宝積寺駅

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台風19号の増水で被災した私たちが、高根沢町に避難して、早2週間以上が経ちました。病気治療中の家内のために、静かで暖かな住まいで過ごすことができ、ここの倶楽部のボスとみなさんに、心から感謝しているところです。

幸い、この間に、新しく栃木市内に部屋を見つけることができ、11月1日に引っ越しをすることになりました。この2週間、近所には、幹線道路沿いに、ケーキ屋さん、餃子屋さん、百均、ドラッグストアー、パン店、内科医、農協即売所、和菓子屋さん、ファッションセンター、眼鏡屋さん、信用金庫、Do it yourself、予備校まであって、とても便利でした。ケーキ屋も予備校も信用金庫も縁がなかったのですが。

この街の「宝積寺(ほうしゃくじ)駅」を初めて利用した時に、駅舎のデザインが、JRっぽくなくて、斬新なのに気付いたのです。前に、『JRに、隈研吾の作った駅がある!』と聞いていたのですが、下の息子とお嫁さんが電車で、疎開先に来てくれた時、宝積寺駅で降りて、やって来て、『あの駅は隈研吾の作品だね!」と言ったので思い出したのです。

JR中央線の国立駅、日野駅、高尾駅は、昔のままでノスタルジックだったのですが、今は、農家のわらぶき風の駅舎の日野駅だけが残っている様です。古い物の価値も残し、隈研吾の様な、新しい物も取り入れて行く、これが均衡があっていいと思うのですが。

さて、宝積寺駅は、やはり著名なデザイナー、建築家の作品で、素晴らしいのです。今日も、行き帰りに、この駅舎を歩きながら、とくに改札を出た天井を見上げて、素敵でした。“ ウイキペディア ” に次の様にあります。

「駅舎は、2008年に竣工した橋上駅舎で、駅舎および自由通路は隈研吾建築都市設計事務所によって設計された。改築に伴い東口が新設され、1番線(宇都宮線下り列車)プラットホームは嵩上工事が実施された・・・2008年9月30日には、鉄道デザインの国際デザインコンペティション『ブルネル賞」で建築部門の奨励賞を受賞。」とあります。
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この隈研吾は、来年日本で開催される東京オリンピックの主競技場のデザイナーなのです。宇都宮郊外の町の駅舎も、“ オリンピックスタジアム ” も、この方には、同じ意味と価値とがあるのですね。今日のNHKニュースに、『2019年10月28日 21時47分 西日本豪雨、去年の西日本豪雨で壊れた山口県岩国市の橋が、世界的な建築家、隈研吾さんのデザインで再建されることになり、その案が報道関係者に公開されました。』とありました。

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親切

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「都道府県 魅力度ランキング」と言うものがあるそうです。この10月17日に発表されたランキングは、北海道、京都、東京の順で、魅力度が高いのですが、それに反して、低い県が、北関東に集中しているのが、気になります。茨城、佐賀、群馬、徳島、栃木、埼玉が、低魅力県の順位だそうです。

「市の魅力度」ですと、函館、札幌、京都、小樽の順で高く、下位ランキングは見つけることができませんでした。でも諺に、《住めば都》がありまして、私たち夫婦にとって、今年四月に県民になった「栃木県」は、大好きな県になっています。

昨日、通院日で、滞在しています宿舎からタクシーで、宝積寺駅まで行き、宇都宮線で石橋駅に行き、そこからタクシーで、獨協医科大学病院に行ったのです。治療を終えて帰りは、病院発のバスで、石橋駅に行き、そこから宇都宮駅で、黒磯行きに乗り換えました。

宇都宮駅で、私よりも少し髪の毛の薄い男性に、『黒磯駅行きは何番線ですか?』と聞きますと、一瞬迷った素振りを見せて、『私について来てください!』と言って、ホームまで連れて行ってくれたではありませんか。働き盛りの忙しい世代の男性の親切に感動したのです。

前々回、宇都宮線を利用した時に、小山駅で、女子高生に乗り換え法を聞いたら、教えてくれました。それで私が教えられた通りに、小山駅のホームで待っていると、そのホームまで駆け足でやって来て、私を見つけて、『宇都宮で8番線に乗ってくださいね!」と、わざわざ追い掛けて来て、教えてくれたのです。

いやー、〈田舎モン〉の私たちに、栃木県民は実に親切なのです。昨日、ホームで待っていて、ベンチに隣に初老の男女が座っていて、会話が始まりました。ご婦人が、〈福祉タクシー券〉を手にされていて、『これ、助かるんです!』と言って見せてくれました。栃木に住んでいると言ったら、『頂けるから、問い合わせてみてください!』と、親切に勧めてくれました。

空気もいいし、夕焼けも綺麗だし、野菜や果物も美味しいし、人もいい、まさに《四拍子》が揃った県の《優点》です。昔住んでいた県は、なかなか受け入れられない気難しさがありましたが、ここ栃木県人は、関東平野の広さが、人の心も広くさせるのでしょうか。ちょっと引っ込み思案かなと思いますが、優しいのです。病んだ家内には、身に染みている様です。

ちなみに、茨城県人に若い友人がいますが、素敵なご夫婦で、いつも親切に接していてくれます。この被災時に、お手伝いにきてくれ、翌日に朝まで食べられた「お手製焼きそば」やお寿司を差し入れしてくれた方が、茨城県人です。涸沼(ひぬま)のシジミが、私は大好きです。

(栃木県の県木「栃の木」の花です)
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「市邑(しゆう)」と言う、もう今では使うことのなくなった言葉があります。内村鑑三が著した「デンマル国の話」の中に使われていたのですが、私には読めませんでした。明治期の文人たちの多くは、幼少期に「四書五経」を学んでいた様ですから、古語に通じていたということになります。その漢字理解のすごさに驚かされます。この「邑」は、”むら”とも読みますが、都市や町や村を意味しているそうです。ですから「村」とは、大分違ったニュアンスを持っています。次の様な解説があります。

「邑(ゆう)は周囲を壁でかこまれた聚落のことで、その象形文字である。前4000年紀の中国の新石器時代、定住生活が始まり農業生産力が徐々に高まっていくなかで、各地に村落(ムラ)が生まれてきた。しだいにいくつかのムラを統合して周辺の人々を集住させ、周囲を城壁で囲んで防衛する規模の大きな城郭都市が出現した。そのようなムラおよびそれが発達した城郭都市を邑といっている。邑の住民は同一血族である氏族と意識され、有力者が族長として祖先に対する祭祀を行い、住民は周辺の農地を支配して租税を納めた。また、周辺の邑との交易も行われ、邑の支配者は経済的な管理も行っていた。このように、邑は他の古代文明圏における都市国家にあたると言える。このようにして成立した邑の中で最も有力となって大邑といわれた「商」を中心にして、邑の連合体として成立したのが殷王朝であり、そのような国家形態を邑制国家ということもある(「世界史の窓」より)。」
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中国の南部に、12、3世紀に造られたと言われる「土楼(どろう)」が、無数に残されてあります。 東北部から、敵の手を逃れて来た人たちが、敵の侵入を阻もうとして、土塁を築き、その城壁の中に、木造の住居を4から5階で家屋を築いて、砦の様な中に集団で住んだものです。現在もなお住居として利用されています。その近くに住んでいる方が案内してくれて、ユネスコ世界遺産に登録されている所に連れて行ってもらったことがありました。

その土楼の中には、集会場があり、生活用水を得るための井戸がありました。それを「邑」とは呼んでいませんが、集落の特徴的な形態を持っていて、大変興味深いものです。日本では見たことがありませんでした。土楼を築いた人たちを、よそから移り住んだ人たちだったので、「客家(kejia/ハッカ)」と呼ばれてきています。鄧小平やシンガポールの建国の父の李光耀(リ・クアンユー)などは、客家人と呼ばれて有名です。

「邑」の方が、「村」よりも<ムラらしく>感じられて、漢字が持つ意味の深さが伝わってきます。北海道に住み着いた、アイヌの人々には、文字がなかったのは残念なことでした。先年、入院して滞在していた札幌も、「邑」の一つでありますが、200万都市を、そう呼んでよいのでしょうか。

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餃子



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私たちが住んでいた華南、その街の警察病院の近くに、美味しい「餃子屋さんjiaozi」がありました。白菜やニンジンや青菜、牛肉や豚肉など、実に多くの種類の餃子があるのです。すりニンニクと醤油と酢でタレを作り、茹で汁がスープで、それで、食べていました。中国の東北地方では、特別に何かを食べる時は、家族がみんなで作った「餃子」を食べるのだそうです。ところが華南では、もともと餃子はメジャーな食べ物ではなく、近年になって食べる様になったのだそうです。

〈米食〉の南部、〈粉食(小麦粉)〉の北と言った分け方があって、地域色のある饂飩などの麺類を、華南の人たちは、よく食べているのです。ところが餃子の美味しさを知った華南の人たちが、工夫して美味しい餃子を作って店を出す様になっていきます。その美味しい餃子屋に連れて行ってもらって、私たちも度々行く様になったわけです。

今避難して住ませていただいてる倶楽部の近くに、「みんみん(珉珉)」と言う、宇都宮餃子の名店の支店があります。先週、ちょっと奮発して、家内を誘って行ってきました。戦後、中国東北の満州から引き上げてきたお母さんが、4人の子どもを育てながら、現地の中国人に作り方を学んで、帰国後の昭和33年に、宇都宮市宮島町で始めた餃子店だそうです。噂通り、美味しかったのです。二人で、焼き餃子二人前と水餃子とライスで790円でした。

実は、宇都宮市は、浜松市と競い合う〈餃子街〉なのだそうで、毎年王座をかけて、火花を散らしている様です。そこに、最近は京都市が加わって、三つ巴戦が繰り広げられているのだそうです。宇都宮は50万都市、一方浜松は80万都市で、都市規模の違いがありながら、宇都宮が健闘しているのです。

こう言った〈餃子戦争〉の争いは歓迎ですし、微笑ましいものです。浜松には友人が大勢居ますし、父母が新婚時代を過ごした京都にも思いがあり、わが県都・宇都宮に加勢しなければいけないのか、三者の間で悩んでしまっております。競争は、売り上げの皿数なのか、売上高なのかと言いますと、そうではなく、ちょっと難しい計算がある様です。小さな間口で始めた〈母ちゃん店〉の「みんみん」が、今では大きな企業となっているのです。

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行ってみたい

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アニメの「耳をすませば」を観ていた時のことです。画面は、日が暮れて、辺りは暗くなっていく様子を映し出しています。電車が西に向かって走っていて、鉄橋を渡ってから右に曲がって行きます。そのすぐの所にある駅に、その電車が停るのです。ちょうど空を舞う鳥が、天空から見ているように映し出されていました。そして駅前の夕闇の中を、家路を急ぐ人の様子が映し出されていたのです。

空から見たことなどありませんが、その電車の沿線や駅前様子に見覚えがあったのです。そのあたりを歩いたり、自転車に乗ったり、車を運転していたことが、それまであったからです。それは、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅と、その駅の周辺の様子だったのです。

アニメの監督は、まさに、その多摩市の一地域を舞台に、そのアニメを描き出していたことになります。空想の街ではなく、実際の街が、アニメの物語の舞台になるのだということを、初めて知ったのです。次男が、その夜間の様子を描いた映像の一劃に住んでいたことがあって、なお興味を持ったわけです。

その様に、アニメフアンは、その舞台になっている所が、どこなのかを探すのだそうです。探し当てたり、どなたかが探し出した情報を知ると、写真や動画を撮影に出かけて行くようです。そしてブログにアップしたりしています。アニメには、そのような<後日譚(ごじつたん)>があって、二重の楽しみがあるのだそうです。

そんな今日日の若者の趣味には驚かされます。これは今に限ったことではなく、昔もそうだったのではないでしょうか。映画やドラマの監督か原作者が好きなのかも知れませんが、よく「尾道」や「長崎」を舞台とした作品が多いようです。この2つの街は、坂が多いので有名で、その起伏があることが魅力なのでしょうか。それとも長崎人や尾道人が、魅力的なのでしょうか。さらには地方文化に光を当てたいからかも知れませね。

そういえば、東京や大阪などの大都会のビルやアスファルトよりも、自然や歴史に溢れた街の方が、趣きがあって好いかも知れません。中学生の頃に、名画座で観た、ジェームス・ディーンの”ジャイアンツ"や"エデンの東"の舞台になった街、オードリーヌ・ヘップバーンの「ローマの休日」の映画撮影地には、一度出かけてみたいものです。きっとアメリカにも、イタリアにも、そんな同じ願いの同世代人がいそうですね。

それよりも何よりも、人類の始祖が歩んだ《楽園》が、どこかにあるに違いありません。果たして、どんな所だったのでしょうか。興味津々で行ってみたい、たけなわの秋であります。

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あした天気になーれ!

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実際に目にした夕陽を、iPadでは、こんな風にしか撮れなかったのです。光陽台を散歩して帰って来た家内が、避難先の倶楽部の二階の西側の窓辺で、20分も見惚れていた、真っ赤な夕陽です。秋の夕陽の美しさは、昨日の強雨の翌日の晴れた一日の夕べに見せた景観ですから、格別だったのでしょう。それは、人の手では出すことなどかなわない、天然、創造の色彩に違いありません。家内が、《乙女してる》のも、ちょっと嬉しい驚きです。『あした天気になーれ!』
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苺と剣

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「剣客」、宮本武蔵や柳生十兵衛や荒木又右衛門たちの様な、剣術に秀でた猛者のことを、そう言います。一度、面や胴着を身につけて、竹刀で、『エイ!ヤア!』と、私もやってみたかったのですが、叶えられませんでした。

江戸を離れて、関東平野の奥深い「壬生の里」に、この「剣客」と呼ばれた侍がいたそうです。剣術といえば、江戸の千葉周作が有名で、「千葉仕込み」の剣の達人は大勢いた様です。江戸を離れて関東平野を北上する奥羽街道を来ますと、野州壬生の城下町がありました。今は城跡しか残っていませんが、壬生氏が開城したそうで、何の変哲もない田舎町です。

この城下町を、柳生新陰流の免許皆伝、22歳の高杉晋作が訪ねています。道場破りではなく、他流試合のためにです。高杉の相手をしたのが、松本五郎兵衛で、神道無念流の剣士でした。三本勝負、松本が三本勝ちをし、高杉が一本も取れずに敗れています。この高杉の写真が残っていますが、眼光鋭く、自信満々、他人を威圧する面持ちです。

22才と言えば大学四年生の年齢です、免許皆伝の自信が、壬生で打ちのめされたわけです。武者修行のために、故郷の萩を出て、江戸に行き、そこからやって来て、他流試合の「試撃行日譜」と言う日誌に、勝ち続けた試合内容を記録していたそうです。ところが、ここで、プツリと記入をやめてしまいます。鼻をへし折られたわけです。

時は幕末、明治に入ってからは「廃刀令」で、腰に剣をさすことが許されなくなって行きます。19才で、長崎で蘭学や英学を学んだ、大分出身の福沢諭吉も、相当な剣客でしたが、アメリカやヨーロッパに行き、明治維新以降、剣を捨て、教育の世界に活路を見出しています。残念ながら高杉は、明治維新を迎えることなく亡くなっています。

家内が入院し、今も通院治療をしています、獨協医科大学病院は、この壬生町にあります。宇都宮に寄ったところにありますが、田圃だらけの中に、そんな剣客が住み、いくつもの剣道場があった様には、150年も年月が過ぎてしまうと感じられないのです。「剣を取る者は、みな剣によって滅びます!」は、江戸も今も同じです。

(壬生町の主要農産物の「いちご」です)
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尊敬

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”Record China“ が、中国メディアの次の記事を配信しています。

23日に行われたサッカーれたAFCチャンピオンズリーグ(ACL)準決勝で中国の広州恒大に勝利した浦和の選手の行動を中国メディアが「感動した」と絶賛した。

ホームで行われたファーストレグ(第1試合)を2-0で勝利していた浦和は、この日も堅守で広州を完封。50分にFWの興梠慎三がヘディングで決めたゴールを守り切り、2試合合計3-0の完勝で決勝に進出した。

サッカー情報を伝えるメディア・中超球評は、「広州恒大は2試合で1ゴールも奪えず、3失点を喫した。技術、戦術面で完敗だった」と評する一方、「日本の名門クラブの選手の行動が中国サポーターに負けを心から認めさせた」と報じた。

記事はまず、81分のシーンに注目。広州の楊立瑜がピッチ内で脚をつり座り込むと、浦和の関根貴大が楊のもとに駆け寄り、脚を伸ばすのを手伝った。記事はこれを「感動的な一幕」と伝え、「この24歳の日本人選手がピッチ上で見せた気遣いは、日本選手のサッカーにおける品格を表すものだ。味方(広州の)選手が誰も楊を助けに行かない中、相手選手が手を差し伸べたのだ!」と強調した。

また、「試合終了後、日本人選手による2つのシーンが、すべての人のリスペクトを集めた」とし、試合終了のホイッスルの瞬間、ボールを保持していたGKの西川周作が味方と勝利を喜び合うことなく、まず近くにいた相手FWエウケソンを抱き締めてねぎらい、励ましたことを紹介した。

そして、整列した両チームの選手が握手を交わす場面で、槙野智章が相手選手一人ひとりを抱き締めたことを「最も感動的な瞬間」に挙げ、「珍しい一幕だ。彼は自ら広州恒大の選手を抱き締め、心から慰めた。日本選手のこうした行動から、広州恒大と日本の名門クラブの差は技術だけではないことが見て取れる。彼らはピッチの内外での行動によってリスペクトと感服を勝ち得ているのだ」と伝えた。

中国のネットユーザーからも、「日本のクラブは尊敬する」「日本は時間稼ぎをしないし、わざと倒れたり、起き上がらなかったりもしない」「ああいう行動が自然に出るのは、個人の素養が高いからだろう」「中国の選手と日本の選手との差はちょっとやそっとじゃない。唯一勝ってるのが不必要に多くもらっている給料」といったコメントが寄せられている。(翻訳・編集/北田)

❤️ 私は、広東省広州を2度訪ねたことがあります。最初は、ずいぶん昔で、街中に、鄧小平氏の大きな上半身の写真の看板が掲げてあったのが印象的でした。まだ深圳の街が工事中でした。二度目は、わが家に出入りしていた若者が、『一緒に行って!』と言われて、悟州に行った時でした。新疆ウイグルの方とアフリカからの方が多くいました。この時は、遠距離寝台バスに乗ったのです。

(広州の下町の景観です)

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詩心

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寺山修司が、自分の職業を聞かれた時、何と答えるかを話していたことがあります。『詩人です!』と言うのだそうです。今、社会的な責任から離れて、隠居生活をしている私は、何かの書類に職業欄があって、記入しなくてはならないことがあったら、「無」と書くのも味気ないので、寺山に倣って「詩人」と記入しようと思っているのです。

『詩心をもって生きよ!』と、〈百番教室〉を、他の学部生で満室にさせるほどの名物教師が、二十代初期の私に、そう言いました。いえ、その講義を受講していた学生全員に言いました。その言葉は、私の生涯の課題の一つで、今だに、課題の答えを尋ねる宿題を負わされている様な気持ちになっています。

この一言を聞くために4年間を、アルバイトで授業料を稼いで、学んだと言ってもよいのかも知れません。その学び価値の大きさに、この身も心も引きづられて、いまだに、その課題を生きています。「詩心の五つの特質」ということが、“ 美しい言葉辞典 ” にあります。

「詩人」「詩心」と聞いても、多くの人は、その意味を説明できないでしょう。以下、「詩心の特質」をあげてみます。
1)すべてのものから自由な精神(自由)
既成概念、固定概念、先入観、宗教、イデオロギー、あらゆる洗脳、謀略工作から自由な精神を詩心と呼ぶ。
2)美を感じる(もののあはれを知る)心(審美)
豊かに美を感じ、もののあはれを知る繊細な心を、高い審美眼と美意識そのものを、詩心と呼ぶ。
3)生きとし生けるものへ愛情(慈愛)
すべての生命に対する無条件の愛を有する心を詩心と呼ぶ。
4)物事の本質を見ぬき未来を予見する洞察力(直観)
事象の核心をつく、未来を予知する鋭い直観力、洞察力を、詩心と呼ぶ。
5)幸を分け合う、和の精神(調和)
人と街と自然との調和を希求する精神を、詩心と呼ぶ。

そうだなと思うのです。私の恩師は、自分のことよりも他者を、物よりも精神を、瞬間よりも永遠を考えながら生きて行く様に、祝福したんだと思うのです。恩師の年齢を数えてみますと、まだ三十代でした。まさに溢れる情熱の青年講師の言葉でした。『こんなに目の綺麗な人っているんだなあ!』と思っていました。だからでしょうか、女子に人気があったわけです。

恩師に薫陶や影響を与えた方がいたに違いありません。自分も、それに似たようなことを言って、お隣の国の学校の教壇から話していたのです。〈受け売り〉ではなく、とくに青年が持ったら素晴らしい心だからです。激烈な競争社会を生きて行くには、甘っちょろいと思う人が多いのですが、結局は、人は心や精神や信念に生きる様に造られているに違いありません。

(寺山修司の生まれた弘前市の岩木山と市木の林檎です)

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朝顔便り/10月23日

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今日六時半に家を出て、宝積寺駅まで歩いて、JR宇都宮線の電車に乗って、宇都宮駅で降りました。そこから東武宇都宮駅前までバスに乗り、東武宇都宮線の電車に乗って、栃木に行ってきました。真っ青、紺青の秋空でした。

栃木の家の自宅の庭に、朝顔がちょっと縮こまっていましたが、花開いていてくれました。主はいないで、水遣りもないのに、遠慮がちに咲いていたのです。その生命力は素晴らしいものがあるのに感心してしまいました。

帰りは、JR両毛線で小山駅に出て、そこで東北線(宇都宮線)に乗り換えて、石橋駅で途中下車し、タクシー乗り場で、運転手に、獨協医科大学病院までのキロ数と運賃を聞いたのです。もしかしたら、次回の家内の通院日は、電車とタクシーとで行ってみようと考えたからです。

そこから宇都宮に行き、黒磯駅行きに乗って、乗車駅に戻ったのです。けっこう交通の便の良い地域で、住めば都の感を強くしたところです。昼過ぎには、今お世話になっている宿舎に戻れたのです。
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