流罪

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江戸の御世にも、「交通事故」があったのだそうです。当時の乗り物、人や物を運んでいたのは、籠や人力車や馬車や牛車でした。現代と同じで、スピード狂もいたのでしょうし、荒っぽい駕籠かきや馬車や牛舎の御者がいたに違いありません。

中学の頃にオートバイが、若者の憧れの的でした。「陸王」といったメーカーのバイクが人気でした。弟が、友人のお母さんからもらったスクーターで、畑の中を暴走したことがあっただけで、『オートバイ買って!』なんて親に言えませんでした。ただ羨ましがっていただけです。もっぱら父の自転車が、乗り物でした。

甲州街道の旧道の坂道を、〈手っぱなし〉で乗って、坂を降りて、踏切を突き抜けて、甲州街道の合流点を走り抜く、実に危険運転をしてたのを思い出して、ヒア汗を今になってかいています。〈爆音〉が出ないような自転車でも、スリリングだったのです。徳川8代将軍の吉宗が、次の様な高札を江戸に張り出したことがあった様です。

『近頃、車引き、馬を扱う者が、積み荷の落下、馬車を打ちつけるなどで、庶民を死亡させることが多くなった。 
 これまでは悪意がないからと寛大にしてきたが、こうも多くの人の命が粗末にされるようでは、もはや不注意であるとして許すことはできない。今後は人殺しにならって流罪(るざい)とする。』

江戸の街が、いかに賑わっていたかが分かります。物流の量は、半端ではなかったのでしょう。当時、「国勢調査」があったわけではないのですが、「人別帳」をお寺が記録しいていたので、けっこう正確な数字が残っているのです。概算で、「町方50万人、武家50万人、寺社10万人」の〈百万都市〉だったそうです。

それだけの人の生活必需品があったのですから、運送業は、今日の〈ヤマト〉や〈佐川〉の配送員の走りっぷりを見ると想像できます。『そこどけそこどけ!』のスピードで、人や家畜を蹴散らしていたことでしょう。これに業を煮やした将軍が、交通違反者に、二番目に重い「流罪」を定めたわけです。

天秤棒を担いで、魚の行商をしていた、〈一心太助〉だって、スピード狂だったかも知れません。かく言う私も、若さに任せて、けっこうスピードを出して車を走らせていたのです。一度、トンネルの先が渋滞していて、気持ち良く走って来た私の車は、その渋滞の最後部の車に、1m ほどで止まりました。すんでのところでの追突事故を免れたのです。なんと、その週に、タイヤを新品に履き替えてあったのが幸いしたのです。

あれ以来、しばらくは法定速度を守ったのですが、熱さや痛さって、いとも簡単に忘れてしまう自分が情けないやらで、運転免許証返納の今でも、笑い話にもならない、あの時を思い返して、「流罪」を免れた私ですが、慄然とさせられています。

(江戸時代の「早馬」です)

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