私の戦争

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日中戦争、太平洋戦争のさなか、父に下った軍命は、戦闘機の防弾ガラスの原材料を、石英の鉱床のある中部山岳の山奥で、掘削し、京浜のガラス工場に納めることでした。綺麗な結晶を見せる水晶の基盤である石英が、戦闘機に増産は急務だったからでしょう。父、三十代前半の〈報国〉だったからです。

甲府連隊長と懇意だった様で、父が山奥と街の事務所とを往復するのに使ったのは馬でした。それは、連隊長の軍馬よりも良いもので、連隊長が仕切りに欲しがったそうです。しかし父は譲らないでいる内に、子どもの発病で、栄養をつけねばならぬ父親が、世話をしていた、私の父の馬を無断で屠殺し、子どもに食べさせてしまったのです。そのことを聞いた父は、その馬丁の父親を責めることなく、不問に付した、と母に聞いたことがあります。

私は、中学生になった時、歴史を学び、人から戦時中のことを聞くに及んで、〈戦争責任〉を覚える様になっていきました。父の掘り出した石英で作られた防弾ガラス、それをつけた戦闘機や爆撃機が、朝鮮半島や中国大陸を攻撃して、多くの人命を奪ったと言う事実を蔑(ないがし)ろにできませんでした。

私が、華南の街に住み始めた時に、十代半ばの一人の少年が、わが家に来始めました。日本のアニメが好きで、アニメで日本語を覚え、日本人がいると聞いて、私を訪ねて来てから、毎週来る様になっていました。しばらくすると、彼を育ててきた祖父母が、家内と私を、家に招いてくれ、ご馳走してくださったのです。

お二人共、人民軍の位の高い退役軍人で、退役軍人用の住宅に住んでおいででした。私は、自分が日本軍の支払った給料で、産着やミルクや食べ物を与えられて育った子で、父が技術者として軍務で、防弾ガラス製造の一端を担ったことを、このお二人に語って、その防弾ガラスを装備した爆撃機でしたことを、お詫びをしたのです。

おばあさまは言いそびれていたのですが、安徽省の出身であること、生まれ育った村に、日本軍が上陸し、村を日本兵が焼き払ったことを、聞き出したのです。おじいさまは止めたのですが、私が、『是非!』と言いましたら、腕をまくって、その火で負った火傷跡を見せてくださったのです。でも彼女は、私たちを責めませんでした。詫びた私を赦してくれたのです。そして帰りしな、彼女は、『请再来吧/また来てね!』と言って、家内をハグしてくれたのです。

ある夏、教師の集いがあって、それに参加したことがありました。六、七十人の大学の先生たちの前に立った時、『どうして中国に来たのですか?』と聞かれたので、私は語りました。若い頃から、父の戦争責任を覚え続けてきて、いつか中国に行って、謝罪したかったことなどをです。

それで、私は、みなさんの前でお詫びをしました。そうしましたら、聞いたみなさんの反応が大きくて、十年も経って、再会した一人の方が、あの時の私の話に、感謝の言葉をくださったのです。多くの中国のみなさんは、私が戦争責任を詫びる必要がないと言ってくれました。でも、一人の日本人の姿を見てくださったのは事実です。
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第一次大戦の後、列強諸国に倣って、日本も、中国に、幾つもの街に、「日本租界」を設けました。その権益から、満州国を建国し、日本支配を拡大し、日中戦争を始め、1945年8月15日に、無条件降伏をして、戦争は終わったわけです。銃と軍靴で侵略したのは事実です。

父のしたことも事実です。戦後、子育て中の父は、戦争を語りませんでしたし、軍歌も歌ったのを、一度も聞きませんでした。ただ、軍馬を育てる内容を含んだ、〈めんこい仔馬〉を歌っていただけです。自分の愛馬を思い出していたのでしょうか。そして、満州国の国策企業の南満州鉄道で働いた青年期を、思い出していたのかも知れません。これが私の戦争なのです。

(石英と結晶した水晶、天津にあった日本租界です)
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