なぜ内村鑑三は「代表的日本人」を、新渡戸稲造は「武士道」を、そして岡倉天心は「茶の本」を、しかも日本語ではなく、英語で書いたのでしょうか。
日本を、諸外国に紹介したかったと言う、単純な動機だけではなかった様です。彼らは、江戸末期に、武士の家に生まれ育って、幕末から文明開化の明治維新の激動する時代を生きて来た人でした。
当時の日本が、そして日本人が、近代化から立ち遅れたと言う思いの中に、何とも言えない〈劣等意識(コンプレックス)〉を覚えていて、その裏返しの様にして、日本の優点、美点を、世界に向かって誇り、発信たかったに違いありません。
私は、“ give me chocolate ” の世代の子で、甘い物欲しさに、最初に覚えた英語が、これでした。進駐軍の兵士の周りで、そう叫んで欲しがった過去があります。面白がって、アメリカ兵が放り投げるお菓子や小銭を、入り乱れて争って拾ったのです。
思春期に入った私は、自意識が強くなるに連れて、この子ども時代の行為に、〈恥〉を強烈に感じたのです。放り投げたアメリカ兵が赦せないのではなく、拾うために争った無恥な自分が赦せませんでした。それで、日本人の精神を培い、誇りを持とうと躍起になって、青年期を走り抜けました。
南満州鉄道の総裁や、近衛内閣の外務大臣を歴任した、「松岡洋右(ようすけ)」が、終戦を迎えたある日、彼のもとに出入りしていた新聞記者に、『アメリカ人はどういう人間か?』と聞かれて、次の様に答えています。
『野中に一本道があるとする。人一人、やっと通れる細い道だ。君がこっちから歩いて行くと、アメリカ人が向こうから歩いてくる。野原の真ん中で、君達は鉢合わせだ。こっちも退かない。むこうも退かない。そうやってしばらく、互いに睨み逢っているうちに、しびれを切らしたアメリカ人は、拳骨を固めてポカンときみの横っつらを殴ってくるよ。さあ、そのとき、ハッと思って頭を下げて横に退いて相手を通して見給え。この次からは、そんな道で出会えば、彼は必ずものもいわずに殴ってくる。それが一番効果的な解決手段だと思う訳だ。しかし、その一回目に、君がヘコタレないで、何くそッと相手を殴り返してやるのだ。するとアメリカ人はビックリして君を見直すんだ。コイツは、ちょっとやれる奴だ、という訳だな。そしてそれからは無二の親友になれるチャンスがでてくる。』
彼は、13歳でアメリカに留学しています。そのアメリカでの生活は、大変苦しかったのです。最初の寄宿先に到着した早々、薪割りを命じられるなど、使用人としての務めをこなしながら学校へ通わなくてはならなかったそうです。東洋人への人種偏見や差別を身をもって体験した過去があったのです。それで必死に学んだ様です。
欧米を、欧米人を、素直に受け入れられない、体験からくる被害意識を持っていたのです。まさに私も同じでした。そんな自分の過去と偏見を正すために、私には、8年間、アメリカ人起業家の下で学び、訓練される時を必要とし、その時を過ごしました。本音でこの方と関わりを持っことによって、私の偏見や傷、〈日本精神〉が正され、癒されたのです。
優等意識と言うのは、劣等意識の裏返しなのだということを学び、内村や新渡戸や岡倉も、心の思いの中で問答をし、闘い、矯正されて行ったのではないでしょうか。少なくとも彼らは、後に国際社会で通用する日本人となっています。
私は日本人であることを、若い頃は、誇ろうとして躍起でした。しかし今は、ただ《感謝》したいだけなのです。父や母や恩師に対して、感謝がある様にしてです。この国土、自然、風土、歴史を、正しく理解し、私を育んでくれた良き物や事に、『ありがとうございます!』と言う思いでいたいのです。
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