今朝の散歩で

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鼓楼のある旧市街の南を、大河が流れ下っています。この河は、上流で二股に分かれて、一本は、旧市街と郊外とを分け、もう一本はもう一つ外の農村とを分けて流れ下り、この二本が下流でまた合流しています。私たちが住んでいるのは、島のような形の旧市街と区分され地域で、この省都の一つの<区>に編入された地域です。かつては幾つもの村で構成されていましたが、今や工業開発の工場地帯から、旧市街から、新しい家を求めて越して来たり、新しく所帯を持とうとする若い方々が住む近代住宅地として開発されています。

聞くところによりますと、この地域と旧市街に間に、橋を架設したのは、日本企業だったそうです。それまでは、渡し舟で物や人が運ばれていたのです。水運が盛んだったそうで、その名残を感じさせる街の風情があります。今でも卸問屋の多い、川沿い(クリーク)の地域なのです。車が使われる以前は、水運を利用し、近郷近在と大量の物資の運送がなされていたと言われています。

今朝も散歩の途中に、何箇所も新しいアパート群や商業施設が、建設中なのを目にしました。驚くほどの数です。このような開発が、中国中で行われているとしたら、それは驚くべきことです。臨海部の都市への人口流入、農村部の過疎が進んで行くのでしょう。昨日、『将来、世界中の三分の二の人が都市で生活をするだろう!』と言う記事を読みましたから、まさのその動きの一つに違いありません。

河岸が整備された箇所に、数キロにわたって、この町の古代から近代までの歴史が、壁面の石板に刻まれてあります。大地震、大火、疫病などがあったこと、スペインやイギリスやアメリカからやって来た方たちが、病院や看護学校や学校を作っています。その中で、日本人の桑田何某と言う技術者が、この町の発展に尽くしたと、記されてありました。また日本軍の空襲による、家屋の消失や死者が出たことの被害の記録も刻まれていて、辺りを見回してしまいました。

この町の小学生たちが、ここで、歴史を学ぶために、好い教材となってきたことでしょう。最近気付いているのですが、この河の水量が少なくなっているのです。河の中に中州ができ、背丈のある草が生い茂っているのです。河岸の水位もずいぶん低くなって来ています。長雨が降った後、橋桁に河の水が触れそうになっていた何年か前の様子とは、段違いです。やはり、ここでも異常気象なのでしょうか。ちょっと心配です。そう言えば登り下りしていた大型の船を、最近では、ほとんど見かけなくなっています。

(写真は、”百度”による、この河に架けられた「橋(古写真)」です)