何もかも失ってしまった中から、起死回生のように、立ち上がった日本は、やがて、アメリカに次ぐ、世界第二位の工業国となって行きます。敗戦の前年の年の暮れに生まれた私は、そう言った歴史を辿りながら生きてきたことになります。山の中で、小学校入学まで育ちましたので、どのような年月を過ごしてきたのかは、小学校の社会科の授業で学んで知ったのです。また文字が読めるようになると、新聞を読み、ラジオのニュースを聞いて、今何が起こっているのかを、少しずつ知ることができました。
この度、ユネスコの「世界遺産」として登録された、群馬県の「富岡製糸場」のことも、授業の中で教えてもらった一つのことでした。岐阜や長野や山梨の貧しい農村の少女たちが、女工として雇われ、作業環境の劣悪な工場で、低賃金で働かされたこと。その労働で作られた「生糸」が輸出され、莫大な外貨を稼いだこと。その外貨で、日本の軍備を増強し、農村から兵士を招集し、列強と肩を並べるほどの軍事国家となったこと。そんなことを学んだのです。 政治家や企業家が国を作ってきたように思われていますが、実際は、農村から駆り出された少女たちの労働によって得た外貨によって、この国の礎が据えられ、近代国家が作り上げられて来たのです。「貧乏物語」、「女工哀史」、「ああ野麦峠」などの作品は、そういったことを再確認させてくれたわけです。
いつでしたか、諏訪湖湖畔の、製糸工場跡を見学したことがありました。そこに「千人風呂」と呼ばれた大浴場があったのです。これは、どれほど多くの女工が働いていたかと言うことなのでしょう。また、信州が味噌で有名なのも、この女工たちの食事に供された「味噌汁」を作るために生産されたからだと言うのです。それだからでしょうか、そこの味噌は、塩っぱく感じるのかも知れません。 もちろん、日本人が機を見るに早く、勤勉で、緻密で、手先が器用だったから、国際競争に勝てる優秀な製品を作れたことは自明の事実です。さらに、『近代化の遅れを早く取り返さなければならない!』と言った、差し迫った時期に、国があったのも事実です。
しかし、うら若き女工たちの血と涙と汗とを忘れてはならないのです。そう言ったことで、「富岡製糸場」の世界遺産登録は、この時代に生きる私たちが、歴史の重さを思い返す意味で、好かったのだと思います。
(写真は、”WM”による日本人が愛し続けてきた「桜」です)