1917年(大正6年)3月31日に、母は島根県出雲市で生まれています。95回目の誕生日の夜に、母は召されて、いのちの付与者である父なる神、救い主イエス・キリスト、慰め主であり助け主なる聖霊なる神の御元に帰りました。2012年のことでした。
その日、上の兄、次兄、弟の家族によって、誕生日を祝われたのです。私は、中国にありましたので、同席が叶いませんでしたが、家内と私の連名で書き送った誕生カード、それに子どもたちの誕生カードも添え られて読まれたと知らせがありました。
その誕生祝いを母は、心から喜んで感謝したようです。誕生会が終わって、兄たちが帰った5時間後に、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。
口から飲食ができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。それは大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。
母が、「永遠の故郷」に帰ったとの知らせを聞いて、私は、すぐに家内と帰国をし、4月5日に、上の兄の司式で、「告別式」が行われました。弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶を行なったのです。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。
父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘にふしてきた斎場で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明された時、その母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。
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そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、何とも言いえない不思議な思いに浸されてしまいました。東京の郊外、高尾にある「教会墓地」に、母の骨を、母の好きな讃美歌を歌いながら埋葬したのです。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられました。
亡骸は埋葬されましたが、母の霊は、創造者の御許に帰り、母の魂は、安息の中にあるのです。近い将来、『起きよ!』との主なる神さまの御声を聞いて、永遠のいのちに蘇るのです。後に続く私たちも、多くの聖徒らと共に、再会の喜びを迎えられるのです。
大正、昭和、平成と生き続けての95年の母の生涯でしたが、母ほどに、自分は生きられるでしょうか。27歳で自分を産んでくれた母の生涯は、多難でしたが、信仰者として生きた祝福の溢れた一生でした。その信仰を継承した子や孫たちが、この時代にあります。果たして自分は、主の再臨を、この目で目撃することが叶うでしょうか。
(ウイキペディアの葛飾北斎の描いた島根県花の牡丹の花、蕎麦の花です)
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