親切

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「都道府県 魅力度ランキング」と言うものがあるそうです。この10月17日に発表されたランキングは、北海道、京都、東京の順で、魅力度が高いのですが、それに反して、低い県が、北関東に集中しているのが、気になります。茨城、佐賀、群馬、徳島、栃木、埼玉が、低魅力県の順位だそうです。

「市の魅力度」ですと、函館、札幌、京都、小樽の順で高く、下位ランキングは見つけることができませんでした。でも諺に、《住めば都》がありまして、私たち夫婦にとって、今年四月に県民になった「栃木県」は、大好きな県になっています。

昨日、通院日で、滞在しています宿舎からタクシーで、宝積寺駅まで行き、宇都宮線で石橋駅に行き、そこからタクシーで、獨協医科大学病院に行ったのです。治療を終えて帰りは、病院発のバスで、石橋駅に行き、そこから宇都宮駅で、黒磯行きに乗り換えました。

宇都宮駅で、私よりも少し髪の毛の薄い男性に、『黒磯駅行きは何番線ですか?』と聞きますと、一瞬迷った素振りを見せて、『私について来てください!』と言って、ホームまで連れて行ってくれたではありませんか。働き盛りの忙しい世代の男性の親切に感動したのです。

前々回、宇都宮線を利用した時に、小山駅で、女子高生に乗り換え法を聞いたら、教えてくれました。それで私が教えられた通りに、小山駅のホームで待っていると、そのホームまで駆け足でやって来て、私を見つけて、『宇都宮で8番線に乗ってくださいね!」と、わざわざ追い掛けて来て、教えてくれたのです。

いやー、〈田舎モン〉の私たちに、栃木県民は実に親切なのです。昨日、ホームで待っていて、ベンチに隣に初老の男女が座っていて、会話が始まりました。ご婦人が、〈福祉タクシー券〉を手にされていて、『これ、助かるんです!』と言って見せてくれました。栃木に住んでいると言ったら、『頂けるから、問い合わせてみてください!』と、親切に勧めてくれました。

空気もいいし、夕焼けも綺麗だし、野菜や果物も美味しいし、人もいい、まさに《四拍子》が揃った県の《優点》です。昔住んでいた県は、なかなか受け入れられない気難しさがありましたが、ここ栃木県人は、関東平野の広さが、人の心も広くさせるのでしょうか。ちょっと引っ込み思案かなと思いますが、優しいのです。病んだ家内には、身に染みている様です。

ちなみに、茨城県人に若い友人がいますが、素敵なご夫婦で、いつも親切に接していてくれます。この被災時に、お手伝いにきてくれ、翌日に朝まで食べられた「お手製焼きそば」やお寿司を差し入れしてくれた方が、茨城県人です。涸沼(ひぬま)のシジミが、私は大好きです。

(栃木県の県木「栃の木」の花です)
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「市邑(しゆう)」と言う、もう今では使うことのなくなった言葉があります。内村鑑三が著した「デンマル国の話」の中に使われていたのですが、私には読めませんでした。明治期の文人たちの多くは、幼少期に「四書五経」を学んでいた様ですから、古語に通じていたということになります。その漢字理解のすごさに驚かされます。この「邑」は、”むら”とも読みますが、都市や町や村を意味しているそうです。ですから「村」とは、大分違ったニュアンスを持っています。次の様な解説があります。

「邑(ゆう)は周囲を壁でかこまれた聚落のことで、その象形文字である。前4000年紀の中国の新石器時代、定住生活が始まり農業生産力が徐々に高まっていくなかで、各地に村落(ムラ)が生まれてきた。しだいにいくつかのムラを統合して周辺の人々を集住させ、周囲を城壁で囲んで防衛する規模の大きな城郭都市が出現した。そのようなムラおよびそれが発達した城郭都市を邑といっている。邑の住民は同一血族である氏族と意識され、有力者が族長として祖先に対する祭祀を行い、住民は周辺の農地を支配して租税を納めた。また、周辺の邑との交易も行われ、邑の支配者は経済的な管理も行っていた。このように、邑は他の古代文明圏における都市国家にあたると言える。このようにして成立した邑の中で最も有力となって大邑といわれた「商」を中心にして、邑の連合体として成立したのが殷王朝であり、そのような国家形態を邑制国家ということもある(「世界史の窓」より)。」
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中国の南部に、12、3世紀に造られたと言われる「土楼(どろう)」が、無数に残されてあります。 東北部から、敵の手を逃れて来た人たちが、敵の侵入を阻もうとして、土塁を築き、その城壁の中に、木造の住居を4から5階で家屋を築いて、砦の様な中に集団で住んだものです。現在もなお住居として利用されています。その近くに住んでいる方が案内してくれて、ユネスコ世界遺産に登録されている所に連れて行ってもらったことがありました。

その土楼の中には、集会場があり、生活用水を得るための井戸がありました。それを「邑」とは呼んでいませんが、集落の特徴的な形態を持っていて、大変興味深いものです。日本では見たことがありませんでした。土楼を築いた人たちを、よそから移り住んだ人たちだったので、「客家(kejia/ハッカ)」と呼ばれてきています。鄧小平やシンガポールの建国の父の李光耀(リ・クアンユー)などは、客家人と呼ばれて有名です。

「邑」の方が、「村」よりも<ムラらしく>感じられて、漢字が持つ意味の深さが伝わってきます。北海道に住み着いた、アイヌの人々には、文字がなかったのは残念なことでした。先年、入院して滞在していた札幌も、「邑」の一つでありますが、200万都市を、そう呼んでよいのでしょうか。

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