流罪

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江戸の御世にも、「交通事故」があったのだそうです。当時の乗り物、人や物を運んでいたのは、籠や人力車や馬車や牛車でした。現代と同じで、スピード狂もいたのでしょうし、荒っぽい駕籠かきや馬車や牛舎の御者がいたに違いありません。

中学の頃にオートバイが、若者の憧れの的でした。「陸王」といったメーカーのバイクが人気でした。弟が、友人のお母さんからもらったスクーターで、畑の中を暴走したことがあっただけで、『オートバイ買って!』なんて親に言えませんでした。ただ羨ましがっていただけです。もっぱら父の自転車が、乗り物でした。

甲州街道の旧道の坂道を、〈手っぱなし〉で乗って、坂を降りて、踏切を突き抜けて、甲州街道の合流点を走り抜く、実に危険運転をしてたのを思い出して、ヒア汗を今になってかいています。〈爆音〉が出ないような自転車でも、スリリングだったのです。徳川8代将軍の吉宗が、次の様な高札を江戸に張り出したことがあった様です。

『近頃、車引き、馬を扱う者が、積み荷の落下、馬車を打ちつけるなどで、庶民を死亡させることが多くなった。 
 これまでは悪意がないからと寛大にしてきたが、こうも多くの人の命が粗末にされるようでは、もはや不注意であるとして許すことはできない。今後は人殺しにならって流罪(るざい)とする。』

江戸の街が、いかに賑わっていたかが分かります。物流の量は、半端ではなかったのでしょう。当時、「国勢調査」があったわけではないのですが、「人別帳」をお寺が記録しいていたので、けっこう正確な数字が残っているのです。概算で、「町方50万人、武家50万人、寺社10万人」の〈百万都市〉だったそうです。

それだけの人の生活必需品があったのですから、運送業は、今日の〈ヤマト〉や〈佐川〉の配送員の走りっぷりを見ると想像できます。『そこどけそこどけ!』のスピードで、人や家畜を蹴散らしていたことでしょう。これに業を煮やした将軍が、交通違反者に、二番目に重い「流罪」を定めたわけです。

天秤棒を担いで、魚の行商をしていた、〈一心太助〉だって、スピード狂だったかも知れません。かく言う私も、若さに任せて、けっこうスピードを出して車を走らせていたのです。一度、トンネルの先が渋滞していて、気持ち良く走って来た私の車は、その渋滞の最後部の車に、1m ほどで止まりました。すんでのところでの追突事故を免れたのです。なんと、その週に、タイヤを新品に履き替えてあったのが幸いしたのです。

あれ以来、しばらくは法定速度を守ったのですが、熱さや痛さって、いとも簡単に忘れてしまう自分が情けないやらで、運転免許証返納の今でも、笑い話にもならない、あの時を思い返して、「流罪」を免れた私ですが、慄然とさせられています。

(江戸時代の「早馬」です)

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県庁

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山梨市と同じ様に、「栃木市」なのに栃木県庁所在市ではないのは、『どうして?』と思うのは、私だけではないのだろうと思っています。山梨市が「市」とされた経緯は、「日下部町」が中心となって近隣の町村を合併してできたのが、1954年でしたから、町村合併によった命名だったのです。

ところが、明治の初め、「廃藩置県」が行われた時に、1871年(明治4年)に「栃木県」の県庁が、栃木市に置かれています。ところが、多くあった県が、1884年に統合された時に、県庁が宇都宮に定められてしまうのです。その経緯は、次の様です。

「明治政府の版籍奉還、廃藩置県により、明治4年7月には全国3府302県となり、その年のうちに3府72県に統合された。日光、壬生、吹上、佐野、足利、館林(上野国3郡)の6県を統合した栃木県と、宇都宮、烏山、黒羽、大田原、茂木の5県を統合した宇都宮県の2県となり、それぞれの県庁は栃木宿と宇都宮町に置かれた。初代栃木県令は鍋島貞幹、宇都宮県には県令がいなかった(産経新聞)」

当時の県令(現在の県知事)の理不尽な決定によったのだそうです。栃木町は、「自由民権運動」が盛んだった様で、その動きを、三島通庸県令が嫌い、宇都宮に県庁が置かれることになったと言われています。歴史性からするなら、栃木町に県庁があるべきだったのですが、そうならなかった理由が、一県令の思惑だったことになりそうです。

板垣退助を中心に起こった「自由民権運動」の中で、「オッペケペー節」が誕生し、川上音二郎が歌いました。

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権利幸福きらゐな人に自由湯をばのましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
堅い上下角とれて マンテルヅボンに人力車
意気な束髪ボンねット 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで
外部のかざりはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない 心に自由の種をまけ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

不景気極る今日に 細民困窮みかへらず 目深に被ふた高帽子
金の指輪に金時計 権門貴顕に膝をまげ 芸者たいこに金をまき
内には米を倉につみ 同胞兄弟見殺か
幾等慈悲なき欲心も 余り非道な薄情な 但し冥土の御土産か
地獄でゑんまに面会し わいろ遣ふて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ
オッペケペ オッペケペッポーポー

亭主の職業は知らないが おつむは当世のそくはつで
ことばは開化の漢語(かんご)で みそかのことわり洋犬(カメ)抱いて
不似合だ およしなさい なんにも知らずに知ったかほ
むやみに西洋をはなにかけ 日本酒なんぞはのまれない
ビールにブランデーベルモット 腹にもなれない洋食を
やたらに喰ふのもまけおしみ なゐしょで後架(こうか)でへどついて
まじめな顔してコーヒのむ おかしいね
エラペケペッポ ペッポーポー

儘になるなら自由の水で 国のけがれを落したい
オッペケペッポヘッポーポ
むことけ島田に当世髪 ねづみのかたきに違いない
かたまきゾロゾロ 引づらし 舶来もようで りっぱだね
買う時ア大層おだしだろう 夏向アあつくていらないよ
其時ァおっ母が 推量(すいりょ)して お袖に隠して一走り
細工にいてくるよ ヲヤ大きなこゑでハ いわれない
内証だよぶたいハ結構(けつきやう)だ ごめんなさい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポポ

お妾け嬢さんごんさいに 芝居を見せるハ不開化だ
勧善懲悪わからなゐ いろけの所に目をとめて だゐぢの夫を袖にする
浮気をすること必定だ おためにならなゐおよしなさい
国会開けた今日に 役者にのろけちやおられない 日本をだゐじに守りなさゐ
まゆげのないのがお好なら かったいおいろに持ちなんせ
目玉むくのがおすきなら たぬきとそいねをするがよい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

當り外さぬ中村座 書生の所作事 オツペケぺ
川上ゑんちやうの大一座 自由の権利で教導し
板垣遭難大当り 監獄写真は物凄い
心の迷で赤いべべ 存廃娼妓の問答は
得意の弁士で大笑ひ 議論はまちまち客の癖
オッペケペ オッペケペッポー ペッポッポー

親が貧すりや緞子(どんす)のふとん 敷いて娘ハ玉のこし
オッペケペオッペケペッポ ペッポーポ
娘のかた掛りっぱだが 父っさんケットを腰にまき
ドチラモお客を乗せたがる 娘の転ぶを見ならふて
父っさん転んじゃいけないよ かへり車ハ掛引だ
ホントに転覆(かへ)しちゃたまらなゐ オヤあぶなゐよ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポ

洋語をならふて開化ぶり パンくふばかりが改良でねへ
自由の権利を高調(こうてう)し 国威をはるのが急務だよ
ちしきとちしきのくらべあゐ キョロキョロいたしちゃ居られなゐ
窮理と発明のさきがけて 異国におとらずやッつけろ
神国名義だ日本 ポ

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別に、宇都宮に対抗心を向けているわけではありません。歴史の事実です。永野川や巴波川の氾濫で、洪水の被害に遭った「栃木」のことを知りたかっただけです。「舟運」が盛んな街は、高台ではなく、低地に街が開いていますから、地勢などが原因で、水害に見舞われて来た街なのです。今朝も「文明開化」の匂いのする、「コーヒー」を飲むことにしましょう。

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写真師

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今日は、家内と散歩に出て、「蔵の街美術館」に行って来ました。「特別企画展「栃木初の写真師 片岡如松 -時代を写した写真と絵葉書」の招待状をいただたので、行って来たのです。栃木市のホームページに、次の様な案内が掲載されています。

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片岡如松(かたおかじょしょう 1843~1919年)は、旧日光輪王寺宮御家来衆の武士の家に生まれ、日本の職業写真の祖とされる下岡蓮杖(しもおかれんじょう)の弟子・横山松三郎と運命的な出会いを果たすと、明治3年(1870)(一説に明治2年)、栃木県初となる写真館を日光で創業しました。明治5年(1872)に栃木町に移ってから、150年にわたり栃木の町や人々を撮影してきた片岡写真館は、現在も営業を続け、歴史の記憶をとどめています。

写真ならびに印刷の技術の向上と深く関わりのある絵葉書は、日本で明治33年(1900)に私製葉書が認可されると、全国的に次々と発行されるようになります。名所旧跡、戦争・災害といった時事的なものから、学校の運動会などの行事記念として制作されることもあった絵葉書ですが、栃木では片岡写真館や地元の書店が関わって、数多くの絵葉書が発行されました。

 片岡如松の没後100年にあたる本年、如松と、その息子・武が写した写真や、明治期から昭和にかけての絵葉書を通して、近代の栃木を振り返ります。

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この片岡写真館の二代目の武氏が、明治43年(1910)に、栃木市を襲った、「洪水」の様子を写真に残しているのです。生々しい市内の洪水の様子は、罹災経験の家内と私にとっては、感ずるところ大でした。この武氏は、洪水の撮影のために無理をされたのだそうで、撮影して間も無く肺炎に罹って、34歳で亡くなっておいでです。

戦場のカメラマンのロバート・キャパが、第一次インドシナ戦争の折、ヴェトナムの戦場で亡くなっていますが、「報道写真家」の走りの様な死を、この方が遂げられているのです。映像を残そう、伝えたいという思いは、死の危険をも顧みないで行動してしまう、"プロフェッショナル"だったことになります。

私の兄が、中学生の時に、写真に興味を持っていて、よく写真を撮りに出かけていました。帰ってくると、学校の許可を得たのでしょう、写真用暗室に入り込んでは、撮ったフィルムを、DPE(ディー・ピー・イー、Development – Printing – Enlargement を一人でやっていました。『アニキすげえなあ!』と思って、小学生の私は、あの暗室に一緒に入ったことがありました。

その狭い部屋の中は、独特の現像液や定着液の臭いがしていました。今は、大きなスーパーには、USBを持って行って、セットすると、写真ができる機械までもあるのですね。《安い早い綺麗》で、片岡如松氏や武氏が生きていたら、驚いてしまうことでしょう。私はもっぱら、iPadで好きな写真を撮っていますが、何時か、《ライカLeica》を手にできるでしょうか。

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五十歩百歩

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この表は、2010年の国別の「農薬」使用量です。農地1ヘクタール当たりの使用量は、東アジアの中国、韓国、日本が上位三国なのです。日本の厚労省は、厳しく規制しているものだと思っていましたから、大変驚いてしまいました。

華南の街の学校で、日本語を教えていました時に、「日本語弁論大会」が、毎年行われていて、審査員として出席していたのです。そこに、“ CASIO "などの日本企業の総経理の方なども同席していました。

審査がすんで、懇親会が行われていた時に、ある企業の駐在員と話をしていました。その時に、彼がこんなことを話されたのです。西ドイツは、中国に駐在員を送る前に、水や空気や食物など、多方面にわたって現地調査を行っていて、それから派遣に踏み切るのだそうです。羨ましそうに、そう言っておいででした。

ところが、調査をしてみますと、西ドイツの定めた適正基準に対して、何一つ合格がなかったのだそうです。その上で、駐在員を送り込まなければならないので、生活のための諸注意をして送り出すのだと、言っていました。日本の場合は、そんなことをする企業は皆無なのかも知れませんが、西ドイツの徹底さに驚かされたのです。

それで私たちは、華南の地での生活に、水道水には、浄水器を取り付け、野菜や果物、肉や魚などを、「重曹」などの農薬除去に優れている物を使うことにしていました。ある方たちは、空気清浄機を室内においていらっしゃいました。

今年の一月に、帰国した私たちは、農薬使用で安全国の日本で、生活を始めたわけです。苺生産量日本一のこちらで、時季の苺や苺大福などを頂いたり、買ったりしている間に、次の様なニュースを聞いたのです。『台湾は、日本の苺を輸入禁止にしている!』と言うものでした。価格が高すぎるのかと思ったのですが、そうではなく、苺生産に用いる農薬の濃度が、台湾よりも〈200倍〉も高いからなのだそうです。

今季も、苺が出回り始めた様です。美味しそうに、テカテカして真っ赤に熟した早生の苺が、すでにスーパーの店頭に並び始めました。そのことを知らなかったら、勢いよく手を伸ばして買いたいところですが、苺生産農家のみなさんには悪いのですが、やめてしまいました。

〈美味しい〉、〈安全〉なはずが、そうでなさそうなのは、実に残念です。我が国の基準の緩さに、今更驚いています。私は、中国への偏見を、今、悔いているのです。我が国の安全性を考えると、五十歩百歩で、裁いたり、誇ったりできないからです。今や、これまで裁いていた私は、『御免なさい!』の思いでいっぱいなのです。

私の恩師の友人が、ヴェトナム戦争の折に、飛行機のパイロットとして〈枯葉剤〉を散布したことがあって、戦争終結後、たいへん慚愧(ざんき)の思いで苦しんでいました。ジャングルの葉を枯らすだけではなく、枯葉剤に汚染されたお母さんが、多くの奇形の子を産んだからです。

その同じ薬剤が、無制限に〈除草剤〉として使われているのが、今の日本の現実です。とっぷり薬剤に侵されている私たちの世代はともかく、これから成長期にある子どもたちは、その汚染や薬害から守りたいものです。

輸入小麦粉を使っていないパンや乾麺を探して、〈日本産小麦粉〉と明示されている物を食べようとしているのですが、この表を見てしまうと、『害から守られますように!』と願って食す以外にないのかなと思うこと仕切りです。

悪ものから、自己防衛をしなければならないのは、仮想敵国ではなく、口から侵入してくる敵なのでしょう。大変な時代に生きているのを感じてしまう、もう間も無くの師走、雨の日が続く初冬です。

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不器用さ

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[角川映画]に、「最後の忠臣蔵」があります。池宮彰一郎原作の映画化で、2010年に封切りになり、大きな反響を呼びました。次の様な内容の映画です。

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世の中を騒がせた赤穂浪士の討入りから16年。大石内蔵助以下四十七士全員の切腹で、事件は幕を下ろしたはずだった。

しかし、四十七士には、一人だけ生き残りがいた。討入りの真実を後世に伝え、浪士の遺族を援助するという使命を大石内蔵助に与えられた、寺坂吉右衛門だ。

諸国に散った遺族を捜し歩き、ようやく最後の一人に辿り着いた吉右衛門は、京で行われる四十六士の十七回忌法要に参列すべく、内蔵助の又従兄弟の進藤長保の屋敷へと向かう。

旅の途中、吉右衛門は、かつての無二の友を見かけて驚く。討入りの前日に逃亡した瀬尾孫左衛門、言わばもう一人の生き残りだ。

早くに妻を亡くして子もなく、内蔵助に奉公することだけが生き甲斐だった男が、忠義のために喜んで死のうと誓いあった吉右衛門に一言もなく消えた理由は、未だにわからない。

孫左衛門は名前を変え、世間から身を隠して生きていた。武士の身分を捨てて骨董を売買する商人となり、竹林の奥に佇む隠れ家で、可音という美しい少女に仕えて、ひっそりと暮らしている。

近隣に住むゆうは、16年前に孫左衛門が生まれて間もない可音を抱いて、この地にやって来て以来の付き合いだ。母親を亡くした可音を可愛がり、行儀作法から読み書き芸事まで、一分の隙もなく教えたゆうは昔、島原で全盛を極めた太夫だった。幕府から許された京の呉服司にして天下の豪商、茶屋四郎次郎に身請けされるが、今では孫左衛門と同じく、静かに暮らしている。だが、孫左衛門はそんなゆうにも、己の過去は一切語らなかった。

京では人形浄瑠璃が流行っている。なかでも人気を集めていた曾根崎心中の舞台が、可音に思わぬ運命をもたらす。

茶屋家の跡取り息子である修一郎が舞台を見に来た可音に一目惚れ、彼女がどこの誰かもわからない四郎次郎は、ゆうを介して壺を買った孫左衛門に商いの顔の広さで「謎の姫御料を探してくれ」と頼んだのだ。

孫左衛門は迷っていた。茶屋家は可音を嫁がせるには、またとない名家。しかし、ならば可音の出自の秘密を明かさねばならない。さらに肝心の可音は「孫左と一緒に暮らしたい」と大粒の涙をこぼして孫左衛門を困らせる。

浅野内匠頭の墓に参った孫左衛門は、元赤穂の家臣たちに見つかり、「おめおめと生きておったか」と罵られ、足蹴にされる。居合わせた吉右衛門は孫左衛門の家まで跡をつけ、16年ぶりに対峙する二人。が、「生き延びたわけは何か」と問い詰める吉右衛門に対し、孫左衛門は可音を隠すためなら、かつての友にさえ刀を向けるのだった。

思わぬ吉右衛門の来訪をきっかけに、討入り前夜の記憶が、昨日のことのように孫左衛門の胸に去来する。彼もまた、内蔵助から使命を与えられていた。元赤穂の旧臣たちにも内密に、まもなく生まれる隠し子を守ってほしい──。それが、孫左衛門がたった一人で背負い続けた、重き使命だった。

吉右衛門から報告を受けた長保は、一連の出来事からすべてを見通す。世は移り変わり、今では内蔵助は主君の汚名をそそいだ武士の鑑といわれ、名誉を回復していた。

元赤穂の武士たちにとって、内蔵助の忘れ形見は宝物のような存在だ。己の立場を自覚した可音は、亡き父のため、孫左衛門の使命のため、嫁ぐ覚悟を決める。孫左衛門の胸に去来するのは、喜びと安堵と哀しみが入り混じった複雑な思い・・・・・・。

別れの日が、やって来た。可音は孫左衛門のために自ら縫った着物を贈り、「幼き時のように、抱いてほしい」と願う。孫左衛門は腕の中ではらはらと涙を流す可音に、「最後に笑ってくだされ」と頼む。二人は互いの笑顔を心に焼き付けるように、じっと見つめ合うのだった。

出立の刻限となり、孫左衛門が付き添う質素な駕籠が道を行く。大勢のお供も豪華な輿入れもない、寂しい行列だ。だが、夕暮れが深まる頃、松明を持った吉右衛門と、荷運びの華やかな行列が可音を迎える。続いて紋付羽織袴の元赤穂の家臣たちが現れる。

次々と、お供を願い出て、次々と──。

遂に孫左衛門の使命は果たされた。しかし、彼には最後にまだ、なすべきことが残っていた──。 [角川映画社]

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主君と家来、主君と主君の忘形見、武士と商人、男と女、家と廓、責務や使命、過去と今、生と死などを織りなす物語です。封建社会の柵(しがらみ)の中で、武士がどう生きて死ぬか、しかも足軽の様な身分の低い男・孫左が、主君に殉じて、使命を果たし終えた夜、死んで行く終章、その死は、私には重過ぎてしまいます。

戦時下に、銃後の父や母や弟や妹や恋人を守ろうとして、死を選んで志願した特攻隊兵士に、若き心を震わされた私が、自他の命の重さを、母や恩師に教えられて、思いを改めて、生き直したのも事実です。劇中、武士道に則って、自らの命を断つ、孫左の生き方、死に方に、再び心が揺さぶられてしまいます。

もちろん、日本人の好きな仇討ち、忠誠心、滅私奉公などが物語の全体にあるのですが、主君に託された使命を全うする孫左の律儀さ、本物の武士の在り方など、もちろん小説上の技法ですが、それでも生き方の下手さにも共感してしまいます。

一方では、『まあいいか!』で、今度は自分の人生を生き直して欲しかったと、思ってしまうのです。それでは小説や映画にはなりませんね。いつも思うのですが、まるで日本人の精神や在り方の一部に組み込まれてしまっている三百年も前の出来事、「忠臣蔵」が繰り返し話題になる年の瀬に近づいていて、今の平和な時代を生きることができて、幸せだとも感じるのです。

孫左の様な不器用な男が、私は好きで仕方がないのですが、主君の忘れ形見の嫁入り後に、彼が封建社会の柵から逃れ出て、失ったものを取り戻して、己の人生を、一人の男として生き直して欲しかったなと、つくづく思ってしまいます。

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父母の教え

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私の愛読書の中に、次の様な《子への訓令》が書かれています。

「わが子よ。あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨てるな。」

私の母は、高等教育を受ける機会がありませんでしたが、「独学の人」で、よく物事を心得ていた女性でした。漢字に興味のあった私は、多くの漢字を母から教えてもらったのです。

ある事業所に勤めていた時、上司の狡さに躓いた私は、母に、『鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。』と諭されて、人の限界を認め、それを乗り越えて生きて行く様に激励されたことがありました。学校出たての職場でのことで、そこをステップに、若者を教える教師になることができました。

父は、『喧嘩をして勝ってこい!』と、喧嘩奨励をしたのではないのです。『泣いて帰ってくる様な喧嘩をするな!』、『たとえ負けても泣くな!』と言ったのです。そんなことよりも、〈麻薬の怖さ〉を教えてくれたことは、意志の弱い、けっこう短気で、悔しい思いをしてきた自分は、しっかりと釘を刺され、肝に銘じさせられ、〈怖さ〉を叩き込まれたのはよかったのです。

薬物依存症は「孤立の病」なのだそうです。薬に手が伸びてしまう動機について、次の様に言われています。『「自分には居場所がない」、「必要とされていない」と感じる人が仲間や繋がりを求めて、薬物が忍び寄ってくる。手にしてしまうと、今度は人を裏切り、さらに孤立を深めてしまう!』とです。求め、依存に陥ってしまう人は、私たちは、〈快楽の虜〉になっているからだと思ってしまうのですが、〈苦悩〉から逃れたいのであって、結果的に、より深い深刻な〈苦しみ〉に落ちていくのだそうです。

まだ中学生だった私への《両親からの教え》は、一生ものになったわけです。『鉄は熱いうちに打て!』、柔軟な心を宿しているうちの教えや訓練は、一生涯にわたる宝物なのでしょう。人の意志の力には、限界があります。でも、正しさに向かって、意思して生きようとする時、どこからともなく《助け》が来るのです。何度、そんな経験をしたことでしょうか。

〈転寝(うたたね)〉って、きっと麻薬に似ているんだろうと思うのです。眠りに吸い込まれて行く感覚がして、束の間、深みに沈んで行くのが、気持ちいいのです。きっと、それに違いありません。また家内に、転寝を叱られてしまいました。

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いのち

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今朝、ベランダで満開の「ハイビスカス」です。先週末から蕾を膨らませていたのが、満を持して、今朝開きました。これも罹災の花で、とっぷり洪水の水をかぶってしまいましたが、屈せずに生き延びています。サルビアも朝顔も、仲間で、小さないのちを保ち続けています。私たちも、この日曜日の清真の空気を吸い込みながら、いのちを躍動させています。

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感謝


 

 

なぜ内村鑑三は「代表的日本人」を、新渡戸稲造は「武士道」を、そして岡倉天心は「茶の本」を、しかも日本語ではなく、英語で書いたのでしょうか。

日本を、諸外国に紹介したかったと言う、単純な動機だけではなかった様です。彼らは、江戸末期に、武士の家に生まれ育って、幕末から文明開化の明治維新の激動する時代を生きて来た人でした。

当時の日本が、そして日本人が、近代化から立ち遅れたと言う思いの中に、何とも言えない〈劣等意識(コンプレックス)〉を覚えていて、その裏返しの様にして、日本の優点、美点を、世界に向かって誇り、発信たかったに違いありません。

私は、“ give me chocolate ” の世代の子で、甘い物欲しさに、最初に覚えた英語が、これでした。進駐軍の兵士の周りで、そう叫んで欲しがった過去があります。面白がって、アメリカ兵が放り投げるお菓子や小銭を、入り乱れて争って拾ったのです。

思春期に入った私は、自意識が強くなるに連れて、この子ども時代の行為に、〈恥〉を強烈に感じたのです。放り投げたアメリカ兵が赦せないのではなく、拾うために争った無恥な自分が赦せませんでした。それで、日本人の精神を培い、誇りを持とうと躍起になって、青年期を走り抜けました。

南満州鉄道の総裁や、近衛内閣の外務大臣を歴任した、「松岡洋右(ようすけ)」が、終戦を迎えたある日、彼のもとに出入りしていた新聞記者に、『アメリカ人はどういう人間か?』と聞かれて、次の様に答えています。

『野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。』

彼は、13歳でアメリカに留学しています。そのアメリカでの生活は、大変苦しかったのです。最初の寄宿先に到着した早々、薪割りを命じられるなど、使用人としての務めをこなしながら学校へ通わなくてはならなかったそうです。東洋人への人種偏見や差別を身をもって体験した過去があったのです。それで必死に学んだ様です。

欧米を、欧米人を、素直に受け入れられない、体験からくる被害意識を持っていたのです。まさに私も同じでした。そんな自分の過去と偏見を正すために、私には、8年間、アメリカ人起業家の下で学び、訓練される時を必要とし、その時を過ごしました。本音でこの方と関わりを持っことによって、私の偏見や傷、〈日本精神〉が正され、癒されたのです。

優等意識と言うのは、劣等意識の裏返しなのだということを学び、内村や新渡戸や岡倉も、心の思いの中で問答をし、闘い、矯正されて行ったのではないでしょうか。少なくとも彼らは、後に国際社会で通用する日本人となっています。

私は日本人であることを、若い頃は、誇ろうとして躍起でした。しかし今は、ただ《感謝》したいだけなのです。父や母や恩師に対して、感謝がある様にしてです。この国土、自然、風土、歴史を、正しく理解し、私を育んでくれた良き物や事に、『ありがとうございます!』と言う思いでいたいのです。

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もみじ

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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一の「紅葉(もみじ)」は、1911年に、小学校2年生用の文部省唱歌として『尋常小学唱歌(二)』に発表されています。

秋の夕日に照る山紅葉
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる楓や蔦は
山のふもとの裾模様

渓の流に散り浮く紅葉
波にゆられて 離れて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦

きっと、東武日光線の電車に揺られて、日光に行く線路脇にも、東武鬼怒川線から会津に抜けて行く、渓谷を走る線路脇にも、ここに歌われる様な紅葉が、今頃は溢れ返っている頃でしょうか。

私が生まれて7年過ごし、仕事と子育てで34年間住んだ街から、渓谷に沿って上がって行く林道を、サクサクと落ち葉を踏んで歩いた時、枯れ草の匂いと言うか、初冬の匂いがして、何とも言えない懐かしい匂いをかいで、故郷回帰を満喫したことがありました。

夕日は見えませんでしたが、乙の字に曲がる角で、陽の光も見えたでしょうか。物悲しい季節ですが、落ち着いて、物思いにふけって、とんと縁がない芸術的な雰囲気にしたることができるのも、秋の素晴らしい趣きです。

歳をとり、孫たちも子どもから少年、そして青年へと成長していく様子を見聞きしても、自分の小学校時代のこと、〈工事中〉のことは、けっこう鮮明に記憶に残っているものです。長い板張りの廊下が続いていて、小使いのおじさんが振り鳴らす鐘の音が聞こえてきそうです。

みんな入ったことなどない校長室に、入らせてもらった私は、何とも惨めな思いで、そこに立たされた日があります。何をしてなのか、もう思い出せないのですが、担任が校長室に立たせたのですから、けっこう酷いことをした仕打ちだったのでしょう。聞きたい担任も、もう会うことができないのでしょう。

過ぎた日が眩しい様な、霞がかかってしまった様な記憶の中にも、途切れ途切れに鮮明に残されてあります。級友たちも、どんなことを思い出している晩秋なのでしょうか。

(HP “ 来夢来人 ”からです)

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小春日和

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被災した鉢の花が、二種類、新しい家の四階のベランダに、運び込まれています。朝顔、ハイビスカスです。高根沢に避難している間、水遣りなしで、前の家の軒下に放っておかれたのに、命を繋いで、手狭なベランダで咲いています。

完全に、洪水を被ってしまった鉢ですが、逞しく生き続けているのを放置できずに、自転車に乗せて運んできたのです。庭の土に返した、ホットリップスは、勢い良く咲き続けていました。プリンセス・ダイアナは土に戻り、また季節到来で咲いてくれることでしょう。

庭が広くて、木槿(むくげ)や薔薇を植えたかったのですが、ここベランダでは、ちょっと無理の様です。180円で、ハイビスカスを買った店が、濁流に浸かった上に、火が出て全焼してしまったと聞きました。今、その花の蕾が膨らんできて、陽を浴びて、間も無く咲こうとしています。

何か、いのちが再生、回復して行く様子を眺めている様に感じております。何年も前に、家内が駅前の花店で買って、プレゼントしたハイビスカスが、弟の家のベランダで、世話が好いのでしょうか、咲き続けているのだそうです。

この写真の〈サルビア〉は、秋になって買って来て、高根沢に持って行って、再び持ち帰った花です。そしてテーブルの上には、何度も床に落とされては、花や茎をへし折られてしまった〈胡蝶蘭〉の小鉢が置いてあります。そんなことにめげず、今まさに茎の先端の赤みをつけた新しい芽が、咲く準備をしている様です。

《花ある風景》が、コンクリートの建物中に、住んでいるのを忘れさせてくれる、「小春日和」の午後です。

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