合戦場

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少し前ですが、車に乗せていただいて、栃木市の郊外に連れて行っていただいた時に、東武日光線に、ちょっと変わった名の駅があるのを知ったのです。「合戦場駅」です。雪合戦や棒倒しの合戦競技をした場所ではありません。

駅名の由来に、次の様にあります。
[「合戦場」の名は、戦国時代の皆川城主・宗成と宇都宮城主・忠綱が、現在の駅西400~500mにある白地沼を中心とする標茅ケ原(しめじがはら)で戦ったことから由来するといわれています。当時の記録が地名として、さらには駅名に残っています。また合戦場は江戸時代に宿場町として栄え、標茅ケ原は東国の名所です。]

『俺も一国一城の主!』,『あなたは稀代の指導者!』と自他の推薦で、勢いよく立ち上がった強者が多くいて、群雄割拠した戦国時代、その勢力が拮抗(きっこう)して、領地を拡大するための「争い」が、日本中で絶えなかったのです。そのためには、農民が、鋤や鍬を刀や槍を持たされて、駆り出されて、多くの人が犠牲になったわけです。

耕作地は荒らされるし、働き手は戦死したり負傷すると言った、日本中に「強者どもの夢の跡」があって、ここ栃木にも合戦場が残されたのでしょう。どんな合戦だったのでしょうか。

[大永3年(1523年)11月、宇都宮忠綱は、1800から2500の兵で皆川領に侵攻。皆川宗成は700の兵で出陣し、両軍は下野国皆川領河原田(現栃木市)で対峙。合戦は宇都宮勢の大勝で当主の皆川宗成、宗成の弟の平川成明を討ち取るなど、皆川氏に壊滅的な被害を与えた。しかしその後、小山氏、結城氏が1800の兵を率いて皆川氏の援軍として来て衝突。宇都宮勢は劣勢となり、退かざるを得なくなったため撤退している]
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三千も四千もの兵が、刃を交わしたのですから、「蔵の街(栃木市の中心)」にも、鬨(とき)の声や、鞘当ての音が聞こえたかも知れません。こう言った時代を、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が平定し、国家を統一させたわけです。一番安心したのは庶民だったわけです。当時だって、「非戦論」を唱える人たちがいたに違いありません。

その最終的な役割を果たした徳川家康は、死して「久能山」から、「日光東照宮」に改葬されたわけです。そこに毎年、京都の朝廷から「日光例幣使」が遣わされ、「例幣」をうやうやしく献上し参詣した、その街道が、この「合戦場駅」の近くを通っているのです。

平和な時代に生まれ育って、徴兵義務も負うことなく、ここまで自分が生きてこれたのは幸いなことでした。でも、その平和の代償が、どれほど大きかったか知れません。私には、南方で戦死している叔父がいました。ですから一度も会うことはなかったのです。

(合戦場の駅と跡地です)
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「合戦場」への1件のフィードバック

  1. 合戦場駅の駅名の説明にある
    「標茅ケ原(しめじがはら)は東国の名所(歌枕)です。」につきまして

    この誤解の元は、なんと、[古今和歌六帖](976-982年?)の
     しもつけや-しめじがはらの-さしもくさ-おのかおもひに-みをややくらむ
    の和歌までさかのぼります。

    そしてこの和歌の頭の「しもつけや」を「下野国の」と誤解したのが元です。

    実は、この「しもつけ」は植物の「シモツケ」の木の意味で、
    「シモツケ」が秋に紅葉して赤くなる様子を「おのかおもひに-みをややくらむ」と洒落た和歌です。

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