誇り

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盛岡藩で、私は二人の人物を知っています。一人は、浅田次郎の書かれた、「壬生義士伝」の主人公の「吉村貫一郎」です。下級武士の吉村は、節を折って脱藩し、新選組の隊士となって、幕末の京都を舞台に生きて死んでいきます。同じ隊士の齋藤一に、〈ふるさと自慢〉をする下りがあって、盛岡という街が、おおよそ想像できるほど素敵な街であることが分かります。

日本でも、最も貧しい地域に、襲った飢饉や不作で生活が困窮して、脱藩を余儀無くされたのが吉村でした。きっと彼こそは、生粋の盛岡人なのでしょう。もう一人は、同じく盛岡藩士の子、「新渡戸稲造」です。幼少の頃から西洋への憧れを持っていたそうで、札幌農学校に学び、『太平洋の橋にならむ!』と青年期に夢を語り、後に、「武士道」を英語で書いて、日本と日本人をアメリカ社会に知らしめた人です。
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新渡戸は、国際連盟の事務次長を務め上げた、広く世界を見ることのできる見識の人でした。この新渡戸が、次の様に言っています。『一体祖先とはだれをいうのか、昔から朝鮮人や支那(中国)人がやって来て、混血したのが、わが祖先だ。誇るべきは人種の純粋さではない・・・我々の系図の中に朝鮮人や支那人の入っているのを寧(むし)ろ誇(ほこり)とする時代が来るであろう』とです。

民族の純粋性を誇ろうとしてきた日本人の出自を、そう告白できた新渡戸に感心させられてしまいます。青年期には、手のつけられない暴れん坊だったそうですが、札幌農学校に学ぶ内に、穏やかな性質を持つ様に変えられたと、級友が書いたものを読んだことがあります。

前者の吉村貫一郎は、小説中の人物で、モデルになった人はいたのかも知れませんが、作者の創作が、そう言った人物像を描いたのでしょう。でも、新渡戸稲造は実在の人でした。この人の物言いは、一民族や一国家を超えたもので、二十一世紀の私たちが、中国や朝鮮半島の人や文化や習慣に、強く太いつながりがあること、それを誇れる様にされたいものです。

(盛岡市内から岩手山を望む、国際連盟事務次長時の新渡戸稲造です)
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