死の谷をすぎて

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同じ教師が担任だった、同窓の斉藤和明(元ICU教授)が翻訳した、アーネスト・ゴードン著の「死の谷をすぎて〜クワイ河収容所〜( 現著名“ Through the Valley of the Kwai ”」は、第二次世界大戦、太平洋戦争中の日本軍の蛮行の実態を明らかにしています。

インドシナ半島に侵攻した日本軍は、インド侵入の作戦ために、物資の運搬のために、ビルマへの陸上補給路を必要としていました。そこで考え出したのは、鉄道の敷設でした。そのために捕虜と現地人を投入したのです。その鉄道の名が、「泰緬鉄道(タイとミャンマーを結んでいました)」でした。

その工期は、18ヵ月を要し、実に400キロの鉄道でした。この鉄路の工事ののための作業員には、日本軍1万2000人、連合国の兵士、現地人労務者が従事しています。この他には、タイ、マレーシア、インドネシアの「ロウムシャ」と呼ばれる人たちがいました。

“ ウイキペディア ”には、この建設工事について、「動員数は、アジア人労働者が約20万人から30万人、連合軍の捕虜約6万2千人から6万5千人とされる。泰緬鉄道の建設期間中に、約1万6千人の連合軍の捕虜が、飢餓と疾病と虐待のために死亡した。アジア人労働者の死亡数は、裁判で争われていないため明確ではないが、約4万人から7万人と推定されている。」と記しています。

この鉄道が、「死の鉄道」と呼ばれるのは、〈枕木一本一人〉の犠牲者がいたからです。犠牲者の実数は不確かだとされています。その犠牲を免れた一人が、この書の著者の当時二十代のゴードンでした。

彼も「死の家」で、劣悪な食事と最悪な住環境の中で過ごしたのです。収容所生活に、絶望して自暴自棄になっていく仲間たちが、次第に、自分の得意分野を、分かち合う文化的な活動がなされていくのです。そうする間に、荒廃した心が回復して、人間性を取り戻してく様子が記載されています。死の恐怖の逆境の中で、素晴らしい回復の業が起こったわけです。

帰還後、ゴードンは、アメリカのプリンストン大学で教え、多くの若者たちの心に触れて、戦後を生きました。その様に、辛い経験も、益に変えられる能力が、人の心の内側に宿っていることに、驚かされ安堵します。そう、確かに《耐えられない試練なし》なのです。

(泰緬鉄道の一部です)
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