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「市邑(しゆう)」と言う、もう今では使うことのなくなった言葉があります。内村鑑三が著した「デンマル国の話」の中に使われていたのですが、私には読めませんでした。明治期の文人たちの多くは、幼少期に「四書五経」を学んでいた様ですから、古語に通じていたということになります。その漢字理解のすごさに驚かされます。この「邑」は、”むら”とも読みますが、都市や町や村を意味しているそうです。ですから「村」とは、大分違ったニュアンスを持っています。次の様な解説があります。

「邑(ゆう)は周囲を壁でかこまれた聚落のことで、その象形文字である。前4000年紀の中国の新石器時代、定住生活が始まり農業生産力が徐々に高まっていくなかで、各地に村落(ムラ)が生まれてきた。しだいにいくつかのムラを統合して周辺の人々を集住させ、周囲を城壁で囲んで防衛する規模の大きな城郭都市が出現した。そのようなムラおよびそれが発達した城郭都市を邑といっている。邑の住民は同一血族である氏族と意識され、有力者が族長として祖先に対する祭祀を行い、住民は周辺の農地を支配して租税を納めた。また、周辺の邑との交易も行われ、邑の支配者は経済的な管理も行っていた。このように、邑は他の古代文明圏における都市国家にあたると言える。このようにして成立した邑の中で最も有力となって大邑といわれた「商」を中心にして、邑の連合体として成立したのが殷王朝であり、そのような国家形態を邑制国家ということもある(「世界史の窓」より)。」
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中国の南部に、12、3世紀に造られたと言われる「土楼(どろう)」が、無数に残されてあります。 東北部から、敵の手を逃れて来た人たちが、敵の侵入を阻もうとして、土塁を築き、その城壁の中に、木造の住居を4から5階で家屋を築いて、砦の様な中に集団で住んだものです。現在もなお住居として利用されています。その近くに住んでいる方が案内してくれて、ユネスコ世界遺産に登録されている所に連れて行ってもらったことがありました。

その土楼の中には、集会場があり、生活用水を得るための井戸がありました。それを「邑」とは呼んでいませんが、集落の特徴的な形態を持っていて、大変興味深いものです。日本では見たことがありませんでした。土楼を築いた人たちを、よそから移り住んだ人たちだったので、「客家(kejia/ハッカ)」と呼ばれてきています。鄧小平やシンガポールの建国の父の李光耀(リ・クアンユー)などは、客家人と呼ばれて有名です。

「邑」の方が、「村」よりも<ムラらしく>感じられて、漢字が持つ意味の深さが伝わってきます。北海道に住み着いた、アイヌの人々には、文字がなかったのは残念なことでした。先年、入院して滞在していた札幌も、「邑」の一つでありますが、200万都市を、そう呼んでよいのでしょうか。

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