言われて、確かな統計資料は失われています。敗戦で、引き揚げた帰国者の数が、11万人だったと言われていますから、「満州移民」は、筆舌に尽くせない過酷なものだったことが分かります。
そんな時代に、一つの歌が歌われていました。作詞が島田磐也、作曲が陸奥明で、昭和16年(1941年ー太平洋戦争が開戦しています)に発表された、「満洲里小唄」です。
積もる吹雪に暮れ行く街よ
渡り鳥なら伝えてておくれ
風のまにまにシベリア鴉
ここは雪国満州里
暮れりゃ夜風がそぞろに寒い
さあさ燃やそよペチカを燃やそ
燃えるペチカに心も解けて
唄えボルガの舟唄を
凍る大地も春には溶けて
咲くよアゴニカ真っ赤に咲いて
明日の望みを語ればいつか
雪はまた降る夜空も白む
まだ出かけたことはありませんが、この歌に出てくる「満州里」は、内モンゴル自治区にあります。遼寧省や吉林省や黒竜江省は、移民の多かった省です。あの「残留孤児」が、様々な理由で置き去りにされた地域です。阿智村の一人の住職が、孤児たちの帰国に尽力したことで有名で、次女に案内されてその村を訪ねたことがあります。何とも言えない、「悲しさ」が村に漂っていたのを思い出します。私の二人の兄と私は、この「戦争孤児」と同世代なのです。やはり、二度と同じような戦争に、一般市民が巻き込まれる悲劇のないことを願いつつ、昔聞き覚えた「満州里 小唄」を、今夕は口ずさんでしまいました。
(写真は、開拓農家の秋の収穫風景ー「百度」の撫順の古写真から)