朝顔/8月31日

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今朝は、家の中から、朝顔を撮影してみました。水曜日から昨日まで、私の兄弟たちが、闘病中の家内と私を、二泊三日の温泉旅行に連れ出してくれたのです。留守中の水遣りを心配していましたら、次女から、『自動給水ノズルがあります!』と言われ、百均に跳んで行って買ったものをセットしましたら、枯れたり萎れることなく、この朝の開花です。

好い週末をお過ごしください。

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苦楽

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ユダヤの格言に、「友はどんな時にも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生れる」があります。素晴らしい友がいて、訪ねてくれ、見舞ってくれ、病状を聞いてくれる友が、闘病中の家内には大勢いて、その友愛は羨ましい限りです。

さらに家内には、二人の姉、二人の兄、そして妹がいます。兄二人は、すでに病気で亡くなっていますが、懐かしい思い出が、たくさんある様です。学校の寮に住みながらで学んでいた頃、下の兄が、よく訪ねてくれて激励してくれたそうです。子どものいない伯父の家に、祖母の権威で養子に行かされ兄だったのです。その弟を、弟思いの上の兄が連れ戻しに行った一大事件があった様です。

この上の兄は、高校を卒業と同時に、ブラジルに移民しています。書類上での契約と現地での現実とが違っていたそうで、随分と苦労をしたそうです。移民仲間が、異国での生活に耐え切れずに自死し、その亡骸をスコップで掘った穴に、自分の手で埋葬しなければならなかったのです。その農園を離れ、手が器用だったので、ある人から「時計修理」の技術を教えてもらい、サンパウロの近郊の街で、小さな店を出して、生活をやり直したそうです。

家内は、子育て中の娘たちを連れて、この兄に招かれて、その街を訪ねたことがありました。勤勉に働き、いく棟もの家と、広大な敷地を手に入れて、長兄は、街の成功者になっていたのです。二人とも、妹思いの優しい兄でしたが、病には勝てなかった様です。

二人の姉は、国際結婚をしてアメリカで生活をしたのですが、アメリカンドリームとは程遠い、厳しい現実を生きた様です。二人とも、妹には優しい姉で、今の上の姉は、息子の経営する医療施設で、老後を過ごしています。下の姉は、ハワイで生活していたのですが、弱くなったのでしょうか、本土に住む長男に誘われて、近々移り住むそうです。

妹は、中部圏の街に住んでいて、独身生活を謳歌してきましたが、若い頃から住んだサンパウロに戻る準備をしている様です。時々、家内を見舞ってくれています。戦争中から、厳しい戦後を共に、多くの兄弟姉妹と過ごしたのは、家内には、「宝石の様な日々」だったそうです。

上の兄が、弟妹を連れて、新聞配達や養鶏で売った卵の代金を手に、「豊島園」に連れて行ったそうです。電車賃や入園料を払って、帰りに電車賃の他に、「かき氷」のお金を残していたそうです。それで、4人分の代金を払おうとしたら、足りなかったのです。家の近く比べると、豊島園のかき氷の代金の方が、はるかに高かったのです。売り子のおばさんに叱られている苦渋の兄の顔を、家内はハラハラして見ていたのです。

それも、これも、あれも、みんな懐かしい思い出なのでしょう。まさに「苦しみを分け合う兄弟」が、家内にはいたわけです。今週、義理の兄弟が、家内を激励しようと計画し、予約を取ってくれて、温泉旅行に招待してくれたのです。兄たちは夫妻で、20年ほど前に愛ー妻を亡くした弟は一人で、弟運転のレンタカーで迎えてくれて、この街の北にある鬼怒川温泉に連れ出してくれたのです。

家内の目は輝いていました。友人が、友愛で提供してくれた家やベッドの生活空間から離れて、二泊三日の小旅行、温泉旅行は、嬉しいギフトでした。親く語り合い、静かに流れて行く時を共有し、食べ物を分け合い、みんな丸く、白く、穏やかになった兄弟たちと、その夫人たちで過ごした時は、家内を朗らかにし、輝かしてくれたのです。

(静かに瀬音を聞いた鬼怒川の流れです)
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ヒーロー

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「ヒトラーを憤慨させた黒人のヒーロー(ジェシー・オーエンス)」
[投稿者:T. Konagai Blog- ドイツ に投稿]

平和の祭典でもあるオリンピック。当然、どの時代も『平和』だったわけではない。1936年のベルリンオリンピック。当時ドイツを支配していたのはナチス。ヒトラーはこのオリンピックでアーリア人の優秀さを世界に知らしめようと気合が入っていた。そんなヒトラーの顔に泥を塗った黒人のヒーローがいる。アメリカの陸上選手、ジェシー・オーエンスだ。

ナチスと言えばユダヤ人迫害で知られているがいわゆる白人至上主義であったため
非白人に対する差別もひどいものであった。スタジアムにいる全員が総立ちでナチス式敬礼をする異様な雰囲気の中、まず、オーエンスは男子100Mで10秒03という世界新記録で優勝。白人の優秀さを見せつけるはずだったヒトラーはおもしろくない。

次の走り幅跳びではルッツ・ロングがドイツ政府の期待を一身に浴びていた。金髪で背が高く、ハンサムな彼は正にヒトラーの掲げる理想の白人だ。予選ではそのロングが新記録を出すがオーエンスはファールで後がなくなってしまう。そんなオーエンスにロングが『もう少し手前から飛ぶといい』とアドバイスをしたと伝えられている。
ヒトラーの目の前で黒人を助けたのだ。オーエンスは見事に予選突破し、そのまま決勝でロングを破り2つ目の金メダルを手にする。 表彰台から下りた二人は仲良く腕を組んで歩いた。
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ドイツでもアメリカでも黒人が差別される中での2人のスポーツマンの友情である。
あのルドルフ・ヘスから『2度とニガー(黒人)と抱擁するな』と言われたロングが
オリンピック銀メダリストであるにも関わらず前線に送られ30歳で戦死しているのはこの出来事が関係しているのかもしれない。

続く200Mでも2位の選手に体2つ分差をつけて優勝。3つの金メダルを獲得したオーエンスはヒーローとなった。彼にサインを求め、賞賛する民衆の姿を目の当たりにし、ナチスは、ヒトラーは憤慨する。

更に400Mリレーでアメリカ代表として出場するはずだったマーティン・ドリックマンとサム・スティラーが直前になって交代させられたのだ。二人はユダヤ人だった。ユダヤ人を走らせるくらいなら黒人を、ということ。結局オーエンスはリレーでも金メダルを獲得し一人で4つの金メダルの快挙を成し遂げた。本人はマーティンとサムに申し訳ないとあまり喜びは表さなかった。

オリンピックの後、アメリカ本国でヒーローとして迎えられたが結局差別はなくならず、ホテルに入るときも従業員用の入り口から入らなければならなかったり、馬と競争させられたりと扱いはひどかったという。

Jesse Owens – Der schnellste Mann der Welt
*この内容はARDの”Jesse Owens – Der schnellste Mann der Welt”
の内容を簡単に日本語でまとめたものです。
上記のリンクから本編(ドイツ語)が見れます。

朝顔/8月28日

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佐賀や福岡では、強烈多量の雨が降っていると、ニュースが伝えています。ここ北関東では、小雨、曇り空、薄日が射すなど、ちょっと不安定な天気です。

今日の午後、二人の兄夫妻、弟の招待で、近くの鬼怒川温泉に、家内と私を二泊三日の招待をしてくれるというので出掛けます。四人兄弟で、それぞれ忙しく働いてきましたが、すでに退職して、やっとみんなで温泉旅行が実行できる様になりました。父や母も一緒できたらと、すでに天に帰って行った今は、ただ思いの中で、そんな願いが湧き上がってきます。

家を空けるので、心配なのは、朝顔やハイビスカスの水遣りです。そんな心配を、子どもたちに伝えたら、〈自動給水ノズル〉が、100均で売っていると言ってきましたので、即、出かけて買ってきて、セットしたのです。こんなに便利なものまで売られているのに、驚いたり嬉しかったりの今です。

今朝も、たくさんの朝顔が咲いています。8つほどの鉢のゼラニュウム、ホットリップス、プリンセスダイアナは、庭に植え替えました。何か生き生きとして庭に収まった感じがします。大雨の被害のないことを願う、水曜日の朝です。
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ユーモア

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アルフォンス・デーケンと言われる哲学者がいます。長く上智大学で「死の教育」、「死の神学」の講座を担当された方でした。私は、大変な興味を持って、この教授の公開講座を受講したことがありました。週に一度、特急電車に乗って、四ツ谷駅まで通ったのです。実に有意義な学びの時でした。

とくにデーケン教授は、「悲嘆の作業(グリーフワーク)」の重要さについて教えてくれたのです。先年、私の娘婿の母君が、惜しまれて亡くなられました。二人の息子と娘、そして一人の幼女のお母さんで、64歳で召されたのです。家庭の事情がある何十人もの子どものお世話をし続けてこられた方でした。私たちが訪ねた時も、乳飲児の赤ちゃんの世話中でした。優しくて愛が深く、誰にも愛された妻であり、母であり、そして芸術家でした。

愛する人との死別というのは、どなたにも経験がありますし、将来においてあり得ることですし、また自分の《死》も迎えねばならないわけです。それは避けることのできない《万人の体験》です。とくに、愛する人との決別を、十二分に悲しみ嘆くことが必要だと、デーケン師は言うのです。それを確りと果たした後は、正常な生活に戻り、悲嘆体験を超えて、自分の定められた《生》を責任をもって生きて行く、そう言った心の作業が必要なのだそう です。

デーケン教授に、講義で教えていただいた「悲嘆のプロセス」には、12段階があって、次の様です。

1段階 精神的打撃と麻痺状態 
 愛する人の死という衝撃によって、一時的に現実感覚が麻痺状態になる。頭が真空になったようで、思考力がグッと落ち込む。心身のショックを少しでも和らげようとする本能的な働き、 つまり、防衛規制。

2段階 否認 
 感情、理性ともに相手の死という事実を否定する。 「あの人が死ぬ訳がない、きっと何かの間違いだ」という心理状態。 

3段階 パニック 
 身近な死に直面した恐怖による極度のパニックを起こす。 悲嘆のプロセスの初期に顕著な現象 。なるべく早く抜け出すことが望ましく、またこれを未然に防ぐことは、悲嘆教育の大切な目標のひとつと言える。
 
4段階 怒りと不当感 
 不当な苦しみを負わされたという感情から、強い怒りを感じる。  「私だけがなぜ?」「神様はなぜ、ひどい運命を科すの?」 
 ※ショックがやや収まってくると「なぜ私だけが、こんな目に…」という、不当な仕打ちを受けたという感情が沸き上がる。 亡くなられた方が、長期間闘病を続けた場合など、ある程度心の準備ができる場合もあるが、急病や災害、事故、自死などのような突然死の後では、強い怒りが爆発的に吹き出す。 故人に対しても、また自分にひどい仕打ちを与えた運命や神、あるいは加害者、そして自分自身に対する強い怒りを感じることもある。 

5段階 敵意とルサンチマン(憤り、怨恨、憎悪、非難、妬み) 
 周囲の人々や個人に対して、敵意という形で、やり場のない感情をぶつける。 遺された人のどうしようもない感情の対象として、犠牲者を必要としている場合が多く、また病死の場合は敵意の矛先を最後まで故人の側にいた医療関係者に向けられるケースが圧倒的。 日常的に患者の死を扱う病院側と、かけがえのない肉親の死に動転している遺族側との間に、感情の行き違いが起こる場合が多い。 

6段階 罪意識 
 悲嘆の行為を代表する反応で、過去の行いを悔やみ自分を責める。 「こんなことになるなら、生きているうちにもっとあれこれしてあげればよかった」という心境。 過去の行いを悔やんで自分を責めることになる。
 
7段階 空想形成・幻想   
 幻想ー空想の中で、故人がまだ生きているかのように思い込み、実生活でもそのように振る舞う。 
 例1:亡くなった子供の部屋をどうしても片付けられず何年もそのままにしている 
 例2:いつ子供が帰ってきてもいいよう、毎晩ベッドの上にパジャマまで揃えおく 

8段階 孤独感と抑うつ  
 健全な悲嘆のプロセスの一部分、早く乗り越えようとする努力と周囲の援助が重要 葬儀などが一段落し、周囲が落ち着いてくると、紛らわしようのない寂しさが襲ってくる。 

9段階 精神的混乱とアパシー(無関心)  
 日々の生活目標を見失った空虚さから、どうしていいかわからなくなり、あらゆることに関心を失う。 

10段階 あきらめ・受容  
 自分の置かれた状況を「あきらか」に見つめて受け入れ、つらい現実に勇気をもって直面しようとする努力が始まる。 
※「あきらめる」という言葉には「明らかにする」というニュアンスが含まれている。

11段階 新しい希望・ユーモアと笑いの再発見  
 ユーモアと笑いは健康的な生活に欠かせない要素で、その復活は悲嘆プロセスをうまく乗り切りつつあるしるし 。
 ※悲嘆のプロセスを彷徨っている間は、この苦しみが永遠に続くような思いに落ち込むものだが、いつかは必ず、希望の光が射し込んでくる。 こわばっていた顔にも少しずつ微笑みが戻り、ユーモアのセンスも蘇ってる。 

12段階 立ち直りの段階・新しいアイデンティティの誕生  
 愛する人を失う以前の自分に戻るのではなく、苦悩に満ちた悲嘆のプロセスを経て、新しいアイデンティティを獲得し、より成熟した人格者として生まれ変わることができる。 

デーケン師も、子どもの頃に、ごく親しい人との死別をされていて、悲嘆の体験があって、そう言った学びをされたのだそうです。悲しみの中で、もし《ユーモア》、《微笑み》があるなら、それを上手に超えて、正常な生活の戻れると、師は勧めています。デーケン流の《ユーモア》の定義は、「にも関わらず笑う」なのです。

(デーケン教授の出身地のドイツ・オルテンブルクの風景です)
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合戦場

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少し前ですが、車に乗せていただいて、栃木市の郊外に連れて行っていただいた時に、東武日光線に、ちょっと変わった名の駅があるのを知ったのです。「合戦場駅」です。雪合戦や棒倒しの合戦競技をした場所ではありません。

駅名の由来に、次の様にあります。
[「合戦場」の名は、戦国時代の皆川城主・宗成と宇都宮城主・忠綱が、現在の駅西400~500mにある白地沼を中心とする標茅ケ原(しめじがはら)で戦ったことから由来するといわれています。当時の記録が地名として、さらには駅名に残っています。また合戦場は江戸時代に宿場町として栄え、標茅ケ原は東国の名所です。]

『俺も殿様!』,『あなたは稀代の指導者!』と自他の推薦で、勢いよく立ち上がった強者が多くいて、群雄割拠した戦国時代、その勢力が拮抗(きっこう)して、領地を拡大するための「争い」が、日本中で絶えなかったのです。そのためには、農民が、鋤や鍬を刀や槍を持たされて、駆り出されて、多くの人が犠牲になったわけです。

耕作地は荒らされるし、働き手は戦死したり負傷すると言った、日本中に「強者どもの夢の跡」があって、ここ栃木にも合戦場が残されたのでしょう。どんな合戦だったのでしょうか。

[大永3年(1523年)11月、宇都宮忠綱は、1800から2500の兵で皆川領に侵攻。皆川宗成は700の兵で出陣し、両軍は下野国皆川領河原田(現栃木市)で対峙。合戦は宇都宮勢の大勝で当主の皆川宗成、宗成の弟の平川成明を討ち取るなど、皆川氏に壊滅的な被害を与えた。しかしその後、小山氏、結城氏が1800の兵を率いて皆川氏の援軍として来て衝突。宇都宮勢は劣勢となり、退かざるを得なくなったため撤退している]
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三千も四千もの兵が、刃を交わしたのですから、「蔵の街(栃木市の中心)」にも、鬨(とき)の声や、鞘当ての音が聞こえたかも知れません。こう言った時代を、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が平定し、国家を統一させたわけです。一番安心したのは庶民だったわけです。当時だって、「非戦論」を唱える人たちがいたに違いありません。

その最終的な役割を果たした徳川家康は、死して「久能山」から、「日光東照宮」に改葬されたわけです。そこに毎年、京都の朝廷から「日光例幣使」が遣わされ、「例幣」をうやうやしく献上し参詣した、その街道が、この「合戦場駅」の近くを通っているのです。

平和な時代に生まれ育って、徴兵義務も負うことなく、ここまで自分が生きてこれたのは幸いなことでした。でも、その平和の代償が、どれほど大きかったか知れません。私には、南方で戦死している叔父がいました。ですから一度も会うことはなかったのです。

(合戦場の駅と跡地です)
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気温33℃の残暑の中、百花とは言えず「七花繚乱」の庭に咲く「ハイビスカス」です。《花ある風景》、こんなに贅沢なことはありません。いつも思うのは、真っ黒な土の中から生い出でて、こんな《真紅》の花びらを開かさせるとは、不思議でたまりません。

それに引き換え、ちょっと黄色がかった淡色の肌が包んでいる、自分の〈心〉が〈真っ黒〉なのには呆れかえってしまいます。やっと自分の弱さや儚さが分かってきたのですが、まさに《生かされている我》が、ここにいて、花を愛で、人を愛で、感謝な想いも湧き上がる、そんな〈心〉にされたのも不思議でなりません。
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朝顔たより/8月21日

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昨日は所用があって、江戸まで旅をしてきました。用を済ませて、とんぼ返りでしたが、電車の冷房が、寒く感じられるほど、昨日は今夏久しぶりの涼しさを、味わえました。当初の冷夏を吹き飛ばす様な猛暑の連続でしたが、ここで一段落になるのでしょうか。

今朝、わが家の「朝顔」は、24輪も咲きました。今夏最多の花の数です。自分は怠け者で、時々、言い訳して休んだりしてしまうのですが、自然の植生は、怠けません。明日の開花の準備をして今日を迎えて終えて行きます。

昨夜は虫の声がして、眠りに誘ってくれました。今朝、弟からの一報 で、厳しい残暑の《厳重注意》を伝えてくれました。天気予報ですと、最高気温34℃とあります。今日は次男の誕生日です。好い一日をお過ごしください。
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涼、その2

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子どもの頃に、疲れ過ぎたり、運動競技を空いて力を出し切って、フラフラな状態になった時に、よく、『もう俺、”グロッキー”だ!』と言いました。なんで、そんな言い方をするのか知らなかったのですが、よく疲れると、そう言ったのです。

実は、この言葉は、お酒を飲んで、酩酊して、足元がおぼつかなくなることを、英語で”groggy(グロッギー)”と言ったのです。これは、”grog”という、水割りラム酒のことで、アルコール度の高い酒なのだそうです。飲むと、フラフラするので、ボクシングで強打されて、足がフラフラな状態を、酒酔いに似ているので、そう言う様になったと、辞書にありました。

随分前ですが、キューバの老ジャズ・メンの演奏や紹介を、ドキュメンタリー風に演出撮影した音楽映画、「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(Buena Vista Social Club」がありました(1999年製作)。アメリカ人の音楽家(ギタリスト)が、キューバのハバナで、埋もれていたピアニストやギタリスやベーシストやドラマーやボーカリストなどをを見付け出して、その彼らによって演奏活動が、1996年に始まったのです。これが爆発的に人気を得て、”グラミー賞(1997年)”を得るほどでした。

この中で、中心的メンバーだったのが、ボーカル担当の”イブライム・フェレール(Ibrahim Ferrer, 1927年2月20日 – 2005年8月6日)”でした。魅力的な歌声の持ち主だったのです。キューバ革命以降、音楽活動ができなくなってからは、キャラメルを売ったり、靴磨きをしながらして、生活をしていた様です。その収入を蓄えては、イブライムは、日曜日に”ラム酒”を飲むのを楽しみにしていたのです。

私はお酒は飲みませんが、”ラムレーズン・アイスクリーム”が好きなので、”ラム酒”って、どこで作られ、どんな製法かを調べていて、”guroggy”に、そして"グロッキー”にたどり着いたわけです。2016年に、キョーバとアメリカは国交を回復させました。そんなことを思い出して、スプーンひと匙でいいので、”ラムレーズン”入りのアイスクリームを食べたら、涼しくなるかなの今朝の気分です。
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