今日は、家内と散歩に出て、「蔵の街美術館」に行って来ました。「特別企画展「栃木初の写真師 片岡如松 -時代を写した写真と絵葉書」の招待状をいただたので、行って来たのです。栃木市のホームページに、次の様な案内が掲載されています。
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片岡如松(かたおかじょしょう 1843~1919年)は、旧日光輪王寺宮御家来衆の武士の家に生まれ、日本の職業写真の祖とされる下岡蓮杖(しもおかれんじょう)の弟子・横山松三郎と運命的な出会いを果たすと、明治3年(1870)(一説に明治2年)、栃木県初となる写真館を日光で創業しました。明治5年(1872)に栃木町に移ってから、150年にわたり栃木の町や人々を撮影してきた片岡写真館は、現在も営業を続け、歴史の記憶をとどめています。
写真ならびに印刷の技術の向上と深く関わりのある絵葉書は、日本で明治33年(1900)に私製葉書が認可されると、全国的に次々と発行されるようになります。名所旧跡、戦争・災害といった時事的なものから、学校の運動会などの行事記念として制作されることもあった絵葉書ですが、栃木では片岡写真館や地元の書店が関わって、数多くの絵葉書が発行されました。
片岡如松の没後100年にあたる本年、如松と、その息子・武が写した写真や、明治期から昭和にかけての絵葉書を通して、近代の栃木を振り返ります。
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この片岡写真館の二代目の武氏が、明治43年(1910)に、栃木市を襲った、「洪水」の様子を写真に残しているのです。生々しい市内の洪水の様子は、罹災経験の家内と私にとっては、感ずるところ大でした。この武氏は、洪水の撮影のために無理をされたのだそうで、撮影して間も無く肺炎に罹って、34歳で亡くなっておいでです。
戦場のカメラマンのロバート・キャパが、第一次インドシナ戦争の折、ヴェトナムの戦場で亡くなっていますが、「報道写真家」の走りの様な死を、この方が遂げられているのです。映像を残そう、伝えたいという思いは、死の危険をも顧みないで行動してしまう、"プロフェッショナル"だったことになります。
私の兄が、中学生の時に、写真に興味を持っていて、よく写真を撮りに出かけていました。帰ってくると、学校の許可を得たのでしょう、写真用暗室に入り込んでは、撮ったフィルムを、“ DPE(ディー・ピー・イー、Development – Printing – Enlargement )“ を一人でやっていました。『アニキすげえなあ!』と思って、小学生の私は、あの暗室に一緒に入ったことがありました。
その狭い部屋の中は、独特の現像液や定着液の臭いがしていました。今は、大きなスーパーには、USBを持って行って、セットすると、写真ができる機械までもあるのですね。《安い早い綺麗》で、片岡如松氏や武氏が生きていたら、驚いてしまうことでしょう。私はもっぱら、iPadで好きな写真を撮っていますが、何時か、《ライカLeica》を手にできるでしょうか。
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