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〈女の意地〉、私の母親に、この〈意地〉があったのを思い出すのです。母の生母が、綺麗な女(ひと)で、下宿していた学生と恋仲になって、母を宿したのです。まだ女学校でたての十代だったそうです。親に反対されて、慕う人と離され、それでも子を産んだのです。これも親や親戚が強引に、生まれた子は、養女に出され、養父母に育てられることになったのです。これが母の誕生の顛末です。
今も昔も、こう言った話は、小説の中だけではなく、現実に多くあるのでしょう。母は、少し色は黒かったのですが、〈今市小町〉と言われたのだそうです。親戚に聞いたそうで、実母が、奈良にいることを知って、17の時に、母親を奈良に訪ねています。会えたけど、『今の幸せを壊して欲しくないので帰って!』と言われ、帰ったのです。
どんな気持ちで帰りの汽車に乗ったのでしょうか。でも母は、14の時に、カナダ人起業家と出会って、いと高き天に自分の《本当の父》がいると聞いて、逆境の悲しさや辛さの中にいる自分を、しっかりと抱きかかえてくれる方を知るのです。それが、母の95年の生涯の生きる支え、力だったのです。きっと、その時に、良い意味で〈意地〉を内に宿したのかも知れません。
この母の三男坊の私は、父の寵愛を受けて、私立の中学に入れてもらいました。〈大正デモクラシー〉の中で設立された学校で、私学では有名な教育者が校長でした。一学年百名ほどで、医者や都会市会の議員や社長の子たちがいました。また中央競馬界の有名な調教師や馬主の子たちもいました。
父兄会になると、そのお母さんたちが〈女〉となって、“ 着飾りショー " になるのです。〈持ち物の誇り〉です。母と言えば、そのお母さんたちには、到底叶わないわけです。生活レベルが桁違いだからです。それでも、〈女の意地〉、いえ、〈父の子としての誇り〉と言った方がいいでしょうか、『負けたくなかったわ!』、だそうです。やはり〈意地〉になっていた、三十代の母でだったのでしょう。
そんな闘志、競い合おうとする気概、生きるバネで、母は自分でも決めるべき時は決めて生きていたのでしょう。〈いじけ〉よりも〈意地〉を持つ方が、まだまだいいからです。そんな母の三男の私は、〈意地〉が弱いかも知れません。弱い理由は、私の競争相手は、〈私自身〉 だと分かったからです。それでも〈父の子としての誇り〉は満々とあるのです。誰にも、どんなことでも奪われたり、さらわれたり、盗まれることがありません。《確乎たる誇り》があるからです。
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