県庁

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山梨市と同じ様に、「栃木市」なのに栃木県庁所在市ではないのは、『どうして?』と思うのは、私だけではないのだろうと思っています。山梨市が「市」とされた経緯は、「日下部町」が中心となって近隣の町村を合併してできたのが、1954年でしたから、町村合併によった命名だったのです。

ところが、明治の初め、「廃藩置県」が行われた時に、1871年(明治4年)に「栃木県」の県庁が、栃木市に置かれています。ところが、多くあった県が、1884年に統合された時に、県庁が宇都宮に定められてしまいまうのです。その経緯は、次の様です。

「明治政府の版籍奉還、廃藩置県により、明治4年7月には全国3府302県となり、その年のうちに3府72県に統合された。日光、壬生、吹上、佐野、足利、館林(上野国3郡)の6県を統合した栃木県と、宇都宮、烏山、黒羽、大田原、茂木の5県を統合した宇都宮県の2県となり、それぞれの県庁は栃木宿と宇都宮町に置かれた。初代栃木県令は鍋島貞幹、宇都宮県には県令がいなかった(産経新聞)」

当時の県令(現在の県知事)の理不尽な決定によったのだそうです。栃木町は、「自由民権運動」が盛んだった様で、その動きを、三島通庸県令が嫌い、宇都宮に県庁が置かれることになったと言われています。歴史性からするなら、栃木町に県庁があるべきだったのですが、そうならなかった理由が、一県令の思惑だったことになりそうです。

板垣退助を中心に起こった「自由民権運動」の中で、「オッペケペー節」が誕生し、川上音二郎が歌いました。

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権利幸福きらゐな人に自由湯をばのましたい
オッペケペ オッペケペッポーペッポーポー
堅い上下角とれて マンテルヅボンに人力車
意気な束髪ボンねット 貴女(きじょ)に紳士のいでたちで
外部のかざりはよけれども 政治の思想が欠乏だ
天地の真理が解らない 心に自由の種をまけ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

不景気極る今日に 細民困窮みかへらず 目深に被ふた高帽子
金の指輪に金時計 権門貴顕に膝をまげ 芸者たいこに金をまき
内には米を倉につみ 同胞兄弟見殺か
幾等慈悲なき欲心も 余り非道な薄情な 但し冥土の御土産か
地獄でゑんまに面会し わいろ遣ふて極楽へ 行けるかえ ゆけないよ
オッペケペ オッペケペッポーポー

亭主の職業は知らないが おつむは当世のそくはつで
ことばは開化の漢語(かんご)で みそかのことわり洋犬(カメ)抱いて
不似合だ およしなさい なんにも知らずに知ったかほ
むやみに西洋をはなにかけ 日本酒なんぞはのまれない
ビールにブランデーベルモット 腹にもなれない洋食を
やたらに喰ふのもまけおしみ なゐしょで後架(こうか)でへどついて
まじめな顔してコーヒのむ おかしいね
エラペケペッポ ペッポーポー

儘になるなら自由の水で 国のけがれを落したい
オッペケペッポヘッポーポ
むことけ島田に当世髪 ねづみのかたきに違いない
かたまきゾロゾロ 引づらし 舶来もようで りっぱだね
買う時ア大層おだしだろう 夏向アあつくていらないよ
其時ァおっ母が 推量(すいりょ)して お袖に隠して一走り
細工にいてくるよ ヲヤ大きなこゑでハ いわれない
内証だよぶたいハ結構(けつきやう)だ ごめんなさい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポポ

お妾け嬢さんごんさいに 芝居を見せるハ不開化だ
勧善懲悪わからなゐ いろけの所に目をとめて だゐぢの夫を袖にする
浮気をすること必定だ おためにならなゐおよしなさい
国会開けた今日に 役者にのろけちやおられない 日本をだゐじに守りなさゐ
まゆげのないのがお好なら かったいおいろに持ちなんせ
目玉むくのがおすきなら たぬきとそいねをするがよい
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポー

當り外さぬ中村座 書生の所作事 オツペケぺ
川上ゑんちやうの大一座 自由の権利で教導し
板垣遭難大当り 監獄写真は物凄い
心の迷で赤いべべ 存廃娼妓の問答は
得意の弁士で大笑ひ 議論はまちまち客の癖
オッペケペ オッペケペッポー ペッポッポー

親が貧すりや緞子(どんす)のふとん 敷いて娘ハ玉のこし
オッペケペオッペケペッポ ペッポーポ
娘のかた掛りっぱだが 父っさんケットを腰にまき
ドチラモお客を乗せたがる 娘の転ぶを見ならふて
父っさん転んじゃいけないよ かへり車ハ掛引だ
ホントに転覆(かへ)しちゃたまらなゐ オヤあぶなゐよ
オッペケペ オッペケペッポ ペッポーポ

洋語をならふて開化ぶり パンくふばかりが改良でねへ
自由の権利を高調(こうてう)し 国威をはるのが急務だよ
ちしきとちしきのくらべあゐ キョロキョロいたしちゃ居られなゐ
窮理と発明のさきがけて 異国におとらずやッつけろ
神国名義だ日本 ポ

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別に、宇都宮に対抗心を向けているわけではありません。歴史の事実です。永野川や巴波川の氾濫で、洪水の被害に遭った「栃木」のことを知りたかっただけです。「舟運」が盛んな街は、高台ではなく、低地に街が開いていますから、地勢などが原因で、水害に見舞われて来た街なのです。今朝も「文明開化」の匂いのする、「コーヒー」を飲むことにしましょう。

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