いのち

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この写真は、9月25日に撮影したものです。何と9ヶ月の留守の間、生き続けていた鉢植えです。ハナキリンと胡蝶蘭、そして玄関とトイレの中のポトスが生き延びていてくれました。時々、私たちの留守の間、部屋を使った方たちが、水遣りをしてくれていたのだと思います。

それにしても、その生命力の強さに驚いたのです。そうすると最高の命を宿す人間は、一見か弱そうに見えても、実は強いのです。9ヶ月を闘病し続ける家内の内なる《いのち》も、また強いに違いありません。
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ひと区切り

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先週、この写真の「壁時計」 を買いました。小諸の工芸家の個展が、友人の息子さんのお店の一角で開かれ、そこに展示されていたものに、見た瞬間、《一目惚れ》をしてしまったのです。心がときめいたわけで、ちょっと高価でしたが買い求めてしまいました。振り子を左右に振りながら《時を刻む》壁の時計は、家内と私の《十三年の時々》を蘇がえさせている様です。

この週初めに、その《13年間》を過ごした、大陸中国に、家内の治療のために帰国してから、9ヶ月ぶりに戻ったのです。飛行場を出た瞬間、慣れ親しんだ佇まいもにおいも風も、ただ懐かしさがこみ上げて来ました。友情を交わしたみなさんに再会し、彼らに家内からの便りとビデオ映像を見せて、物心両面で助けてくださった事を感謝するのが、今回の訪問の第一の目的でした。

そして、もう一つの目的は、住んでいた家の整理でした。13年間の生活のにおいの染み込んだ物を、差し上げる物、持ち帰る物、捨てる物とに分別したのです。捨てづらい物が多くありましたが、一つ一つに思い出の籠もった物を捨てるには、4泊5日の日程での滞在でしたから、実に辛いものがありました。頂いた物が多くて、仕方なく涙を飲みながら捨てました。手に取って郷愁にひたる余裕はなかったからです。
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人生そのものが旅で、自分がこの地上の寄留者であることを認めて、何一つ持って、この世を出ることができないのを思い出し、決断して多くを捨ててしまいました。2個のスーツケースだけを手にして、この正月の急遽の帰国でしたので、残した物の13年分だったのです。でも帰国した地でのもうしばらくの生活のために、必要な物だけを持ち帰るのですが、その街と日本とを行き来する友人が、一つづつ持って来てくれるというので、お願いしてしまいました。

片付けの合間に、4回も《歓迎の宴》を設けてくださったのです。そこで9ヶ月の不在を詫び、家内の奇跡的な闘病を伝えて、支え続けてくださった友人たちと、一緒に時を過ごしました。 入院中の家内の世話を、喜んでしてくださったみなさんでした。日本の様に完全看護ではない、あちらの病院で、24時間、絶え間無い世話を交代でしてくれ、また見舞ってくださり、経済的にも助けてくださったみなさんでした。《旧交を温める》とは、そのことでしょうか。

異口同音に、『明年你们一定回来吧mingniannimenyidinghuilaiba/来年戻って来てください!』とみなさんに言われ、そして『こちらに帰って来たら、私の家に住んでください!』と何人かの方に言われたのです。 それで、『きっと家内と帰って来ますね!』と、私は返事をしました。

家内と私が、その華南の街で刻んだ時は、生涯の最良の年月でした。父が戦時中に、軍属として、爆撃機の部品工場の責任者としての立場で、旧軍に仕えて、戦争協力をしたことへの「謝罪」のために訪ね、定住し、倶楽部の中で共に過ごした年月なのです。そんな父の子である私を「好朋友haopengyou」とし、そんな私の家内を「師毋shimu」と呼んで、さらに『你们是我们的一家人nimenshiwomendeyijiaren/貴方たちは私たちの家族ですよ!』と呼んでくれもしたのです。

あの家内の省立医院への入院、そして日本での治療に、そして今でも、心だけではなく、物質的にもこの友人たちが支え、助けていてくれるのは、望外の恵みです。《愛される》と言うことが、どの様なことなのかを実体験した年月でしたし、今回の帰郷の経験でもありました。

ひと先ず、私たちの大陸での生活に区切りをつけて、昨夕帰宅しました。長男が、休みをとってくれて同伴してくれたのです。彼にとって二度目の訪問は、両親の実質的な帰国の助けでした。長女も、家内の世話のために、休暇をとって帰国してくれ助けてくれたのです。

そして《後ろ髪を引かれる》という想いも、どんなことかが分かった時でした。この友人たち、尊敬するみなさんが、空港まで送ってくださり、見送ってくださったのです。13年、12年の思い出も、心の倉庫に仕舞い込んでの帰国でした。これからも、この部屋の壁時計は、休まずに時を刻んで、戻って帰れる時を知らせてくれることでしょう。

(壁時計と12年を過ごした街のカジュマルの木です)
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死の谷をすぎて

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同じ教師が担任だった、同窓の斉藤和明(元ICU教授)が翻訳した、アーネスト・ゴードン著の「死の谷をすぎて〜クワイ河収容所〜( 現著名“ Through the Valley of the Kwai ”」は、第二次世界大戦、太平洋戦争中の日本軍の蛮行の実態を明らかにしています。

インドシナ半島に侵攻した日本軍は、インド侵入の作戦ために、物資の運搬のために、ビルマへの陸上補給路を必要としていました。そこで考え出したのは、鉄道の敷設でした。そのために捕虜と現地人を投入したのです。その鉄道の名が、「泰緬鉄道(タイとミャンマーを結んでいました)」でした。

その工期は、18ヵ月を要し、実に400キロの鉄道でした。この鉄路の工事ののための作業員には、日本軍1万2000人、連合国の兵士、現地人労務者が従事しています。この他には、タイ、マレーシア、インドネシアの「ロウムシャ」と呼ばれる人たちがいました。

“ ウイキペディア ”には、この建設工事について、「動員数は、アジア人労働者が約20万人から30万人、連合軍の捕虜約6万2千人から6万5千人とされる。泰緬鉄道の建設期間中に、約1万6千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した。アジア人労働者の死亡数は、裁判で争われていないため明確ではないが、約4万人から7万人と推定されている。」と記しています。

この鉄道が、「死の鉄道」と呼ばれるのは、〈枕木一本一人〉の犠牲者がいたからです。犠牲者の実数は不確かだとされています。その犠牲を免れた一人が、この書の著者の当時二十代のゴードンでした。

彼も「死の家」で、劣悪な食事と最悪な住環境の中で過ごしたのです。収容所生活に、絶望して自暴自棄になっていく仲間たちが、次第に、自分の得意分野を、分かち合う文化的な活動がなされていくのです。そうする間に、荒廃した心が回復して、人間性を取り戻してく様子が記載されています。死の恐怖の逆境の中で、素晴らしい回復の業が起こったわけです。

帰還後、ゴードンは、アメリカのプリンストン大学で教え、多くの若者たちの心に触れて、戦後を生きました。その様に、辛い経験も、益に変えられる能力が、人の心の内側に宿っていることに、驚かされ安堵します。そう、確かに《耐えられない試練なし》なのです。

(泰緬鉄道の一部です)
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浪花節風

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戦後史の中で、一冊の本の出版が衝撃的でした。「日本列島改造論」と言う著書で、自由民主党の総裁選挙を目前にした、1972年6月20日に、総裁候補の田中角栄が著したものでした。『工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進すること!』を公約したのです。

これが “ 100万部 ” 近くも売れ、この出版が功を奏したのでしょうか、その直後の翌7月7日には、総裁戦に勝利し、第64代内閣総理大臣に選ばれ、就任します。

多く政治家の著書は、“ ゴーストライター ” が執筆するのだそうですが、この書も、自分の書いたメモから、書き進められたものだった様です。地方創生を旗印に、田中首相は、日本列島の改造を手掛けます。自分の出身県である新潟には、首都圏から新幹線や高速道路も作られていったのです。

何時でしたか、新潟に行きました時に、ガソリンスタンドの店主が、『角栄さんは!』と地元出身の総理大臣を褒めちぎっておいででした。日本海側を裏日本と言って、太平洋側と大きな格差があって、さらに過疎化が進んでいく最中、それを逆転してくれた大恩人自慢は、ロッキード事件の後でも、地元では、ものすごく強烈なものでした。

経済開発の候補になった周辺では、土地への投機がブームとなって、地価が高騰してしまいます。さらに物価が上昇してしまうと言ったマイナス面を産んだのです。結局、田中内閣は、1974年12月までの短命に終わってしまいました。高学歴でない庶民の出の田中角栄は、確かに魅力的な政治家だったのです。

功罪併せ持つ人でしたが、越後人だけではなく、多くの日本人の心をつかんだ人でした。驚異的な記憶力の持ち主だったそうです。自分の選挙区で、有権者に逢うと即座に名前、家族の年齢、悩み、仕事などを瞬時に思い出していた様です。どうしても思い出せない時は、『あなた誰だっけ?』と聞くのだそうです。相手が苗字で答えると、『もちろん苗字は知っているよ。名前を聞いているんだ!』と言ったのは有名な逸話です。

昭和の政治家としては、人心収攬(じんしんしゅうらん)の人で、浪花節風な人だったのでしょう。人の面倒見は抜群に好い人だったそうです。そんなこんなで、角栄旋風に煽られた若い私は、学校を卒業する前年、新潟県の教員試験を受けたのですが、見事に不合格でした。

([pixpot.netから]新潟県十日町市にある棚田です)
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ポカン


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今朝は、自転車で35分ほど、農道を走った所にある、医院に出かけて来ました。

聖徳太子が、小高い丘から街の様子を眺めていると、麓の家々のかまどの煙突から、夕食の支度の煮炊きする煙が昇っていました。衣食住が足りて、庶民の日常生活がなされているのを知って、太子が安堵したのだと、小学校の授業で学んだことがありました。

為政者とか指導者とは、こう言った庶民の生活ぶりを身近に感じているべき模範例です。鰤(ぶり)や鯛(たい)よりも美味しい秋刀魚の味も知らないで、お殿様をしていた話が、寄席で語られますが、高級市民が住む巷(ちまた)の様子を知らずに、政(まつりごと)を行なっているのでは、ちょっと足りませんね。
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今朝の農道の脇には、稲穂が、すでに刈り取られ、今まさに刈り入れの最中の稲、これから借り入れをするのを待つ田圃の様子を眺めていました。まだ穂の出る前の稲の先が、寒さで、黄色く変色していましたので、今年は不作なのかと心配していました。でも、どうにか持ち直して、豊かな実を付けて、タワワになっているのを見て、安心しました。

〈小徳太子〉の私ですが、胸を撫で下ろしたところです。医師の診察は、 〈最高血圧120で安定〉とのことです。家から、この医院 まで、四軒の医者を通り越して、友人の息子さん夫妻のかかりつけの医者に行っているのです。そんなことを医師に話しましたら、ポカンとして聞いておいででした。
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二日遅れ

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今朝のわが家の花壇です。予想に反して、20輪もの朝顔が開いてくれました。賑やかな朝を迎えました。先ほど、“ 小朋友 “ が、幼稚園の登園のついでに、「敬老の日」のギフトを持ってきてくれました。家内は大喜びで、今一緒に、幼稚園に送るお母さんの運転の車で、幼稚園に行っています。結婚前に、幼児教育をした家内には、懐かしい世界なのでしょうか。
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ホイットマン

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ウォルター・ホイットマン 

あなたの道を他人が歩むことはできない。
その道はあなた自身で歩まなければならないものだ。

好きな人たちと一緒に生きる。
私はそれだけで十分だ。

あなたが教訓を学んだ相手はあなたを賞賛し、
優しく寄り添ってくれた人々だけだろうか?
あなたとぶつかり論争した相手からも
素晴らしい教訓を学んだのではないだろうか?

あなたはあなたとして生きればいい。
それで十分です。

あなたの生き様は、
偉大な詩になるだろう。

私たちの魂を満たしてくれるものは真実だけです。

情熱…。
それなくして生きていると言えようか?

世界中の誰もが私を賞賛したとしても
私は一人静かに座っているだろう。
世界中の誰もが私を見捨てたとしても
私は一人静かに座っているだろう。

私は幸福を求めない。
…私自身が幸福だからだ。

多くの人は特別な地位を獲得するために
大衆から抜きん出ようとする。
そういう野心を持っているものだ。
しかし真に人生を極めている者は
大衆の一部であることに偉大さを見れる。

その一歩一歩を自身が生きた証とせよ。

自分自身が最良の手本になればいい。
そういう手本になる人物が一人でもいれば、
その集団は千年輝くものになる。

寒さにふるえた者ほど
太陽の暖かさを感じる。
人生の悩みをくぐった者ほど
生命の尊さを知る。

[注]ウォルター・ホイットマン((1819~1892年)、「自由詩の父」と言われたアメリカ詩人でした。アメリカ文学に多大な影響を与えております。詩集「草の葉」が有名。夏目漱石によって日本に紹介されています。

( “ ゆるキャラ 太陽のイラスト無料素材 ” からです)
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喇叭花

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昨日は、長男家族が、〈ジジババの日〉に訪ねてくれ、「すき焼き鍋」を一緒に囲みました。みんなで食べると、さらに美味しいもので、感謝な昼食でした。今日は、連休明け、曜日に関係なく生きていて、毎日が、「敬老の日」です。

今朝も、「喇叭花lǎbahuā/朝顔」が10輪ほど咲いています。肌寒かったのが嘘の様に、また暑さを感じている、昨日今日です。週末には長女が単身で帰京します。いつの間にか、親が引っ越してしまった土地への帰還です。

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栃木人

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“ S、O、N、Y SONY “、テレビがわが家に入ってきて、民間放送局の番組には、広告(コマーシャル)が入って番組が放映される中、この文句のコマーシャルが、頻繁にテレビ画面に流れていたのです。と言うか、覚えやすかったのか、口を突いて出てきてしまうphraseだったのでしょう。

トランジスタラジオ、テープレコーダー、カセットテープレコーダー、テレビと言った電気製品が矢継ぎ早に作られ、製造販売されて行くのでした。当初、「東京通信工業」の設立者の一人、井深大(まさる)は、アメリカの「ベル研究所」が、トランジスターを開発したことをアメリカ訪問中に知ります。トランジスタの製造ライセンス契約に、同僚の盛田昭夫が成功して、日本で製造を始めたのです。

一時期は、この通信機器業界の牽引者の様な役割を担ってきた企業でした。私自身、発売当初カセットレコーダの一号機を買ったことがありました。その創業者の井深大は、栃木県人で、日光市の出身です。その祖先は、会津藩の家老の家筋だそうです。親戚には、飯盛山で自刃した白虎隊隊士の井深茂太郎、明治学院総理を歴任した井深梶之助、ハンセン病に一生を捧げ井深八重がいます。

一方、井深大のお嬢さんは、知的障害をお持ちでした。そう言った関係で、障害者が自立出来る機会を社内の生産部門に作られ、19781年に、大分県に身体障害者が働ける工場の「サンインダストリー(後のソニー・太陽)」を設立して、操業を始められたのです。この会社の理念を、『障害者の特権なしの厳しさで健丈者よりも優れたものを!』と、井深大を掲げました。

社会の弱者の視線で見ることのできる、企業経営者であることが、井深大の大きな特徴でしょうか。こう言った企業人がいたことは、栃木としては誇るべきだと思います。

(日光市の市花の「ニッコウキスゲ(日光黄菅)です)
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