高徳の人

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羽前・米沢藩に、『この人あり!』と言われた、上杉鷹山(ようざん)は、十七歳で米沢藩主になります。小藩の大名の子は、「養子」として上杉家の家督を相続しますが、思い上がることなどありませんでした。鷹山は、人に恵まれたのです。母方の祖母の感化を受け、「もの静かで、利発で、孝心篤い性格」を宿したのです。また師として仰いだ、高潔の士・細井平洲から「忠順」を学んでいます。

結婚相手の上杉家の令嬢は、先天的な知的障碍があり、十歳ほどの知力だった様です。この方との二十年ほどの結婚生活について、何一つ不満を持つことがありませんでした。自分の運命を、ありのままで受け入れたのです。妻の遊び道具や人形を、自らの手で作って上げ、心から妻への愛と敬意を表しています。ですから、世嗣ぎの子を産むためだけの側室を一人だけ米沢に置き、江戸の上屋敷に住む正妻とは、はっきりと区別をしたのです。正妻との間には子を成しませんでした。

子育てにも心を向け、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしないこと!』、『貧しい人々への思いやりを持つこと!』と教えています。また、性犯罪が起こると危惧する中、鷹山は、米沢にあった「公娼(売春)」を廃止してしまいます。結果は、何の問題も起こらなかったそうです。医療制度を整備し、医学校を立て、西洋医学を導入しています。貧しいながら有為な青年を、奨学金を与えて育てています。さらに多くのことを行っています。

陸奥の辺鄙で山深い地で、こんなに高邁な志と、高潔な人格で藩政を行ったのは、封建下ではありながら、「日本の誇り」ではないでしょうか。経済政策で藩を豊かにするのは、誰にもできるかも知れません。でも、人の道徳心を高めたことは、特筆に値します。七十歳で亡くなった葬儀の時には、何万もの会葬者が、道に溢れていたそうです。深く哀悼を示す声が藩内を満たしたのです。

自分の居室の畳替えも後回しにするほどの質素と倹約の生涯であったと聞いています。詳しくは、「代表的日本人(内村鑑三/岩波文庫)」をお読みください。このように徳の高い鷹山こそは、この時代が求めている指導者、いえ現代人全ての模範的な在り方、生き方なのではないでしょうか。

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