何と言われたら

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高根沢町にいた時に、「沈没船ジョーク」を聞きました。沈没しかけている船から、船長が乗船客を、緊急に海に飛び込ませるために、何を言うか、というお話でした(フランス人、中国人、韓国人、北朝鮮人は、サイトで見つけた分です)。

アメリカ人に「飛び込めばヒーローになれますよ」

ロシア人に「海にウォッカのビンが流れていますよ」

イタリア人に「海で美女が泳いでいますよ」

フランス人に「決して海には飛び込まないで下さい」

イギリス人に「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」

ドイツ人に「規則ですので海に飛び込んでください」

中国人に「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」

日本人に「みなさんはもう飛び込みましたよ」

韓国人に「日本人はもう飛び込みましたよ」

北朝鮮人に「今が亡命のチャンスです」

どなたが思いついたのか、国民性とか心情から、的確な勧告の言葉なのだそうです。日本人には、そう言った言い方がいいのは納得できそうです。

ある倶楽部にいた時に、中学生や高校生が出入りしていたのです。そこで、ある催しが行われている時に、そこに入る前に、誰が来て、何人来ているかを、ほとんどの人が確かめていたのです。『みんなが来ていれば、俺も入る!』と言う考え方です。まさに日本人的な心理だと思ったのです。

太平天国の乱やアヘン戦争後の混乱していた時代、中国に、列強諸国が「租界」を、次々と作りました。そう言った国際的な動きの中で、列強諸国に伍そうとした日本も、幾つもの街に「租界」を設けたのです。

私たちが一年過ごした天津の街の、「五大道」と言う一廓に、「日本租界跡」があって、語学学校の教師に案内されて見学に行ったことがありました。『みんながやっているので!』と言うのが、やはり大きな動機付けであった様です。

『みんなが行く(食べ、見る、やる)から、俺も、私も!』が日本人の行動心理にあります。多分、東アジアの人たちに共通している心理なのかも知れません。〈個人主義〉が自分のものになっていないので、大衆に迎合して生きていくのが、安心、安全なのでしょう。別な言い方をしますと、〈主体性〉が育っていないからなのです。

寒さを感じ始めて来ると『今日は何を着ようかな?』、雨が降りそうになると『傘を持って行こうかいくまいか?』、食事の支度でスーパーに行くと『こんばんは何を食べようかな?』と思うと、窓から道行く人を見て、何を着ているか、傘を持っているか、隣の客は何を買っているかを、私たちは確かめてしまうことが多いのです。〈みんな〉の傾向に動かされているわけです。

さて、私は、何と言われたら、従うことができるでしょうか。

(日本の歴史上犠牲者最多の艱難事故の「洞爺丸」です)

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美人薄命

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私が選択した第二外国語は、フランス語でした。“ bonjour(ボンジュール) "や“ mademoiselle (マドモアゼル)の響きがやさしくて、きれいだったのと、題名を忘れてしまったフランス映画を観たのが理由でした。叶えられませんでしたが、『いつかパリに行ってみよう!』と思っていました。

最近、フランス映画の女優の写真を観たのです。あんなに美しい女性だったのに、老いると「おばあちゃん」になると言う、人の世の現実に、ちょっと驚かされました。〈美人薄命〉は、「美貌」の意味も含んで、そう言われてきた言葉なのでしょうか。

すみません、男性も同じ様に、老いていますので。時間とは、残酷なのでしょうか、または正直なのでしょうか、〈人間とは何ぞや?〉、いつまでも美貌のままでは、これからの人に申し訳ないので、衰えたり、退くのは《公平》なのかも知れません。

華南の街のわが家に、時々、赤ちゃんを連れた来訪客がありました。その赤ちゃんたちは、透き通る様な、まるで真綿かマシュマロの様なホッペをしていて、人差し指で、ツンと軽く突いて触ると、指先が埋まれてしまいそうなのです。みんな、その時期には、そんな柔らかさをホッペも心も持っていたのに、人生の嵐に揉まれている間に、こんなに固くなって、シワもシミもできてしまうのです。

これって、私が思うには、次の段階に移っていくのだと言うことです。加齢し、老いていくなら、ありのままの自分を受け入れることなのでしょう。『準、髪にブラウンヘアーがあるね!』と、後頭部を見られない私に、二十歳違いで、同じ月の同じ日の誕生日の恩師が、四十代中頃の私に言ったことがありました。ご自分が通ってきた所を、今まさに通っている私を見守ってくれていたのです。

この恩師は、十代の頃には、〈街一の悪〉だったそうです。それなりの立場にあったご両親を悩ませた過去があった人でした。対日戦争に征って、ガラリと変わって帰って来たのです。そして、お父さんと同じ道を選んで、その敵国日本にやって来たわけです。いくつかの倶楽部を建て上げ、御子息や日本人の青年に任せていきました。晩年、病を得て、召されたのですが、告別式に、彼の住んだ街の市長さんが、参列して、その人格の高さに賛辞を送ったそうです。

一緒にテニスを興じたこともあり、度々、私たち家族を招いてくださったりして、好い交わりが与えられていたのです。この方のお子さんたちと、私たちの子どもたちと《次世代交流》があり、感謝な時を持っている様です。

実は、教師が間違えて採点したのでしょうか《AAの優》、フランス語の私の成績でした。半世紀がたって、全く使えない第二外国語になってしまっています。青年期の私の憧れのフランシス・アルヌール、この方の写真でした。私の恩師は、北欧系のダンディーな映画俳優にしたいほどの素敵な男性でした。

(萩須高徳のパリの下町風景です)

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