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実際に目にした夕陽を、iPadでは、こんな風にしか撮れなかったのです。光陽台を散歩して帰って来た家内が、避難先の倶楽部の二階の西側の窓辺で、20分も見惚れていた、真っ赤な夕陽です。秋の夕陽の美しさは、昨日の強雨の翌日の晴れた一日の夕べに見せた景観ですから、格別だったのでしょう。それは、人の手では出すことなどかなわない、天然、創造の色彩に違いありません。家内が、《乙女してる》のも、ちょっと嬉しい驚きです。『あした天気になーれ!』
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日: 2019年10月26日
苺と剣
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「剣客」、宮本武蔵や柳生十兵衛や荒木又右衛門たちの様な、剣術に秀でた猛者のことを、そう言います。一度、面や胴着を身につけて、竹刀で、『エイ!ヤア!』と、私もやってみたかったのですが、叶えられませんでした。
江戸を離れて、関東平野の奥深い「壬生の里」に、この「剣客」と呼ばれた侍がいたそうです。剣術といえば、江戸の千葉周作が有名で、「千葉仕込み」の剣の達人は大勢いた様です。江戸を離れて関東平野を北上する奥羽街道を来ますと、野州壬生の城下町がありました。今は城跡しか残っていませんが、壬生氏が開城したそうで、何の変哲もない田舎町です。
この城下町を、柳生新陰流の免許皆伝、22歳の高杉晋作が訪ねています。道場破りではなく、他流試合のためにです。高杉の相手をしたのが、松本五郎兵衛で、神道無念流の剣士でした。三本勝負、松本が三本勝ちをし、高杉が一本も取れずに敗れています。この高杉の写真が残っていますが、眼光鋭く、自信満々、他人を威圧する面持ちです。
22才と言えば大学四年生の年齢です、免許皆伝の自信が、壬生で打ちのめされたわけです。武者修行のために、故郷の萩を出て、江戸に行き、そこからやって来て、他流試合の「試撃行日譜」と言う日誌に、勝ち続けた試合内容を記録していたそうです。ところが、ここで、プツリと記入をやめてしまいます。鼻をへし折られたわけです。
時は幕末、明治に入ってからは「廃刀令」で、腰に剣をさすことが許されなくなって行きます。19才で、長崎で蘭学や英学を学んだ、大分出身の福沢諭吉も、相当な剣客でしたが、アメリカやヨーロッパに行き、明治維新以降、剣を捨て、教育の世界に活路を見出しています。残念ながら高杉は、明治維新を迎えることなく亡くなっています。
家内が入院し、今も通院治療をしています、獨協医科大学病院は、この壬生町にあります。宇都宮に寄ったところにありますが、田圃だらけの中に、そんな剣客が住み、いくつもの剣道場があった様には、150年も年月が過ぎてしまうと感じられないのです。「剣を取る者は、みな剣によって滅びます!」は、江戸も今も同じです。
(壬生町の主要農産物の「いちご」です)
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