“ シュワー ”

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“ ラムネ ” を、華南の街の中心にあった西湖の売店で見つけて、買って飲んだことがありました。あの “ シュワー ” とした感じを期待してでした。ところが、子どもの頃を過ごした街の駄菓子屋さんで、金盥(かなだらい)の水で冷やして、瓶の中のビー玉を栓抜きで押しこんで手渡されて、瓶の口から溢れ出るのを、口で受け止めて飲んだ、あの味と違っていたのです。甘かったのですが、 “ シュワー ” としなかったのです。
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“ サイダー ” とも違った味で、あの頃と同じ味の “ ラムネ ” は、今でも売られているのでしょうか。私の記憶ですと、この “ ラムネ ” と「夕立」とが一括りで思い出されるのです。車軸を流す様な雨と〈一対〉なのです。この「車軸」とは、大八車をご存知でしょうか、木製の台に鉄製の輪をはめた車輪と車輪をつないでいる心棒のことを言います。この車軸が、天から落ちてくる様な太い雨脚の雨が、激しく強く降ってくる様子を、「車軸を流す」と言うそうです。
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今では、「バケツをひっくり返した様な」とか「風呂桶をひっくり返した様な」雨と言ったりします。あの「土砂降りの雨」です。雷光、雷鳴、雷雨が大好きな私は、華南の街で、轟き渡る様な雷鳴を、腹の底で聞くのが、大好きでした。それは私の生まれ故郷で聞いた雷鳴の数十倍の大音量なのです。西から東に、響き渡っていく様な、天空の鼓を激しく打つ様な轟なのです。

今夕、何か「夕立」が来そうな予感がするのです。「梅雨明け」を宣言する様な、大音響が聞こえ、車軸を流す様な雨になりそうで、ワクワクしてきているのです。これって趣味でしょうか、愛好でしょうか。たぶん悪趣味に思われてしまいそうです。傘もささずに、裸足になって、夕立をこの身で受けてみたい衝動に駆られています。そうしたら、“ シュワー ” とするのでしょう。栃木地方の今夕(29日)の予報は、「雷雨」とのことです。

きっと、発令された「暑さ指数」が〈危険〉がしめされていると、次男が知らせてくれ、外出禁止、水分補給をアドバイスしてくれました。それほどの全国的な暑さでした。もう一つは、何かサッパリしたいのかも知れません。わだかまりや停滞や追い詰められているのではないのですが、そう “ シュワー ” としたいのです。“ シトシト ” では駄目なのです。『来るかな!』の午後です。
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セミ

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「蝉時雨」の記事をアップして、暑いさ中、蝉が鳴かないなと思っていましたら、蝉が、網戸の網をよじ登ってきました。朝顔を見にやって来たのでしょうか。夏の風物詩です。外気温午後一時で、36℃だそうです。この近くには林や里山がありません。庭木があるくらいでしょうか。それで網戸なのでしょう。
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蝉時雨

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先週末、玄関の三和土(たたき/ )」に、小ぶりなアブラゼミがひっくり返っていました。『起きなよ!』と、そっと触ったら、起き直って、目を離した隙に、どこかに、最後の力を振り絞って飛んで行った様です。栃木で初めて見た蝉でした。

そういえば、もっと激しく鳴いてもよさそうなのに、蝉には気の毒な長雨と低温の七月でした。天津で0南の街で11度、夏を過ごし、今年も過ごすつもりでしたが、家内の病で帰国して、住み始めた栃木で初めての夏を迎えています。

子どもの頃に、蝉の賑やかな鳴き声を聞いたのですが、華南の街では、高い山に行かない限り、蝉の鳴き声は聞けませんでした。ここでは、まだ一度も耳にしていません。「蝉時雨(せみしぐれ)」と言われる様な、まるで夏の夕立が降る様に、“ ジージー ” 、“ オーシンツクツク、オーシンツクツク ” 、 “ カナカナ、カナカナ ”と聞こえて、子どもの頃に、夏本番を体感したのに、今夏は夏らしさを感じていないので物足りません。

この「蝉時雨」と言う夏を表現する言葉は、日本語の美しさを存分に伝えてくれます。俳句の「季語」にもなっています。

還(かえ)ります 人に故国の 蝉時雨

阿部みどり女の作です。勝手な解釈をしてみます。戦時下、外地で蝉の声を聞いたのでしょうか。今頃は故国では、子どもの頃に聞いた、あの蝉が、今も時雨が降るがごとく鳴いているに違いない。そこに今まさに帰ろうとしているのでしょうか。

ひぐらしや かつては兵の 征きし道

一木幸治の作です。同じ様に勝手に解釈をしてみます。戦争が終わって、平和になった今、あの日兵隊さんを見送った日に鳴いていた、ひぐらしが、同じ様に、何もなかったかの様に鳴いている。あの兵隊さんは、戦地から戻ったのだろうか。

そういえば、華南で住んでいた街の家から、戦前、外国人の避暑地であった山に行って、知人の紹介してくれた山荘で、家内と一緒に、友人たちと3日ほど過ごしたことがありました。夕方に、 “ カナカナ、カナカナ ”と蝉が、ちょっと寂しそうに鳴く声を聞いたことがあります。

今週は、酷暑になると、天気予報が言っていました。夏の好きな私は、あの子どもの頃に聞いた、「蝉時雨」を思いっきり聞いてみたいものだと思うのです。昨夕、遠くから、これも弱そうに、“ ジージー ” と鳴く声がしていました。もっと強く鳴いて欲しい七月の末です。
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朝顔便り/7月29日

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台風が熱帯低気圧に変わったのですが、大雨が降った後、真夏の到来です。三重県沖の震源の地震が、ここ栃木を、震度3で揺らして、目覚めさせられてしまいました。今日は酷暑の一日でしょうか、梅雨が明けたのでしょう。それを喜ぶかの様に朝顔が開きました。潮騒に誘われていますが、茨城の海に行けるでしょうか、の月曜日です。

(上は5時50分、下は8時半の撮影です)
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夕顔の里

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栃木県に住んで、7ヶ月になろうとしています。思いもよらず、県民、市民になった私は、《家内を支える》を、今為すべきことと決めて、これこそ、一生の総仕上げの任務として、友人や兄弟、子どもたちに激励され、助けられてつとめているところです。

忙(せわ)しさから解放され、ゆっくりと流れている巴波川の様に、過ぎゆく時を過ごしています。黒土だった田んぼが起こされ、そこに植えられた苗が、ずんずんと背丈を伸ばして、青々と成長しています。この地で採れた野菜を、農協の即売所に買い出しに行き、〈地産地消〉を原則に、県産品に拘りながら、料理も、皿洗いも、今までしてくれた家内へのお返しでしております。

住まいも、友人夫妻の愛と配慮とで備えられ、故障していた空調も、お見舞いの志で取り替えることができ、水道水の浄水器も息子に買ってもらい、その水を飲み水にしています。家内の回復を助けようと、良質な食材を見つけては、カラスの様に運んでくださる友人がいます。

窓の下に植えた朝顔も、東京の友人が見舞いにくださったプリンセス・ダイアナ、鉢植えで買った日々草もマリーゴールドも、先日買ったハイビスカス、一昨日買ったホットリップス、息子にもらった種で植えたコスモス、とても賑やかに散ったり咲いたりしています。

息子と友人の送迎で、病院も通院し、先週、第6回目のキイトルーダの投薬を終えて、3週間後の通院で、待機しています。家内は辛い闘病を、そのまま感謝して受けて、愛読書を読んだり、ハガキで感謝状を書いたり、遠近の友人知人を遥かに覚えたり、ピアノを弾き、歌い、車椅子で外出し、そこから降りて公園を散歩し、心と体のリハビリに励んでおります。時には、友人夫妻が連れ出してくれ、隣の足利に遠出もさせていただいたりしています。多くのみなさんの激励と支えに感謝でいっぱいです。

家内が入院し、今通院している獨協医科大学病院は、ここ栃木と県庁所在地の宇都宮の間に位置する、「壬生(みぶ)町」にあります。戦国時代には、壬生氏の所領でした。江戸期には、日根野、阿部、三浦、松平、加藤、鳥居の各氏が治めて、明治の廃藩置県で、「壬生県」になっています。そして、栃木県に吸収されて、今日に至っているそうです。
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ここに面白い逸話が残されています。幕末の長州藩の高杉晋作が、この壬生の城下町を訪ねているのです。江戸で剣術の修行をした晋作は、腕試しにでしょうか、壬生城下町の剣術道場で、地元の剣士・松本五郎兵衛(神道無念流)に何度も試合で挑んでも、一本も取れずに、その全ての試合に敗れています。それは若き晋作には、衝撃的な経験であったそうです。このことは黙して語らずだった様です。

そうしますと、柳生新陰流の免許皆伝の剣士(神道無念流も修行したそうです)を打ち負かした強者の子孫や親族が、東武日光線に同乗しているかも知れないとか、病院のロビーですれ違っているかも知れないと思うと、楽しくなってしまいそうです。若い日に、高杉晋作の生き方に感動させられた私には、くすぐったい様な逸話です。

(壬生町花の「夕顔の花」、下野壬生城の城郭です)
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歓迎

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今朝の我が家の第一玄関のようすです。マリーゴールドが、来客を待つ様に咲いています。と言うよりは来客のために、外に置いていた鉢を玄関の下駄箱の上に、今朝置いたのです。綺麗なのに、誰も気づかなかったのは、ちょっと残念ですが、歓迎はしていたのです。
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コスモス

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昨日咲いていた「コスモス」です。34℃の気温の中、色鮮やかに咲いていました。中国に行く前でしたが、テレビで、信州に〈コスモス街道〉があって、『花が見頃です!』と言っていました。それで、親元に帰って来ていた子どもたちと一緒に出掛けたのです。ところが、畑の一区画が〈コスモス畑〉になっているだけで、数キロの街道筋には咲いていなかったのです。

レポーター、取材陣の誇大宣伝でした。でも、テントが張られて、食べ物で接待していたので、胃袋は満足して、その夜は、宿泊施設に泊まったのです。昨日咲いたような鮮やかさは、あの時はありませんでした。これから暑くなりそうですが、もう暦の上では、秋になりつつあるのでしょうか。
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千年

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今年が、2019年ですから、〈千年前〉と言うのは、1019年になります。その年に何があったかを、日本史で調べてみますと、

3月、藤原道長(太政大臣だった人)が出家する
4月、「刀伊の入冠(といのにゅうこう)」があった
「刀伊の国(高麗〈こうらい〉」の蛮族で、とくに「女真族〈じょしんぞく〉」を指して用いた語。「女真」は大陸の沿海州地方に住み、後に「金」を建国するツングース系の民族であり、後に「満州族」に改称する。高麗の北辺に接して海から侵入したりしていたが,平安中期の1019年、対馬・壱岐・北九州を襲った。この「入寇」は、太平に慣れた朝廷・貴族を驚かせた。賊徒五十余船、太宰権帥・藤原隆家らによって撃退するも、太宰府管内に甚大な被害を受ける」

細かな記録が残っていない時代です。この十数年前に、「枕草子」や「源氏物語」完成しています。その数年後に、「万寿地震」があって、石見国(島根県)で、日本海沖を震源とする大地震と津波が発生し、多くの死者を出しています。千年も前のことは、歴史にも残らないで、うやむやになってしまうのかも知れません。

それでは、今から〈千年後〉は、どうでしょうか。内閣府に、「国立社会保障・人口問題研究所」があるそうです。将来の日本の人口の予測が発表されていて、驚いてしまいます。何と総人口が、2000人にまで激減すると予測しているのです。来年の東京オリンピックの主会場が、68000人を収容すると聞いていますから、どれほど少ないかが分かります。


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その私たちの子孫、2000人の中から、総理大臣、衆議院議員、参議院議員、検察長官、警視総監、防衛大臣、幼稚園長、小学校長などなどが選ばれるのでしょうか。みんな役付きになって、お百姓さんも漁師もスーパーの店長もいるのでしょうね。新幹線なんか走らせられるのでしょうか。栃木から、東京に行くのに、東武日光線は走れるのでしょうか、心配です。桃やリンゴの生産者はいるでしょうか。『千年前には、丸い果物で桃があったそうだ!』と言うのでしょうか。

宇宙や地球は、千年後を迎えることができるように、保たれ続けるのでしょうか。地震や火山爆発、温暖化などの異常気象は、もっと頻繁に、さらに激しくなって行くのだとしたら、難しそうですね。

(上は「女真族」、下は「川中島白桃」です)
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夕陽

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以前のブログを見ていて、一葉の写真を見つけました。天津の外国人用の「公寓(gongyu)/アパート)」の七階のベランダの窓を開けて、私が撮影したものです。いやー懐かしくて堪りません。そこから自転車で、紫金山路を、気象台の方に向かって走った所にあった、中国語学校まで、家内と並走しながら、週日5日間、通ったのです。

学校の帰り道は、復習で、道行く人に話しかけては、その日習ったことを使うのです。けっこう勇気がいることでしたが、おかしな中国語を使う老人の夫婦に、受け答えをしてくれました。それから「菜市场caishichang」で食材を買って帰ったのです。習いたての中国語を駆使して、ここでも復習をしたのです。

お陰様で、日常会話ができる様になって、知人の招きで華南に越したのです。その街中は、方言の世界でした。標準語を話すと、『北京語ですね! 』と言われて、ちょっと得意になってしまいました。日曜日の朝は、いくつもの通りを越えて、自転車で出掛けたのです。その目的場所も、中国語の歌を歌ったり、標準語の話を聞いたりし、 出店したばかりの「吉野家」などで昼食をとったのです。

でもベランダから眺めた大陸の落日が、実に荘厳でした。日が落ち切るまで眺めていました。あの頃一緒に学んだ同級生や上級生は、今どうしているのでしょうか。私たちも、病気治療で帰国しているのですが、多くは、同じ様に、それぞれの国に帰ってしまったことでしょう。その学校の担任教師のお父さんが作ってくれたおかずをもらったことも何度もありました。そういえば、直接お礼を言わないで、越してしまったのです。

その教師が華南の家を訪ねて来てくれた事がありました。今、どうされておいででしょうか。懐かしい日々と人との出会いが思い出されてまいります。
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朝顔便り/7月25日

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曇りの朝ですが、蒸し暑く感じられます。今日は、家内の通院日で、友人が車で迎えに来てくれます。感謝でいっぱいです。車で30分、隣りの壬生町にあります。かつて壬生氏の所領地で、城跡も残ったり、豪族たちの遺構もあって、北関東の古い街です。京都にも同じ、壬生があります。
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