ニッポン

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「ニッポン」と言う名の国、そこを舞台に長く営みを積み重ねてきた「ニッポン人」、創意と工夫と改良で作り上げてきた「ニッポン文化」、これらを総称して、「日本」と言います。中国からは「倭」、ヨーロッパからは「ジパング」と呼ばれ、「黄金の国」だと思われてきたようです。

南北に細長い列島で、亜寒帯から亜熱帯の気候をようし、海産物に恵まれて、魚や貝やコンブに養われて、米飯と野菜と味噌醤油の粗食で、穏やかな民族が形成されました。先住者がいて、そこに南方や大陸からの移住者がやって来て、「ニッポン人」になったのです。様々な影響を受け入れ、それを作っては改善し工夫して、ニポン文化を作り上げてきました。

しかし、「武士道」の故にでしょうか、独特に好戦的な民であったりもしました。狭く痩せた土地からの脱出を目論んで、隣国に活路を見出し、その野心を糾弾されると、南方に石油を求め、欧米のような植民地主義に倣って、失敗しました。敗戦で、侵略者の汚名を着せられ、焼土の中で途方に暮れていたのですが、決して諦めませんでした。朝鮮戦争とヴェトナム戦争の<戦争特需>で、工業化を進め、世界の近代工業国としての地位を築きました。

世界に類い稀なる「平和憲法」によって、平和主義者に変えられ、模範のような民主主義国家を形作ってきました。今や、規律正しいニッポン人、『ありがとう!』と『すみません!』と言う謙虚なニッポン人、清潔と整頓の好きなニッポン人、努力と勤勉なニッポン人などと、高く国民性や民度を評価されています。のぼせることなく、さらに謙虚になって、次の世代、その次の世代に、これまで培ってきたニッポンと言う国を、生活圏として生きて行ける様に残しておきたいものです。

桜や蝉の声や紅葉や木枯らし、四季折々の野菜や果物ー大根や小松菜やカブや茗荷ー柿や桃や栗やアケビ、山や丘や草原や川や湖、炬燵や襖や障子や敷居や畳、お風呂や浴衣やスダレや打ち水、尺玉や仕掛けや線香花火、童謡や唱歌や民謡や演歌、万葉集や奥の細道や坊ちゃん、天丼やうな丼や蕎麦やラーメン、ステーキやハンバーグやナポリタンや豚汁、きんつばや金太郎飴や煎餅やそばがき、作り受け継いできた物は多種多様です。美味しかったり、綺麗だったり、『ホッ!』として懐かしかったりしてきたのです。

このニッポンのある一つの星である地球が、ずっとずっと永らえますように。放射能汚染も地震も津波も、食糧も子育ても医療も、天賦の才能を駆使して、問題解決に当たって行けると信じています。強さを誇らず、弱さも認め、明るく平和な明日のニッポンのために望みを高く持とう、そう決心している、室温32度、酷暑の2014年の華南の夏の盛りであります。アッ、納豆と沢庵と塩辛を忘れていました。

(写真は、”伊那市周辺の食事メモー”から、佐渡の民宿の「朝食」です)

ある夏のこと

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もう40年も前になるでしょうか、家内のすぐ上の兄が、グアム旅行に誘ってくれたことがありました。今のような七、八月の夏ことでした。まだ次女も次男も生まれる前で、長男が三歳、長女がグアムで一才の誕生日を迎えた時でした。旅行費用を義兄が出してくれて、とても楽しい旅行だったのです。その時、家内のすぐ上の姉の家族が、グアムに住んでいて、そこに家内の両親が呼ばれて、しばらく滞在していたのです。そこからブラジルの義兄のもとに行く途次でした。遠くに行ってしまおうとしていた両親を訪ねた旅行だったのです。私の母も同行しました。家内の母親と私の母は友人同士だったからでした。

この時、義姉の主人は、小学校の校長をしていました。いろいろな島内情報を持って帰ってきていました。ある週末、政府の役人が<フェスタ>と言うパーティーを開き、訪問客に食事を振る舞うと言うことで連れて行ってもらいました。到着が遅かったので、残っていた料理はわずかでしたが、異国の風習に触れることができて、結構おもしろい経験をさせてもらったのです。

この旅行の時に、グアム政府の認定の<自動車免許証>を取ったのです。三回失敗したのですが、義姉の主人に、『諦めないで!”Never give up!”』と励まされて、4回目の筆記試験で合格しました。近くの公園の中を走る、実地試験が行われ、なぜか義父が後ろの席に同乗してくれました。一発合格でした。兄の車などを闇運転していましたからだったでしょうか。免許証が交付される時、『ケイトウ!』と呼んでいました。他の誰かだと思っていたら、自分のことだったのです。本場の英語の発音と、ヘボン式ローマ字で表記した日本語読みと違っていたのです。それでも、きっと自分のことだと思って、”yes”と返事をしたのです。

その免許証は、更新手続きをしませんでしたので、もう失効してしまっていますが、今も引き出しの中にしまってあります。時々引っ張り出しては眺めるのですが、昨日のように記憶が鮮明です。義父母も義兄も、義姉の主人も私の母も、すでに天に帰って行きました。日本では感じられない、太陽のキラキラした輝き、野生の空中を飛ぶ鶏、マイマイと言った大きなカタツムリや蛙、ジャングルに鉈を持って入って行った義父が、たくさんの<アボガド>を収穫して食べさせてくれたことなど、あの時、みんな元気でした。

地上のことは、<一場の夢>なのでしょうか。現実は、すぐに過去に吸収されて行くので、そんな風に感じてしまいます。好い思い出が多いのは感謝なことです。

(写真は、グアム島の「パセオ公園」です-政府観光局より)