オムレツにスープ

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『朝晩は冷えるなあ!』と思ったら、「立冬(11月8)」も過ぎ、もう暦の上では冬になった様です。8年ほど働いた学校の図書館の前に、紅葉の木があって、街の名所になっていました。カメラを手にしたみなさんが、よく撮影に来られていました。華南の地では、珍しく色鮮やかな紅葉が見られるからです。

年を越えても落葉しないでいるのには、さすが亜熱帯気候だからでしょうか。大きな河川のほとりに、学校があって、日本の学生なら羨ましがるほど広大なキャンパスの中に、教室棟が点在していました。学生さんたち自転車で移動しているのが、不思議な光景に、私には見えました。

「作文」の授業を担当していて、今頃の季節に教えていた文章がありました。中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。

中学校3年生が、読んで学ぶようにと、心を砕いて書いたものだと言われています。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、フランスで生活をする上で、つらい経験が多かったそうです。

           「温かいスープ」  今道友信

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世 界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そ ういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったか ら、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日j本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き 記しておきたい。

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  一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が 日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。そ の気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。

 そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎 晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの 料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。

 若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲 がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そう いう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。

 ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか 要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前 のパンがあった。

 その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私 のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいま せんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。

 こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中 に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私が フランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じ らいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人 一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

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何て言いますか

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子育て中の四人の子どもたちが、通学していた頃、朝は、一つのトイレを、六人で共用していたので、まるで戦場の様な、わが家でした。家内は、『忘れ物ないの?気をつけていってらっしゃい!』と言うのを常にして、彼らを送り出していました。

誰でしたか、忘れ物をして、学校の裏門の鉄格子から、それを何度か届けたことがりました。小学校も中学校も、住んでいた家から目と鼻の先にありましたから、子どもたちに油断や甘えがあったのです。

『親が、子を送り出す時に、何て言うか?』との聞き取り調査を、いくつかの国でした結果があります。私が読んだのは、中国と韓国と日本だけでした。その結果は、次の様でした。

中国人の親は『騙されない様にしなさい!』

韓国人の親は『頑張って勉強して一番になりなさい!』

そんな感じで言うのだそうです。では、日本人の親は何と言うと思いますか。そう、『みんなと仲良くしなさい!』と言うのです。「和」とか「協調」を願うからなのでしょう。『出る釘は打たれる!』ことを知っている親は、処世術を、その様に学んで、次世代に伝えるのでしょう。

国の在り方も、これに似ていないでしょうか。「国際協調」が行き過ぎて、没個性的になって、相手の出方ばかりを気にして、自己主張ができないままなのです。考えている内に、相手の強引さに押し切られてしまっているわけです。

私の父親は、『喧嘩に負けて泣いて帰ってきたら家に入れない!』をモットーに、四人の男の子を育てました。『男は敷居をまたぐと七人の敵がある!』を、身を持って学んだからでしょうか、そんな乱暴なことを、父は子たちに願ったのです。それで、泣かないで帰れるために、腕を磨いて、勝つ算段を身につけて生き始めたわけです。

私の母の故郷では、私たちが、『行って来ます!』と言う代わりに、『行って帰ります!』と言うのです。行って行きっぱなしではなく、『必ず帰って来ます!』と約束して出かけたのでしょう。私は、『行って、勝って、帰ってきます!』と、心の中で言い聞かせて出かけたのです。泣いて帰ったのは、そう言った父が亡くなったことを、母に聞いて、父の死を受け入れるために、病院に駆けつけた時でした。

それで私は、これから、『行って〈負けてもいいから〉必ず帰ります!』と言うことにしようと思っています。それにしても、『ただいま〈帰りました〉!』と言って帰って来ない子どもたちには、帰るべき固定した新しい実家が、今回できたので、そう言う様になることでしょう。13年も、実家が外国住まいだったからです。

(母の故郷の近くを舞台にした漫画の表紙です)

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何と言われたら

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高根沢町にいた時に、「沈没船ジョーク」を聞きました。沈没しかけている船から、船長が乗船客を、緊急に海に飛び込ませるために、何を言うか、というお話でした(フランス人、中国人、韓国人、北朝鮮人は、サイトで見つけた分です)。

アメリカ人に「飛び込めばヒーローになれますよ」

ロシア人に「海にウォッカのビンが流れていますよ」

イタリア人に「海で美女が泳いでいますよ」

フランス人に「決して海には飛び込まないで下さい」

イギリス人に「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」

ドイツ人に「規則ですので海に飛び込んでください」

中国人に「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」

日本人に「みなさんはもう飛び込みましたよ」

韓国人に「日本人はもう飛び込みましたよ」

北朝鮮人に「今が亡命のチャンスです」

どなたが思いついたのか、国民性とか心情から、的確な勧告の言葉なのだそうです。日本人には、そう言った言い方がいいのは納得できそうです。

ある倶楽部にいた時に、中学生や高校生が出入りしていたのです。そこで、ある催しが行われている時に、そこに入る前に、誰が来て、何人来ているかを、ほとんどの人が確かめていたのです。『みんなが来ていれば、俺も入る!』と言う考え方です。まさに日本人的な心理だと思ったのです。

太平天国の乱やアヘン戦争後の混乱していた時代、中国に、列強諸国が「租界」を、次々と作りました。そう言った国際的な動きの中で、列強諸国に伍そうとした日本も、幾つもの街に「租界」を設けたのです。

私たちが一年過ごした天津の街の、「五大道」と言う一廓に、「日本租界跡」があって、語学学校の教師に案内されて見学に行ったことがありました。『みんながやっているので!』と言うのが、やはり大きな動機付けであった様です。

『みんなが行く(食べ、見る、やる)から、俺も、私も!』が日本人の行動心理にあります。多分、東アジアの人たちに共通している心理なのかも知れません。〈個人主義〉が自分のものになっていないので、大衆に迎合して生きていくのが、安心、安全なのでしょう。別な言い方をしますと、〈主体性〉が育っていないからなのです。

寒さを感じ始めて来ると『今日は何を着ようかな?』、雨が降りそうになると『傘を持って行こうかいくまいか?』、食事の支度でスーパーに行くと『こんばんは何を食べようかな?』と思うと、窓から道行く人を見て、何を着ているか、傘を持っているか、隣の客は何を買っているかを、私たちは確かめてしまうことが多いのです。〈みんな〉の傾向に動かされているわけです。

さて、私は、何と言われたら、従うことができるでしょうか。

(日本の歴史上犠牲者最多の艱難事故の「洞爺丸」です)

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美人薄命

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私が選択した第二外国語は、フランス語でした。“ bonjour(ボンジュール) "や“ mademoiselle (マドモアゼル)の響きがやさしくて、きれいだったのと、題名を忘れてしまったフランス映画を観たのが理由でした。叶えられませんでしたが、『いつかパリに行ってみよう!』と思っていました。

最近、フランス映画の女優の写真を観たのです。あんなに美しい女性だったのに、老いると「おばあちゃん」になると言う、人の世の現実に、ちょっと驚かされました。〈美人薄命〉は、「美貌」の意味も含んで、そう言われてきた言葉なのでしょうか。

すみません、男性も同じ様に、老いていますので。時間とは、残酷なのでしょうか、または正直なのでしょうか、〈人間とは何ぞや?〉、いつまでも美貌のままでは、これからの人に申し訳ないので、衰えたり、退くのは《公平》なのかも知れません。

華南の街のわが家に、時々、赤ちゃんを連れた来訪客がありました。その赤ちゃんたちは、透き通る様な、まるで真綿かマシュマロの様なホッペをしていて、人差し指で、ツンと軽く突いて触ると、指先が埋まれてしまいそうなのです。みんな、その時期には、そんな柔らかさをホッペも心も持っていたのに、人生の嵐に揉まれている間に、こんなに固くなって、シワもシミもできてしまうのです。

これって、私が思うには、次の段階に移っていくのだと言うことです。加齢し、老いていくなら、ありのままの自分を受け入れることなのでしょう。『準、髪にブラウンヘアーがあるね!』と、後頭部を見られない私に、二十歳違いで、同じ月の同じ日の誕生日の恩師が、四十代中頃の私に言ったことがありました。ご自分が通ってきた所を、今まさに通っている私を見守ってくれていたのです。

この恩師は、十代の頃には、〈街一の悪〉だったそうです。それなりの立場にあったご両親を悩ませた過去があった人でした。対日戦争に征って、ガラリと変わって帰って来たのです。そして、お父さんと同じ道を選んで、その敵国日本にやって来たわけです。いくつかの倶楽部を建て上げ、御子息や日本人の青年に任せていきました。晩年、病を得て、召されたのですが、告別式に、彼の住んだ街の市長さんが、参列して、その人格の高さに賛辞を送ったそうです。

一緒にテニスを興じたこともあり、度々、私たち家族を招いてくださったりして、好い交わりが与えられていたのです。この方のお子さんたちと、私たちの子どもたちと《次世代交流》があり、感謝な時を持っている様です。

実は、教師が間違えて採点したのでしょうか《AAの優》、フランス語の私の成績でした。半世紀がたって、全く使えない第二外国語になってしまっています。青年期の私の憧れのフランシス・アルヌール、この方の写真でした。私の恩師は、北欧系のダンディーな映画俳優にしたいほどの素敵な男性でした。

(萩須高徳のパリの下町風景です)

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街道に立つ

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この住み始めた家の裏手に、あの「例幣使街道」が残されてあります。かつて、駿河の久能山から、日光東照宮に改葬された徳川家康の墓所に、毎年、京都から、「例幣使」が遣わされて通った街道です。

例幣使は、「幣帛(へいはく/神道で御幣,みてぐら,ぬさなど神への供え物の総称。布帛,衣服,紙,玉,器物,神饌(しんせん)のほか,幣帛料,金幣といって金銭をあてる場合もある。特に布帛の中では麻が代表的であったのでぬさ(幣)ともいう。古くは勅旨によって奉る幣帛を奉幣といった。)」を奉納するためにでした。

勅使は、京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、ここ栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ったのです。

この街道は、西国の大名もまた、参詣していますので、「参勤交代」以外にも、その他にも務めを果たす義務を負わされていたのですから、死して物言わぬ家康の威光、徳川政権というのは、驚くべきものがあったことになります。「栃木宿」については次の様な記述があります。

「栃木は、皆川氏五代広照が、天正19年(1591)南端の城内町に、栃木城を築いて城下町を形成したのに始まる。皆川氏没落と共に廃城となるが、巴波川の河川交通を利用した市場町として、また、例幣使道の宿駅として発展した。明治維新後、一時は宇都宮・栃木ともに県庁が置かれたが、宇都宮に県庁が移り、栃木は県名に残るだけになった。」

私は歩きと自転車で通るのですが、きっと籠や馬車が行き合うことができるほどの道幅だったのでしょう。ここ栃木は、商都でしたが、宿場町でもあったので、今でこそ高速道や新幹線から遠く、過疎の感じがしますが、徳川の御代には、賑やかな佇まいだったことでしょうか。

この街道の上に、自分の足で立ってみますと、そんな賑やかな馬車や籠や人の行き交う音が聞こえそうです。京都から延々と、朝廷の勅使、例幣使がやって来ると言うのは、徳川支配が朝廷をもはるかにしのいでいたわけで、明治の御代になってからは、随分と静かになったのでしょうか。

でも、巴波川の舟運も盛んでしたから、人、物、文化の往来で栄えたのです。その名残が、蔵の存在です。豪商たちが、江戸で豪遊していたのだそうで、彼らの援助で、浮世絵師たち、とくに喜多川歌麿が、注文を受けてでしょうか、彼の描いた肉筆画が残されています。それもまた夢の夢、今は静かで、住み心地が好い素敵な「蔵の街」なのです。何やら『エイホ、エイホ!』の駕籠かきの声が、街道筋から聞こえてきました。アッ、空耳でした。

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逆転

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「ケバルの川のほとり」ではなく、「巴波川」のほとりに、家内と一緒に住み始めた私は、その流れを見下せる四階の新居のベランダから、昇ってくる朝日を眺め、夕日も眺めています。東に行くと茨城を超えて太平洋、南は関東平野、北は日光山塊、西に群馬の地の利にある街です。

三羽の白鷺が、流れに足をつけてい、カモも泳いでいるのも見えるではありませんか。実に静かです。通勤や通学や観光の電車駅から5分ほどの所に、こんなに静かで、日当たりもよく、買い物も便利で、市役所にも近いのです。

台風19号に被災した私たちに、与えられた今回の家は、四人の子どもたちが、見付けて、経済的な援助をしてくれたものなのです。賃貸契約者は、長男で、両親が住むと言う契約です。もう全てが逆転、人生の舞台の主役は、子どもたちの世代に、私たちから移ってしまいました。

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家内と四人の子どもたちを、強引に引っ張って、生きて来た私は、ちょっと拍子抜けだとお思いでしょうが、『老いては子に、何とやら!』で、ちょっと《おんぶに抱っこ》なのです。これって好いものですね。戦さに出て征くのは願い下げですが、矢筒に矢を満たす《子沢山の幸い》を、私たちは感謝し、このことを満喫しているのです。

六十過ぎてからの天津への留学、机を並べて家内との学習、華南の地への引越し、国語教師、クラブのお手伝い、家内の発病、入院、退院、帰国、闘病、被災、避難、転居をしながらの今日です。人生の後半が多彩です。家を持たない身分だからこそできた、冒険なのかも知れません。

もう11月になりましたが、家内の病気で帰国した私たちに、子どもたちは、心配と安心の入り組んだ思いにいるのでしょう。朝な夕な、今住む町の平安、繁栄、幸福を願いながら、十三年住んだ天津と華南で出会った友人たちの安否を問いながら、南向きの窓からの茜色の夕日も、実に素晴らしいものです。

(ケバル川と巴波川です)

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暖炉

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1974年の1月のことでした。よく聞こえてきたのが、「襟裳岬(作詞が岡本おさみ、作曲が吉田拓郎、唄が森進一)」と言うフォーク調の歌でした。暦の上では「初春」でしたが、まだ真冬の天気、そんな寒さの中で、聞こえてきたのです。

北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由のわからないことで 悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙りとおした 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
捨てて来てしまった わずらわしさだけを
くるくるかきまわして
通りすぎた 夏の匂い
想い出して 懐かしいね
襟裳の春は 何もない春です

日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
飼い馴らしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょう なんだよね
襟裳の春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
遠慮はいらないから 暖まってゆきなよ

この歌詞に、「暖め合おう」とか「温まっていきなよ」と誘っている「暖炉」があり、暖房は、炬燵と火鉢、薪や石炭や石油のストーブ、そしてエアコンくらいしか知りませんでしたから、「暖炉」は、どんなにか暖かいかと羨ましく想像していたわけです。

古い歌に、「ぺチカ」という暖房器具が歌われて、知っていましたが、歌を聞いただけでは想像することができませんでした。満州やシベリアで使われていたもので、暖炉と調理に使われてていた様です。朝鮮半島では、薪やワラを、近年では練炭を燃やした「オンドル」があります。壁や床に暖気を送って、部屋を暖める暖房です。

子ども頃、父の家には、炬燵と火鉢があっただけで、それが標準的な日本の冬の暖房でした。それでも寒さの記憶がありません。三年前に入院した札幌の病院で、病友の子どもの頃の冬の「開拓部落」の昔話を、食後のテーブルで、何度も聞かされました。と言うか、聞き出したのですが。

窓の隙間から入ってくる雪で、朝になると、肩の辺りの掛け布団に雪が積もっていたとか、雪を沸かして水を作ったとか、馬橇(うまぞり)で雪かきをしたとか、冬の生活の大変さを語っていました。でも、そんなみなさんから、逞しさが伝わってきたのです。

もう北海道、襟裳あたりでは、「暖炉」に火が入ったことでしょうか。燃料は、薪ではなく、重油が燃やされて、部屋を暖かくしているのでしょう。そして、『温まっていきなよ!』と誘っていることでしょう。そう言えば、山形の新庄の出身の同級生が、冬の東京の寒さに凍えていました。東京の暖房が、十分な熱を与えていなかったからです。半世紀も前の話です。横浜に住んでいる様ですが、どうしてるでしょうか。

先日、お邪魔した矢板市(高根沢町の隣りです)在住の方の家にお邪魔した時、客間に「薪ストーブ」が焚かれていて、実に気持ちよい暖かさで、一足早く冬を感じたのです。昨日、大型スーパーの暖房売り場に、「電気暖炉」がおいてあり、郷愁に誘われたのでしょうか、オイルヒーターの代わりにいいなと思ったのです。あんなに暑い夏が、嘘の様に、冬の寒さが、もう見え始めて来ています。

ふるさと

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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、「故郷(ふるさと)」は、1914年に、小学校6年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌(六)』に掲載されました。

兎追いし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷

如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思い出づる故郷

志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

誰にもいるのが「両親」、誰にもあるのが「故郷」と言えるでしょうか。でも「故郷」は、一体、何処にしたらよいのでしょうか。出生地、生育地でしょうか。生育地でも、転勤の多かった父親の子は、幼児期を過ごした街でしょうか、小学校の初期、中期、後期、どの頃でしょうか。中学や高校時代を過ごした街は、もう「故郷」とは思わないかも知れません。

この歌の二番に、「恙(つつが)なしや友がき」とありますが、『共に小鮒を釣り、里山を駆け巡り、学び、叱られ、涙した幼な友だちは、平穏無事な今日を生きているだろうか?』と言う意味でしょうか。跳びはねていた友も、もしかすると病と老いの日を送っているかも知れません。

家内の治療費を払い、薬をもらうために、院内のベンチに座って待っているのですが。目の前を歩いて行く方たちの多くは、初老、いえもう全く老人となったみなさんなのです。戦時下を、戦後を耐えて生きた世代です。校庭を隅から隅まで思いっきり走り抜き、柿の木に登っては実をもぎ、桑の実を頬張った、あの力が漲(みなぎ)った日々があったのだろうと思ってしまうのです。もちろん自分も含めてです。

人生、七十年、八十年、瞬きの間でした。いつまでも元気過ぎては、若い方たちに申し訳ないのでしょう。遠慮がちに、今を生きているかの様です。誰にも親がいて、誰にも故郷があるのです。ピシッとネクタイを締め、背広を着、ピカピカに磨き上げた黒靴を履いて、綺麗に散髪をして、颯爽と東京に出かけて、帰って来る父の姿が、五十代の後半から、ガラッと変わったのです。

何処が故郷であっても、そこに父や母がいました。歳をとった私を、子どもたちが、今見ているように、あの父の変化は、まだ若かった私の目にはちょっと衝撃的でした。でも今思うに、これこそが人の生きて行き、生きて来る道だと、やっと分かって納得できるのです。

それにしても、この歌の歌詞が変わってしまったのが納得できません。「恙なしや友がき」と、けっこう前難しいのに、「いかにおわす父母」を、「いかに居ます」に変えてしまったことです。『故郷の父や母はどうしていらっしゃるだろうか』の意味が微妙に違ってしまっているのです。作詞者の原意や作意を変えてしまうのは、どうでしょうか。

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引越し第一夜

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向こうの空に見える、明けの金星、明星です。カーテンの寸法を間違えて、カインズで買ってしまって、カーテンなしの窓から、明けの明星が見えます。隣で、いびきをかきながら長男が寝ています。

昨日、友人が通勤ラッシュで道路が混んでいる中、高根沢まで、家内と私を迎えに来てくださって、無事に新居に着きました。友人と長男が助けてくれ、友人のご子息の家具店の車を借りて、小物の移動が終わりました。今日は、長男のクラブの方、華南の街から医療路用ロボットの研究で留学中の若き友人、昔、共に多くの日を過ごしたご婦人、次男が、手伝いに来てくれます。

数えるのをやめたいほど、引越しを重ねて来た私は、今や、ほとんど長男に任せにすることができるほど、歳を取りました。実によく働いてくれています。家財道具のない私たちなので、多くを友人から頂いています。巴波川の流れが眼下に見え、眺望の好い四階に住み始めたところです。

〈引越し魔〉の私に、よく我慢してついて来てくれている家内も、病気を忘れさせてくれるほど順調です。『わたしは病人ではないんです!』と、樋野興夫氏の著書を読んで啓発されて、自分を見ています。昨夜は、なんとか言う、うどんのチェーン店で、熱い牛肉と大根おろしうどんを美味しそうに食べていました。ちょっと肉が固かったのですが。

ここが私たちの「終の住処(ついのすみか)」にはならないで、まだ引越しを重ねて行くのでしょうか。ここは、まさに〈住めば都〉です。訪ねて来る人が、元気になり、励まされ、命に満ち溢れて、楽しくなれる様な家でありたいと願っています。

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残された子熊

 

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.読売新聞に、次の様な記事がありました。

『24日午後10時17分頃、新潟県湯沢町湯沢のJR上越線で、長岡発越後湯沢行き普通列車(4両)がクマ2頭とぶつかった。乗客乗員約20人にけがはなかった。親子とみられるクマ2頭は死んだ。越後湯沢―六日町間では、上下線で一時運転を見合わせたが、25日午前8時半に運転を再開した。

南魚沼署やJR東日本によると、クマは親子3頭で線路付近を歩いていたとみられ、母親とみられるクマは体長1メートル20、子とみられるクマは60センチほどだった。この事故で普通列車5本が運休、3本に遅れが生じ、約900人に影響が出た。

現場ではしばらくの間、もう1頭の子とみられるクマが、付近にとどまっていた。県猟友会南魚沼支部湯沢分会長の山田周治さん(70)は「子グマはどうしてよいか分からず、母グマのそばから離れられなかったのだろう」と話していた(読売新聞)。』

自然界は、厳しさと優しさを持ち合わせています。親子の死別、残された小熊は、その内なる力で、過酷な環境を乗り越えて生きていく恵みがあります。人間だけは、保護が必要なのでしょう。それでも、上野や新宿で、この目で見た戦災孤児たちは、どっこい生きていったのです。人には、特別な恵みや憐みがあるからです。

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一葉の葉の写真が、目の底に焼き付けられています。空襲で崩された瓦礫の中で、この少年は、何を缶の中に入れて煮ているのでしょうか。その横顔に、しゃにむに生きていこうとする、『生きるんだ!』との逞しさが見えるのです。生きておられるなら、今は九十才近くになっておいででしょうか。こんな〈ひもじい時代〉があって、今の物満ち溢れた時代なのです.

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