街道に立つ

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この住み始めた家の裏手に、あの「例幣使街道」が残されてあります。かつて、駿河の久能山から、日光東照宮に改葬された徳川家康の墓所に、毎年、京都から、「例幣使」が遣わされて通った街道です。

例幣使は、「幣帛(へいはく/神道で御幣,みてぐら,ぬさなど神への供え物の総称。布帛,衣服,紙,玉,器物,神饌(しんせん)のほか,幣帛料,金幣といって金銭をあてる場合もある。特に布帛の中では麻が代表的であったのでぬさ(幣)ともいう。古くは勅旨によって奉る幣帛を奉幣といった。)」を奉納するためにでした。

勅使は、京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、ここ栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ったのです。

この街道は、西国の大名もまた、参詣していますので、「参勤交代」以外にも、その他にも務めを果たす義務を負わされていたのですから、死して物言わぬ家康の威光、徳川政権というのは、驚くべきものがあったことになります。「栃木宿」については次の様な記述があります。

「栃木は、皆川氏五代広照が、天正19年(1591)南端の城内町に、栃木城を築いて城下町を形成したのに始まる。皆川氏没落と共に廃城となるが、巴波川の河川交通を利用した市場町として、また、例幣使道の宿駅として発展した。明治維新後、一時は宇都宮・栃木ともに県庁が置かれたが、宇都宮に県庁が移り、栃木は県名に残るだけになった。」

私は歩きと自転車で通るのですが、きっと籠や馬車が行き合うことができるほどの道幅だったのでしょう。ここ栃木は、商都でしたが、宿場町でもあったので、今でこそ高速道や新幹線から遠く、過疎の感じがしますが、徳川の御代には、賑やかな佇まいだったことでしょうか。

この街道の上に、自分の足で立ってみますと、そんな賑やかな馬車や籠や人の行き交う音が聞こえそうです。京都から延々と、朝廷の勅使、例幣使がやって来ると言うのは、徳川支配が朝廷をもはるかにしのいでいたわけで、明治の御代になってからは、随分と静かになったのでしょうか。

でも、巴波川の舟運も盛んでしたから、人、物、文化の往来で栄えたのです。その名残が、蔵の存在です。豪商たちが、江戸で豪遊していたのだそうで、彼らの援助で、浮世絵師たち、とくに喜多川歌麿が、注文を受けてでしょうか、彼の描いた肉筆画が残されています。それもまた夢の夢、今は静かで、住み心地が好い素敵な「蔵の街」なのです。何やら『エイホ、エイホ!』の駕籠かきの声が、街道筋から聞こえてきました。アッ、空耳でした。

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