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2015年に、国連が掲げた、「持続可能な開発目標(SDGS/Sustainable Development Goals)」は17の目標があります。2030年までに、世界で達成される様にと掲げられたものです。
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(国連広域センターが作成したものです)
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1914年(大正3年)に、「尋常小学唱歌」の6年生用に歌われた歌で、作詞が、高野辰之、作曲が岡野貞一の「朧月夜(おぼろづきよ)」は、春を感じさせてくれる歌でしょう。
1 菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は) 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し
2 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かわず)の鳴くねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月(おぼろづき)
この歌詞の中に、「霞める朧月」とありますが、最近の科学的な研究ででしょうか、その月が、霞んで見えたり、おぼろげに見えたりする原因が、中国大陸から飛来する「黄砂」だとニュースが伝えていました。
春は長閑な季節だと、詩的に思っていましたが、科学が原因を究明したわけです。なんとなく眠気を起こさせたり、ムズムズさせられたりするのが、大陸から飛んで来る微粒子状になった黄砂だと聞くと、長閑な思いではいられなくなりそうです。喘息などの呼吸器疾患の原因の一つは、これかも知れません。
そう言った事情から、『緑の地球防衛基金」という公益法人があります。中国を始め、ヴェトナム、タンザニヤ、タイなどで「植林活動」を展開してきておいでです。現在は、中国の〈楡林市横山県東陽山とその周辺〉で、緑化事業への技術、資金、物資の支援を行なっていると報告されています。この市は、陝西省の北部にあって、黄河を境として山西省、北は内蒙古に接しているそうです。
『楡林市全体が、モウス砂漠から黄土高原への移行地帯に位置している街である。』そうで、やはり年間雨量が少ないのです。かつては市の名前の様に、楡の木が茂っていた緑の街でしたが、砂漠化が進んでしまっています。それで、樟子松6,480株、クルミ4,455株が植林され、順調に成長しているそうです。(2019年8月の時点)この基金は、1980年台初頭に始まっています。
このところ「ソメイヨシノ」の開花宣言が、多くの町で発せられて、寒い冬が終わり、暖かな季節がやってきたと思って喜んでいるのですが、春霞の原因が、大陸から吹いてくる黄色い砂だったのは意外でした。そう言えば、天津の街にいた時に、電動自転車や自転車に乗ったり、歩いているご婦人たちが、ストッキングの様な細かい網で、覆面していたのを思い出します。
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どうもその〈砂漠化〉の速度が、年々早くなってきているのを危惧している様です。その原因が、燃料を得るために、木を切り倒して使って、畑や森を育てることを怠ったり、食糧の増産のために、地下水を多く組み上げた結果だと言っています。
先週、聞いた友人の日曜の礼拝の説教に、生態学者の宮脇昭氏のことがでてきました。この方を中心に、1998年からは、中国の万里の長城で、「モウコナラ」の植樹を行うプロジェクトを進めているそうです。《日本一多く木を植えた人》と言われている宮脇氏の働きは、海外にも広がり、自然界の回復への貢献は多大なののです。
子どもの頃に遊んだ、里山、どこの町や村にもあった「鎮守の森」には、木だけではなく、多くの昆虫や虫がいて、その糞尿が培養土を作り出し、森や林や草花を育ててきていたのです。子どもの頃里山に入って、「陣地」を作ったり、木の実を採って食べたりしたことがあります。
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「柳絮(りゅうじょ)」も、今頃だったでしょうか。丸くて白いボールの様に、柳の芽から出るワタを増し加えながら、路上を転がっているのを、天津の街中で見ました。あれも春の到来の兆でした。
(里山、モウコナラの木の苗を持つ宮脇氏、柳絮です)
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男の子には、「漢(おとこ/男)」になるためのモデルが必要だと言われました。最初のモデルは「父親」でしょうか。なんでも知っていて、何でもできて、体も大きくヒゲも生えていて立派な男でした。隣のおじさんと比較など考えませんでしたから、最高の「父親」でした。やがて、父親の弱さや、足りなさが分かってくると、もう偶像視しなくなりました。
次には、映画やプロマイドや新聞などを見て、「格好いい男」に出会います。最初は、石原裕次郎でしょうか。ポマードでリーゼントを決め込んでいない、スカッとした男でした。歩き方も、バスケットボールで膝を痛めたとかで、少し足を引きずって歩く姿がカッコよかったのです。
次には、ジェームス・デーンでした。アメリカの物質や色彩の豊かさの中に立っているジミーの姿が、人種や国籍を超えて、惹きつけられてしまいます。上野のアメ横に出かけて行っては、ジーンズを買ってきたり、ジージャンも欲しくなったり、カカトの高い靴も欲しくなったのです。
彼らは、映画の中で演じているスターであって、本当の彼らではないのが、かえって格好いい様に目に映ったのでしょう。「真似する世代」でした。自分は自分だと言う年齢になって、そう言った偶像への憧れはなくなっていき、人差し指と中指との間にタバコを挟んだ様な外側の仕草からは離れていき、自己発見に至るのでしょうか。
逆に自分の結果に欠点や不足を見つけ出す様になっていきます。唇が厚いし、モミアゲやヒゲがないし、耳の格好が貧乏くさいしのです。好きな女の子に何も言えないし、思春期に悩みでした。司馬遼太郎の影響でしょう、水戸龍馬や高杉晋作に、理想像を見つけようともしたのです。
その頃になると、スクリーンに映す出される映画スターにも歴史上の実在の人物にも、裏や実像が見えてきて、自分の理想には程遠いことが分かり始めてきました。自分の内に、何か良いものを見つけて、それで理想の実現をしていかなけらばならない様な思いにされました。
学校に入った時の身体検査で、上半身裸の私を見た医師が、『君、いい体してるね!』と言ってくれたことが、自分をありのままで受け入れられる様になったきっかけになりました。あまり勉強をしないで、アルバイトに精出した年月でしたが、社会の実態を学ぶことができました。母校の恩師の紹介で、仕事を紹介され、けっこうバリバリと働きました。
よく地方に出張があって、学校を出たてなのに、その機関の代表者の代理の様な顔と態度で出かけて行っては、いわゆる接待を受ける様になりました。もう一端の男、大人になったと思ったのです。でも足りなさや空虚さが、心の中を隙間風の様に吹いていました。
そんな頃に、兄の変化を出張に行った途中の街で見てから、そこに自分の人生の基点がある様に感じたのです。そして、母が信じ続け、兄が信じ、伝道者の道に行った、同じ道に、《本物》がある様に思ってしまいました。
私は、パウロの様にダマスコへの道の途中にではなく、母が自分の魂を委ねた教会の中で、キリストと出会ったのです。もう地位も出世も金も欲しくなくなってしまいました。真理への渇望とか、生きていく行くべき道、人生を賭けうる道とかを見出せたのだと思います。このパウロは、
「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1テモテ2章8節)」
と勧めました。暴力を振るう者から、祈る人に、福音を異邦人に宣教する人に変えられたのです。私も暴力する者から、人のために執りなしの祈りをする者に変えられたのです。これは奇跡です。
その日の決断から五十年が経ちました。生き方に、少しのブレもありません。いまだ借家に住み、年金で生き、人生の伴侶と共に、北関東のかつての商都で過ごすことができて、何の不足もありません。朝な夕なに、筑波山、男体山、富士山、大平山を遠くに望み、足もとに流れる巴波川に目をやりながら、静かな時を過ごせて、感謝しております。
(思い出の学び舎の一廓です)
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時代劇映画の劇中に、お殿様が病で伏せている場面が、時々ありました。枕元に侍医をはべらせ、家臣が右往左往し、一朝事あるときのために、後継者を誰にするか、正妻の子か妾胎(めかけばら)の子かで、一大騒動が藩中に吹き荒れると言った筋書きでした。
その病中のお殿様は、決まって、鉢巻をしているのです。キリッと帯の様に結んで、左だか右だかに垂れていました。それは、赤でも白でもなく、「紫」でした。それを「病鉢巻」と呼び、紫草の紫紺の根を染料にして、染めたものだと言われています。それは今でも漢方の生薬として用いられていますから、平癒のために使われていたのです。
この紫草は、花は白で、その花も小さいのです。このところ、街中にある温泉に私は行っています。歳なのか、歩き過ぎなのか、膝の筋を痛めて、整形外科に診てもらいましたら、電気熱治療器をかけられましたので、温湿布なら、温泉がいいと思って出掛けたのです。
そこは炭酸泉の温泉で、膝に最適なのだそうで、このところ三度ほど行っています。腱板断裂の縫合手術後に、友人に贈って頂いた、葉室麟の本が面白くて、もっと読んでみたかったのです。それで、温泉行きにと思って、図書館で借り出して、入浴の合間に読んだのです。今までは、まず小説を読む様なことは稀だったのですが、つい引き込まれてしまいそうです。お決まりの筋書きですが、ほのぼのとしてよいのです。
その題名は「紫匂う」で、ある藩の家老の不正を暴く、善と悪、人と人との関わりが描かれているのです。で、この主人公の萩蔵太は郡方役の侍で、高位の家臣ではないのですが、腕っ節が強く、藩の剣術指南の筆頭の門弟で、機転が効き、穏やかで性格が良いのです。そんな彼が、奥方の澪(みお)と娘と息子、退いた両親と生活をしている中に、騒動が起こるのです。
蔵太が、庭の一郭に、この「紫草」の種を蒔くのです。咲いた花を奥方に見せたかったからでしょう。山谷を歩き、誰も相手にせず、追い散らしていた猟師や逃散した人たちの世話のできる、特異な人情派の侍で、彼らに感謝されたり、慕われているのです。騒動の危機の中で、蔵太を助けるのが猟師たちでした。そんな山行きで、根ごと持ち帰ったか、種を持ち帰ったかで邸内に種を蒔いたわけです。
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ところが芽を出すと、奥方は雑草と思って抜き取ってしまうことを毎年繰り返すのです。それを蔵太は責めもせずに、種を蒔き続けます。そしてこの藩内の騒動が、めでたしめでたしで落着して、蔵太と奥方が家に帰ると、咲いた「紫草」が迎えているのです。
わが家のベランダと室内に、咲いている花、これから咲く花と八種類ほどの花があって、花など見たり植えたりする心のゆとりなどなく過ごしてきた私が、今になって花を愛でているのが、なんか不思議な感覚なのです。水仙とチューリップはこれから咲くことでしょう。この紫草は、「万葉集」にも詠まれています。
紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも
この本を読んでから、「紫草」を手に入れたくなって調べたのですが、育てるのが難しく、その上、「絶滅危惧種」なのだそうです。同じ様に、描かれた蔵太も絶滅危惧種の人なのかも知れません。そう万葉の時代にも読まれている花なのです。牡丹や芍薬や向日葵にではなく、小さな花に目を注ぐ日本人の感性に、なにか納得がいきます。
(”Green Snap”から「紫草」、紫染です)
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『同じ様な服装をして、同じ様な髪型をして、同じ様な話題を話している!』と、欧米人は日本人を見ているのです。それは押し並べて、東アジアに共通している様です。最近の日本では、制服が敬遠されたり、廃止されたりする傾向が強いのですから、日本人も個性的な主張や生き方ができる様になったのでしょうか。
民族的に薄っぺらい顔をしている日本人も、最近では彫りが深くなったり、鼻が高くなったり、顎の張りがなくなってきている様です。明治生まれの父の髭が濃くて、かく言う子どもだった私も、そうなりたかったのが、中学生に入ってからでした。大正生まれの担任も髭が濃くて、〈男らしさの象徴〉だと、朝礼の時に聞いたことがあったからでした。
それで、毎晩入っていた風呂で、父の髭剃りを借用して、一生懸命、鏡に向かって、生毛(うぶげ)の鼻の下を剃っていました。母に似たのか、髭が薄いのです。濃い髭にならないまま大人になってしまいました。二度ほど髭を生やしたのですが、〈ヒケ〉程度で、全然男らしくないのです。家内や子どもたちに不評で剃り落としてしまいました。
中学生のいつ頃だったでしょうか、住んでいた町のお菓子屋に入った時に、店のおばさんが変な顔をして私を凝視していたのです。鼻の下あたりを見てました。家に帰って鏡を見ましたら、髭願望のあった私は、母の黛(まゆずみ)で、鼻の下に髭を描いたのを、消し忘れたまま買い物に行ってしまったわけです。その店には、その後、行きずらくなってしまいました。
もうとっくに、子どもたちの成人式は過ぎてしまったのですが、みんながする振り袖の「晴れ着」を、長女は着たかったのです。でも買うことも、借りることもさせないで、同級生のいる故郷に、東京の下宿先から帰って来て、普段の服装で参列していました。〈反ミーちゃんハーちゃん主義〉の父親のために、長女の夢は砕け散ったてしまったのです。
その代わり、学校の卒業式には、友人のお母さんに借りたと言って、長袖の和服に袴と長靴(ちょうか)の明治の女学生姿の出立ちでした。それを見た家内と私は驚いてしまい、その学友のお母さんにお会いして、感謝をしたのでした。次女は、親元ににいませんでしたから、長袖願望があったかどうかは分かりません。
「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。 (エペソ6章1節)」
昭和の頑固なレトロ親爺の被害者の娘たちには、ずいぶん抗議されたのですが、過ぎた時を戻すことができませんので、今になると、もう何も言わなくなりました。彼女たちも、今や〈後期昭和のおばさん〉ですから。でもけっこう個性的な生き方や選び取りをして生きて来ていると思います。
男の子は、男の子で、自分の道を自分で見つけ出して、それぞれに生きて来ています。みんな今は、それぞれに社会的な責任を負いながら励んで生きているのです。私たちは、あまり過干渉にならない様に、育ててきて、けっこう厳しく規律し、懲らしめもしたのですが、生きていく原則を教えてきたと思い返しています。
それでも、夢を叶えて上げたかったなあと思うのですが、今頃になってしまっては、どうすることもできません。お隣の国では、女性の顔が同じ様だと言われています。最近、何気なくサイトを見ていた時に、特に女性有名人の〈術前術後〉の写真を見たことがありました。その違いに驚いてしまいました。化粧と整形手術で、顔でも体でも手を入れると、あんなに美しくなるのですね。親に似ていた方が、自然のママで個性的でいいのです。
1900年(明治33年)に、大和田建樹の作詞、多梅稚の作曲で、「鉄道唱歌」が発表されました。
汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として
右は高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも
窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か
梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに
鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーシヨン
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで
横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん
八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ
ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし
(以下省略)
東海道新幹線の走る今、悠長な鉄道の旅をしたことを思い返して、『もう一度!』と思うのでです。父の出身地も、この中にあります。
汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大を
また、母の出身地も出て来ます。
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今市町を後にして
西に向かえば杵築町
大国主を奉りたる
出雲大社に詣でなん
(山陰編31番/「今市町」は現在の出雲市です)
小学校一年の時に、母のふるさとの「出雲」まで、母に連れられて、二人の兄と弟とで旅行をしたことがあります。汽車は超満員だったのを覚えています。『女は弱し、されど母は強し!』で、鈍行列車の旅は、若い母にも大変だったことでしょう。
「 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節)」
母と父とに、何か問題や事情があって、母は父を置いて、四人の子を連れての帰郷でした。東海道線から乗り継いで、山陰線での旅でした。兄たちは、空いた車掌室に潜り込んでいたそうで、弟と私を抱えた母は大変だったのでしょう。自分には苦痛の記憶はないので、その分、まだ三十代の母は大変だったはずです。
あの列車は、まだ電化していませんでしたので、モクモクと煙をはいて、汽笛を鳴らす蒸気機関車が牽引していました。なぜか、駅弁やお茶や、それに「福知山駅」を覚えているのです。けっこう長い旅だったのを感じました。それで、わがままな私は、グズグズ言って、きっと母を困らせたのではないでしょうか。でも母に抓(つね)られた記憶はありません。
あんな長旅ができた経験は、級友たちにはできなかったことをさせてもらって得意満面でしたが、忍耐強い母にしては、あの故郷回帰は、ずいぶん考え抜いた末の決意だったのでしょう。大人になって、家内が家出をしたことがあって、あの時の母の決心が、少しだけ分かったのです。今では笑い話で家内は済ませていますが、夫婦には人には言えない色々なことがあるわけです。
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さて、日本の鉄道ですが、「日本鉄道の父」と呼ばれた、「井上勝」がいます。幕末の長州は萩の人で、長州藩の藩士でした。藩主の命令で、イギリスに留学をし、鉱山技術や鉄道技術を学んでいるのです。東海道線を新橋と横浜間の開業から始まって、全線開通まで担当し、国内の鉄道網の拡大に関わります。貴族院議員、鉄道庁長官などにもなり、長官を退任後は、鉄道車両の製造にも携わっています。私鉄の開業にも寄与し、当時私鉄だった今現在のJR水戸線、時々利用するJR両毛線の開業にも関わっています。
政界ではなく、技術畑で活躍した明治期の重要な運輸事業に従事した大物だったのです。母の故郷の長旅ができたのも、その基礎を築いた、井上勝のお陰だったわけです。私の父は、鉱山学を学んだのですが、戦後は、旧国鉄時代の車両の部品製造の会社をやっていた時期がありました。日本国有鉄道は、三公社の一つでした。
(山陰本線の東洋一の余部鉄橋を走る汽車、出雲市駅付近、萩城址です)
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あゝ暗(くら)と まみひそめ
をさなきものの
室に入りくる
いつ暮れし
机のほとり
ひぢつきてわれ幾刻をありけむ
ひとりして摘みけりと
ほこりがほ子が差しいだす
あはれ野の草の一握り
その花の名をいへといふなり
わが子よかの野の上は
なほひかりありしや
目とむれば
げに花ともいへぬ
花著(つ)けり
春浅き雑草の
固くいとちさき
実ににたる花の数(かず)なり
名をいへと汝(なれ)はせがめど
いかにせむ
ちちは知らざり
すべなしや
わが子よ さなりこは
しろ花 黄い花とぞいふ
そをききて点頭(うなず)ける
をさなきものの
あはれなるこころ足らひは
しろばな きいばな
こゑ高くうたになしつつ
走りさる ははのゐる厨(くりや)の方(かた)へ
新しい年を迎えて、その一月の末か、二月のはじめに、三重県の鳥羽で、教会に仕えるみなさんが集まって、大会を続けていました。牧師や夫人、宣教師夫妻、神学生、兄弟姉妹が参加していた年初行事の様にして参加していました。毎年、素敵な出会いと、素晴らしい学びと、激励や挑戦がありました。
そこに参加されるみなさんは、超教派の教会からでした。共通していたのは初代教会が聖霊体験をしていた様に、二十世紀の教会に、聖霊が注がれて、その傾注に預かった人たち、その経験を願う人たちが、一堂に会していました。賛美と礼拝をささげ、聖書のみことばに耳を傾け、日本の町々のために祈り、参加者の交流を楽しんだのです。
その集いに行く時に、自分の街から、東名高速を経て、渥美半島の突端の伊良子岬の港からフェリーに乗って参加しました。渥美半島は暖かなのでしょう、海岸線の畑には、「菜の花」が満開でした。真っ黄色な春を感じて、『今年は何を語られるのだろうか?』という期待が膨らんでいたのです。真夏のひまわりの黄色よりも、一足早く訪れた黄色な春を感じて、そう思ったのです。
伊藤静雄が謳った「黄い花」が、菜の花ではないかと思ったのです。希望の色でしょうか、春の到来を知らせている色でしょうか。その名の花畑に横たわりたい様な思いにされたのです。花は花、伊良子岬のお土産屋で食べたイカの姿焼きは、相乗効果でしょうか、潮の香を嗅ぎながら、とても美味しかったのです。
一緒に行った子どもたちは、もう四十代、そろそろ五十に届きそうな年齢になっています。ずいぶん多くの歳月を経たものです。あのまだ「春浅き」自分の住む街から出掛けて、本物の春を感じた日々や、あの交流会が昨日の様に、懐かしく思い出されて、キュンとしてきそうです。
(渥美半島に咲く菜の花です)
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いつも老夫婦の私たちを気遣ってくださる若いお母さんの《ヒトツブダネ》のお嬢さんが、今春、小学校に入学します。優しい穏やかなお父さんは、目に入れても痛くないほどの可愛がり様なのです。もう、入学する学校に手続きも終え、新入生のお決まりの “ ランドセル"も買ってあるそうです。
わが家では、長男も、長女も、そして次男も新調のピカピカのランドセルでしたが、次女だけは、違っていたのです。彼女が小学校に入学するときに、ほんとうは、新しいのを買って上げたかったのです。ところが従姉妹が6年間使った物が、『まだ使える!』と、私が聞いてしまいました。
それで私は、次女を納得させて、その〈お古〉を貰い受けて、それを背負って入学し、通学することにしてしまったのです。新入生のことを、『ピカピカの一年生!』と言っていた時代でしたから、誰もが、着る服も、クツもソックスも、全てが真新しかったのです。ところが次女には、入学式に着る服も、もう一人の従姉妹の着たものの〈お下がり〉でした。
小学校の新入生を象徴するのは、新調の「ランドセル」なのです。ところが次女だけ、中古だったので、『ちょっと、可哀想かな!』と思いましたが、文句一つ言わないで、それを背負って、家内と入学式に行くのを見送りました。
1939年に、三苫(みとま)やすしの作詩、河村光陽の作曲で「なかよし小道」の中に「ランドセル」が出てきます。
1.なかよし小道は どこの道
いつも学校へ みよちゃんと
ランドセルしょって 元気良く
お歌をうたって 通う道
2.なかよし小道は うれしいな
いつもとなりの みよちゃんが
にこにこあそびに かけてくる
なんなんなの花 におう道
3.なかよし小道の 小川には
とんとん板橋 かけてある
なかよく並んで 腰かけて
お話するのよ 楽しいな
4.なかよし小道の 日暮れには
母さまお家で お呼びです
さよならさよなら またあした
お手手をふりふり さようなら
この「ランドセル」はオランダ語なんだそうで、兵士が背負う背嚢(はいのう)をそう呼んで、私たちの国では、明治期に使い始めたのです。大正天皇が小学校に入学の折に、伊藤博文が贈り物としたのが、後に小学校入学者が背負う様になっている様です。
みんなと同じなのが好きでない私は、奇抜なことがしたい性分でした。〈十把で一絡げ〉を嫌いました。それを、次女に自分の主義を強いてしまったわけです。初めての保護者会があって、家内の代わりに出掛けたのです。5年生の長男、3年生の長女についで、次女のクラスに行きました。
どのランドセルも一様にピカピカに輝いていたのです。そんな中で、輝き一つない、くすんで傷のついた次女のランドセルだけが、『デーン!』と古い校舎や床板に、シックリと馴染んで、教室の後ろの棚に置かれてありました。少し行動のゆっくりな同級生の世話をやく次女でした。自分のしなければならないことを後回しにしてしまって、先生に叱られるのですが、ヘッチャラなのです。
彼女は、それ以降、自分流に生きてきている様です。もう四十代、二人の高校生の息子と中学生の母親をしています。高校も、ハワイの友人のお世話で、あちらの高校で学んだのです。ホストの家が何度も変わったのですが、それぞれに適応してしまえたのです。
ハワイでのことを、親には語りがらないのですが、たぶんつらい経験もあったのかも知れません。二つ違いの姉が、アルバイトをしては助けていたのを後になって知りました。十五歳で、人のしない経験をしたことを感謝して、多くのアジア圏からの留学生を家に迎え入れてお世話を、喜んでしてきています。三月、入学前の今、またランドセルの出来事を思い出してしまいました。
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「しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。(ヤコブ3章8〜9節)」
日本の「憲法21条」に、次の様にあります。
1、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。(2項は省略)
また、「世界人権宣言19条」には次の様にあります。
「干渉されることなく意見を持つ権利。公の秩序・道徳の保護と表現の自由。」
現在の私たちには、「言論の自由」や「表現の自由」が保障されています。イギリスのロンドンのハイドパークには、次の様な「スピーカーズ・コーナー」があるそうです。
『権力に対する言論の自由は、権力を監視する意味合いがあり、もし制約があれば民主主義とは言えない。しかし、個人に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪・侮辱罪に抵触する恐れがあり、充分に注意して行使しなければならない。「スピーカーズ・コーナー」は、この制約さえもなく、イギリス政府の転覆を論じたり王室を批判することは許されていないが、主張・発言の自由が完全に保障された珍しい場所であり、また同時に「ヤジの自由」も保障されている)。(ウイキペディア)』
だからと言って、何を話してもいいとは言えません。「ことばの暴力」が人を傷つけている事例が世界では大きな問題にされています。「軽率なことば」、「毒を含んだことば」、「悪意に満ちたことば」が横行しています。ある作家は、「雑な言葉」と言って、ご自分が被った言葉の例を上げておられました。
最近も、新聞やテレビやネットを騒がせた発言が問題にされて、役職を辞任してしまうことになりました。「ことば」は、人を激励し、生かすことができますが、人を傷つけ死に至らせることも、犯罪を生んでしまうこともあります。
エルサレムにあった教会の牧師であったヤコブは、舌は「じっとしてない悪」、「死に満ちた毒」、「不義の世界」だと言って、舌を制する勧めをしています。あの元会長さん だけの問題ではありません。私の問題であり、すべての人の問題でもあります。
「聖書」に、次の様にあります。
「私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないために。私の口に口輪をはめておこう。悪者が私の前にいる間は。(詩篇39篇1節)」
「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。(箴言12章18節)」
「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方がわかります。(コロサイ4章6節)」
思い返しますと、多くの人を、「ことば」で傷つけてきた様です。不用意なことば、罵倒したことば、皮肉、侮辱、悪態、刺す様なことば、揶揄を語ってきたのを思い出します。自分のことばを自制できたら、きっと、私は世界を制覇することができたのでしょうけど、相手を煩わせて、傷つけてきたしまったことが多いのです。本当に申し訳なく思う今です。
だからでしょうか、聖霊は、人の舌に触れてくださる「助け主」でいらっしゃるのです。さらに、「思い」の中に浮かんでくる悪意にも気をつけなければなりません。喋っても、喋らなくとも、同じだからです。そう、『雉も鳴かずば撃たれまい!』ですから、舌に轡(くつわ)をかけて、「丁寧なことば」や「いのちの言葉」を語っていきたいと思っています。
(スピーカーズ・コーナーの様子です)
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宮城県に女川町があります。小学校の授業で、入江が深くなった「リアスアス式海岸」を、ノルウエーの「フィヨルド」と一緒に学んだのです。地図や写真ではなく、『一度でいいから、この目で見たいな!』と思った日がありました。そのリアスアス式海岸線の南に位置する、漁業の盛んな町が、その女川です。東日本大震災では大きな被害を被った街でした。もう10年になるのですね。
その復興のために、街を上げて事業を展開してる最中なのです。その計画が展示されているそうです。この女川町が、何を大切にして復興に取り組んできたかが、とても特徴的なのです。その1つは、若い世代に委ね様ということです。
その展示のメッセージには、復興の取り組みが始まった頃を振り返って、『還暦以上が口を出さず、盾となり、次の世代に町の将来を託した!』といった標語を掲げていたのです。大人は顧問役で、背後から支えていき、若い世代を中心にして復興の事業を展開させ様としています。還暦以上は口出しをしないのだそうです。
とくに、次代を担う、《小中学生》に任せるのだそうです。これは画期的なことではないでしょうか。『俺がいなければこの街に復興はできない!』と思いがちの年寄りが引っ込んでいるのは、実に素晴らしいことです。
入れ歯で、話し言葉もくぐもっていたり、会議には、通院の合間に出席し、薬を飲みながら、咳をしながらでは、良い立案も実行もできません。それは人口減の地方の町や村だけではなく、国政においては、尚更のことではないでしょうか。もう〈我々世代〉では、体力的にも精神的にも無理です。
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過去を懐かしむようになったら、将来は見えなくなっているのです。将来は、若い者たちのものです。
「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ。(詩篇110篇3節)」
「朝露のような若者」こそが、国を、街を、組織を復興させることができます。明治維新をもたらしたのは、過去に繋がるだけの世代ではなく、将来に羽ばたこうとした若い世代でした。斬新な考えを持つ彼らを、過去の経験を豊かに持っている世代は、応援し、助言し、責任をとってあげられるだけで良いのです。
女川町は、若い世代の流出を、そういった委任によって防ごうとしているのでしょうか。中央での出世ではなく、故郷の将来を担おうとしている若者への激励でしょうか。大人世代の決心が伺えて素晴らしいと感じています。義を愛し、謙遜な若者の輩出を願う、若者たちが羽ばたこうとしている、卒業式の時期の弥生三月です。
(現在と震災直後の女川町です)
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