天然自然

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 北宋の時代に、蘇軾が「春夜」を詠みました。

春宵一刻直千金
花有清香月有陰
歌管楼台声細細
鞦韆院落夜沈沈

 この詩を、中学の時に教えていただき、次の様に読んだのです。

春宵(しゅんしょう)一刻(いっこく)直(あたい)千金(せんきん)
花に清香(せいこう)有り月に陰有り
歌管(かかん)楼台(ろうだい)声細細(こえさいさい)
鞦韆(しゅうせん)院落(いんらく)夜沈沈(よるちんちん)

 その日本語訳、意味は、次の様です。

 春の夜のすばらしさは、ひとときが千金にもあたいするほど貴重なものだ。
 花には清らかな香がただよい、月はおぼろにかすんでいる。
 高殿から聞こえていた歌声や管弦の音は、先ほどまでのにぎわいも終わり、今はかぼそく流れるばかり。
 人気のない中庭にひっそりとブランコがぶら下がり、夜は静かにふけていく。

 この蘇軾の詩に、強い印象を受けた武島羽衣が作詞し、滝廉太郎が作曲した「春」の中に、蘇軾の「春夜」の一節が引用されています。

1 春のうららの 隅田川
のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしづくも 花と散る
ながめを何に たとうべき

2 見ずやあけぼの  露浴びて
われにもの言う 桜木を
見ずや夕ぐれ 手をのべて
われさしまねく 青柳を

3 錦おりなす 長堤(ちょうてい)に
くるればのぼる おぼろ月
げに一刻も 千金の
ながめを何に たとうべき
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 隅田川は、江戸を象徴する流れで、今頃は、長い堤に、染井吉野の桜が綺麗でしょうね。わが家の眼下の巴波川の岸にも、今や染井吉野が爛漫と咲き誇っています。蒼い空、流れに影を宿さないほど浅瀬の流れがあって、花の薄い桃色と、よい季節になりました。
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 蘇軾の漢詩が好きですし、武島羽衣の詩もいいですね。武島は、「美しき天然」の作詞もしています。

1 空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音
大波小波 鞺鞳(とうとう)と
響き絶えせぬ 海の音
聞けや人々 面白き
此(こ)の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給(たも)う
神の御手(おんて)の 尊しや

2 春は桜の あや衣(ごろも)
秋は紅葉の 唐錦(からにしき)
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際(てぎわ)見事(みごと)に 織りたもう
神のたくみの 尊しや

3 うす墨ひける 四方(よも)の山
くれない匂う 横がすみ
海辺はるかに うち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の 美しさ
見よや人々 たぐいなき
この天然の うつしえを
筆も及ばず かきたもう
神の力の 尊しや

4 朝(あした)に起る 雲の殿
夕べにかかる 虹の橋
晴れたる空を 見渡せば
青天井に 似たるかな
仰げ人々 珍らしき
此の天然の 建築を
かく広大に たてたもう
神の御業(みわざ)の 尊し
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 春に咲き誇る染井吉野は、誰にも注目されるのですが、孤高の山桜が好きです。誰も踏み込むことのない、誰も手を入れることのない、天然自然の植生の中で、天に向かって咲いている姿がいいのです。その姿を遠望するのが、さらにいいのです。

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タンポポ

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 家の近くの駐車場の隅に、タンポポが咲いています。たった一輪、目向きもされない雑草ですが、桜や梅に負けずに、春を告げてくれる花の一つです。巴波川の岸辺にポツンと、黄色い姿を見て、懐かしく眺めていました。

 漢字では、「蒲公英Púgōngyīng」と表記しますが、中国伝来の漢字で、難読です。けっこう目立つて、どこでも咲いているのですが、「日陰の花」なのだそうです。そして三日命の短命な花です。一枚一枚の花びらが、一つの花で、花の集合体だと、植物学では教えてくれます。鈴木真砂女が、次の様に詠んでいます。

 たんぽぽの 絮となる頃や 旅を恋ふ

 この「絮」という漢字は、「じょ」とも「わた」とも読むことができます。天津にいた時、外国人アパートから語学学校に行く道に、春先に、「柳絮(りゅうじょう)」が、鞠の様になって風に吹かれて、路上を転がって、旅をしていく様に見えたのでしょうか。そんな初春の光景をな眺めたことがあります。

 咲き終わると、「柳絮」に似て、綿毛になってしまうのを、地から抜き取って、息をフーとかけると飛んでいくのが面白かった遊びを思い出します。その綿毛が地に落ちて、翌年花を咲かせてくれるのです。イヌフグリやレンゲとともに、庶民の花なのでしょう。
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 タンポポの綿毛のようにフワフワと42キロの旅に出る

 この短歌は、マラソンランナーだった高橋尚子が、「シドニー・オリンピック」での自分のマラソン走を「旅」に見立てて詠んだものです。真冬のクラブの練習で、アスファルトの路上走をしていましたが、「フワフワ」と走った高橋尚子に驚かされます。だから金メダルに輝いたのでしょうか。長男と同学年です。

 豪快に花を咲かせて、短い間に花吹雪となって、注目されるソメイヨシノの影で、珍重されない花ですけど、郷愁を誘い、庶民性を讃えた、幼い日を思い起こさせる花です。

 私たち日本人が、「タンポポ」と呼んできたのは、もともとは「鼓草(つずみぐさ)」と言われていたのを、〈タンタン〉、〈ポンポン〉との包みの音を擬音化して、「タンポポ」と呼ぶ様になったそうです。小型の向日葵に、形状も色も似ているのに気づきます。

 誰が始めたのでしょうか、タンポポの茎を煎じて、「コーヒー」の代替物、代用品として飲むのだそうです。まだ一度も飲んだことがありませんが、一度試してみたいものです。茎を折ると、ミルクの様に白い液が出ますが、口にしたことはありませんでした。コーヒーには似つかないのです。

 ゴッホが黄色い花を好んで描いている印象が強いのですが、黄色は目立つ色彩で、多くの人の好まれる様です。ちなみに、タンポポは英語では、” Dandelion(ダンデライオン) “ と言うそうです。葉がギザギザとしていて、ライオンの歯並びに似ているところから、名付けられた様です。
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 恩師が、『野の花の如く生きなむ!』と書き残してくれたのですけど、野草で、有難られないで、しかも短命な花は、「野の花」の典型なのかも知れません。川辺に咲いていたタンポポの花の近くで、同じような雑草のイヌフグリが踏まれることなく咲いていました。

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桜三題

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 東京の桜も栃木桜も、ソメイヨシノの淡いピンクと白の色が、日本人の感性を満足させるのでしょうか。先週、日光で咲いてた桃色のコヒガンザクラはあでやかでした。隣の駐車場では、鈴蘭、タンポポ、菜の花、イヌフグリの花が、競う様に咲いています。好い季節になりました。新型コロナの終息を切に願う月曜日の雨上がりの快晴の朝です。気温は13℃です。良い一日をお過ごしください。

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nostalgia

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 富田薫の作詞、草川信の作曲の「汽車ポッポ」が懐かしく思い出されます。

きしゃきしゃ ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽ しゅぽっぽ
ぼくらを のせて
しゅっぽしゅっぽ しゅっぽっぽ
スピード スピード まどのそと
はたけも とぶとぶ いえもとぶ
はしれ はしれ はしれ
てっきょうだ てっきょうだ たのしいな

きしゃきしゃ ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽ しゅぽっぽ
きてきを ならし
しゅっぽしゅっぽ しゅっぽっぽ
ゆかいだ ゆかいだ いいながめ
のはらだ はやしだ ほらやまだ
はしれ はしれ はしれ
トンネルだ トンネルだ うれしいな

きしゃきしゃ ぽっぽぽっぽ
しゅっぽしゅっぽ しゅぽっぽ
けむりを はいて
しゅっぽしゅっぽ しゅっぽっぽ
ゆこうよ ゆこうよ どこまでも
あかるい きぼうが まっている
はしれ はしれ はしれ
がんばって がんばって はしれよ

" nostalgia"、郷愁と訳したらいいのでしょうか。新幹線が世界的になり、リニアも間も無くお目見えする時代になっていますが、地方の鉄道路線で、蒸気機関車が走っています。東武日光線と鬼怒川線の分岐駅の「下今市駅」に、蒸気機関車が煙を吐いて、週末の観光運行の準備をしていました。

 この駅に、駅弁の「大樹」が売られているのです。なんとなく懐かしさを呼び起こしてくれるのですが、帰りしな、それを買おうとしてプアラットホームの「賣店(ばいてん)」に行きましたら、蒸気機関車が走る日に売っていて、平日の昨日はなかったのです。前回、家内が美味しそうに買って食べていたので、今回は、二人前を買って、旅気分を味わおうとしたのですが、ちょっとガッカリでした。

 『次回には、予約してください!』と言われて、電話番号を教えてくれました。売り子さんの方が恐縮して、電車の窓の外から、走りゆく私たちに頭を下げて見送ってくれました。「駅弁」これも、ノスタルジーを呼び起こしてくれるのです。先日は知人が、横川駅の駅弁の釜飯をいただいて、家のテーブルの上で食べたのですが、美味しかったのですが、駅弁は、蒸気機関車の煤や煙の中で食べるのが最高なのです。

 駅弁に、土瓶に入ったお茶、そして氷みかんは、懐かしい昭和の味わいです。けっきょく「笹寿司」を買って、家に持ち帰って、同じテーブルの上で広げたのです。花より団子、汽車より駅弁で美味しかった!

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春花

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 今週訪ねた山里のそこかしこに、鮮やかに咲く「コヒガンザクラ」が咲いていました。野山の芽吹きの前哨の様に、あでやかな桃色の花を見せていました。私たちが泊まった保養所の庭にも、満開前の花が咲き始めていたのです。帰りの東武日光線の駅舎の脇には、「染井吉野」がチラホラと花を開き始めていました。まさに「花は三月弥生」です。

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくら さくら 花ざかり

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り
かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざや いざや 見にゆかん

 明治期に歌い始められた、この「さくら」は、日本人の好きな歌の一つです。何度歌ってきたことでしょうか。華南の街の公交車(gongjiaoche市内バス)に乗っていた時に、この「さくら」ではない、森山直太朗の「さくら」が聞こえてきました。ちょうど今頃の時期でした。

僕らはきっと待ってる 君とまた会える日々を
さくら並木の道の上で 手を振り叫ぶよ
どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ

霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる

さくら さくら 今、咲き誇る
刹那に散りゆく運命と知って
さらば友よ 旅立ちの刻 
変わらないその想いを 今

今なら言えるだろうか 偽りのない言葉
輝ける君の未来を願う 本当の言葉

移りゆく街はまるで 僕らを急かすように

さくら さくら ただ舞い落ちる
いつか生まれ変わる瞬間を信じ
泣くな友よ 今惜別の時 
飾らないあの笑顔で さあ

さくら さくら いざ舞い上がれ
永遠にさんざめく光を浴びて
さらば友よ またこの場所で会おう 
さくら舞い散る道の上で
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 突然、日本語で歌い出す車内のラジオ放送に、驚いて聴き入ってしまいました。反日、抗日の雰囲気の中で、『何と民間は鷹揚な国ではないか!』と思わされました。「北国の春」も、街中を歩いていると聞こえてきていました。歌は、国境や敵対の感情を超えて、歌われ聞かれるのです。
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 下の息子が、自分の家の近くの満開の桜を撮って、送信してくれました。車に乗らなくなってしまい、その上、行動範囲が限られてしまった今だからこそ、名所ではなく、近所で咲く桜花に目を向けられて、それを愛でることができて感謝なのです。昨日は、市役所に連れて行ってくださった若いご婦人が、市内大平の「桜トンネル」に案内してくださいました。咲くもよし、散るもよしのそこかしこです。

(東京の桜と栃木の山里、大平の桜二三題です)

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出湯行

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 「山の出湯(いでゆ)」、と言うか「村の温泉(いでゆ)」に、東京圏の新コロナ緊急事態宣言解除を受けて、久し振りに北関東の村の奥深い部落に出掛けました。日光市に併合された山間地に、企業の休養施設を開設し、温泉も掘削して素敵な保養所があります。

 ここは社員の研修や休養のためだけではなく、教会関係のCSキャンプや修養会のために用いられる自然の懐の様な施設なのです。個人でも使うことができ、病中の家内には最適な環境です。『天国の次に!』と家内が評するほどにお気に入りの施設です。住み始めて2年が経過し、人情にも土地柄にも水や空気にも慣れて、やっと栃木県人と言った自分を認められそうになってきた県北の地です。

 昨日は、その温泉保養所の方のご好意で、六十有余年ぶりに、中禅寺湖、華厳の滝、素通りしてしまった東照宮や陽明門を遠くに眺めはしたものの、懐かしい場所にお連れ頂きました。その年月を遡り、記憶をたどりましたが、記憶や思い出が断片的に蘇ってきたのです。人の作った物は変わってしまっても、自然はそのままといった感じがしてなりませんでした。

 華厳の滝ですが、修学旅行の時に、エレベーターがあったかどうかは覚えていませんが、100mの距離を、文明の機器で降りたあと、七十段の階段を、家内の手を引きながら降りたのです。案内してくださったのは、北九州の出身で、大阪、東京とご自分の事業をされて、今は、会長さんに惹かれて、その保養所で働いている方です。小倉弁訛りの大阪弁を、遠慮なしに使う九州人なのです。
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 顧客でもないただの宿泊客に、特別な機会を設けてくれて、『次回も何か考えておきましょう!』と言っておられました。初春の中禅寺湖の湖面の青さ、雪山の白根山の白さ、男体山の岩肌、いろは坂などを経験させていただき、まばらな観光客がいるほどでした。いろは坂ってあんなにクネクネしていたのか、はしゃぎながら登っていた小学生でしたので記憶は鮮明ではありません。

 その宿の保養所は、温泉を掘削して、良質の温泉掛け流しで、人気なのだそうです。会長さんが優しい方で、従業員として特別な雇用をされておいでです。また、その温泉を、地元の方にも、無料で解放されていて、有難がられておいでなのです。スポーツ用品のチェーン店の草分け的な企業を、今日の大きな企業にされた有能な実業家の会長さんが、まだ五十代の頃にお目にかかったことがありました。

 今朝は、『ホーホケキョ!』の鳴き声が聞こえ、帰りを惜しんでくれたかの様でした。魚の好きな家内に、賄いのご婦人が特別献立で用意してくださり感謝でした。その上、低廉な料金で使わせていただけるのは感謝でいっぱいです。雪道で転んで腰を悪くされた年配の方を、準職員として雇用されていて、何かにつけて企業自体が優しいのです。
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 家内は、『天国の次に素敵な所!』と感謝しているのです。近所のおばあちゃんに連れられて、温泉にやって来た三歳のお嬢さんが、一緒に入浴していて、歌が好きなのだそうで、湯船の中で、『てんにいますわがちちよ!』と家内と二人で賛美をしてる声が聞こえてきました。人家のない山深い中の出湯は、コヒガンザクラ、水仙、スズラン、サルビヤに負けず、花が咲いたかの様に感じられた週日でした。

 退院して、やって来た四人の子と配偶者、その子どもたちで家族会をした去年の正月には、まだ痩せていたのですが、従業員のみなさんが、『肥られましたね!』と喜んでくださったのです。その上、華厳の滝の階段を、自力で登り降りできたことにも感心されておいででした。家内も自信がついた様です。六週目毎の治療の送り迎えをしてくれた長男も、一泊だけしてくれ、子どもを代表して親孝行してくれた今回の出湯行でした。

(華厳の滝、草津白根山、そして階段を上がる家内です)

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だれの所為

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 『娘の起こした問題は、私の所為(せい)です。教育を間違えました。』と、一人の父親の謝罪の言葉を聞いたことがあります。また映画俳優や司会者、会社の経営者が、また女優の母親が、息子や娘の起こした問題を、マイクの前で謝罪するのを、度々耳目しています。それは、『おかししなことだ!』と思うのです。

 私たちの国では、今では十八歳になると、選挙権が与えられるのですが、酒もタバコはまだ禁止されていています。でも今では法的にも社会的にも「大人」と認められているのです。日本では、二十五歳になると、被選挙権が与えられ、衆議院議員や都道府県議員や市町村議員、市町村長になることができます。三十歳になると、都道府県知事、参議院議員になれます。

 私は、極めて甘く譲歩して、二十四歳までは、親が責任を感じたり、謝罪したり、賠償したりしても、まあ好いことにしようと思っています。つまり、市長になれる前日まではという意味です。ところが、男でも女でも、「不惑」という年齢になったら、それは<個人>の責任であって、親には無関係です。ですから、新聞社やテレビ局が、問題を起こした者の親の所に、責任追及に行ったり、談話を求めに行くなどということは、するべきではないのです。

 「しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。(ヨハネ9章21節)」

 もうとっくに自立している年齢で、二十歳から数えて、すでに二十年の歳月が経って、会社の幹部になっている年齢ではありませんか。「大人」なのですから、100%の責任は、彼らにあります。だから、『あれに聞いてください!』で好いのです。

 私たちには、四人の子どもがいます。彼らは私と家内の子であることは事実ですが、親元を巣立って、自活し始めた日から、「一人の大人」と認めたのです。でも相談があるなら、それに喜んで、それにのります。一緒に、『お寿司を食べよう!』と食事を誘われたら断ったことはありません。彼らのところに泊まりたいなら、『泊めてください!』と、私はお願いするでしょう。親子の交流は変わりません。

 また、彼らが、物心両面で援助してくれるなら、喜んで受けようと思っています。体力も弱くなり、病気がちになっている今を、もう迎えているのです。あれやこれやと言ってきてくれます。すでに今では、彼らの方が生活力が上ですし、社会的な認知度も、現役を退いた親の私たちよりも高いのですから。ただ、自分で切り盛りできる内は、私は家内の夫として、その責務を果たそうと思っています。できなくなったら、 彼らにお願いすることになるでしょう。

 子どもたちは、自立しているのです。自分の責任で生きています。権利と義務を混同したり、忘れたりしません。もし法を犯すようなこと、社会に迷惑なことを起こすなら、自分で責任をとることでしょう。彼らは、大人だからです。そう教えて育ててきたつもりです。市民として、国民として、この国の法を、しっかり守り、責任を負って生きていくようにと願っているのです。もちろん、親子の絆の強さは変わりません。

(写真は”百度”から「雪割草」です)

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いいね

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 冬の公園の陽だまりで、「密」など気にしないかの様に、至近距離で、普段通りに話をしている四、五人の年配者がおいでです。去年の今頃でしょうか、家内と二人で、みなさんのいるあたりから離れた所にあるベンチで、日向ぼっこをしようとしていましたら、一人の方が、ご自分が座っていた陽当たりのよいベンチを家内に譲ってくれたのです。

 話を聞きますと、奥さんを病気で亡くされて、子無しなので寂しそうにされていました、砂利トラの運転手をしてきたと言っていました。そんな風には見えない方だったのですが。自分では食事を作らないので、スーパーに行っては弁当を買ってきて、食べていると言っていました。家内の勧めで、日野原重明さんの書き物を手渡すと、しばらく読んでおいででした。奥さんが読書家で、この方は、日野原さんをご存知でした。

 話の話題に合わなかったり、引っ込み思案な方は、群れを離れて生きていけるのでしょうか、でもちょっと寂しそうで気になったのです。でも家内は、まだ完全に回復していませんし、コロナもありますから、家にお呼びすることもできずに時が過ぎてしまいました。

 そんなみなさんの横を、自転車や歩きで通って、近くのスーパーに買い物に行くのですが、男ばかりの同窓会みたいで、女性は、介護施設に出掛けるのでしょうか、公園に姿はほとんどありません。昨年秋頃から家内も、介護施設デビューをして、週一で参加しています。楽しい二時間を過ごして、喜んで帰って来るのです。もちろんコロナには十分意注意しながらですが。

 そこには男性はいない様です。男は定年を迎えて、職場を去ると、どうも所在なしで、さりとて新しい関係を作っていくのは面倒になっていくのでしょう。そこも競争社会の残り滓が残っていて、昔自慢でもされてしまうと、やっていけなくて足が向かなくなってしまうのでしょう。

 ご多聞に漏れず、彼らの交流も、政治や宗教の話題は禁物なのでしょう。テレビはないし、新聞は図書館で読む程度、ラジオでニュースを聞く程度の私の情報量では、話が合わないことでしょう。でもiPadでは、色々検索ができますが、もうそんなに情報を必要としなくなっているのです。それで、市民講座にでもと思っているところでおります。

 ところが市の企画の講座も、市内にある短期大学の市民参加講座も、コロナ禍で開講されないまま時が過ぎて、新年度も開講の兆しはなさそうです。高校が近くにあって、ここも市民参加型の講座があるのですが、様子待ちで開講の予定はないのです。

 もう忙しくない人生の晩期を迎えて、四六時中狭い家にいながら、互いに嫌がらないで、それでも相手の世界を、互いに認め合い、程よい距離を置きながら、二人で過ごしています。図書館通いや散歩や通院や買い物、近所のご婦人たちとに出会いや交流を、家内は楽しんでいます。マスクなしのアジア系の留学生に語りかけては、別れ際には、ポシェットに入れてあるマスクを上げることもある様です。コヒガンザクラの名木の下で再会した、昨年来仲良くなっご婦人と手を取り合って、互いに『会いたかった!』と言い合ったそうです。

 「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章25節)」

 昨日は、6週に一度の通院での治療を終えて、毎回送り迎えをしてくれている息子の運転で、日光市内の山間部の温泉施設に来ています。息子も一緒に一泊してくれるというので、夕食前に温泉に入って、普段ない父子の語らいの時を持ちました。夕食後にも、家内と3人でしばらくの交わりを持ちました。母親にとっては、《最高の薬》の様です。自分たちの兄が、母親の助けをしているの知らされて、弟妹が《いいね》のサインをしています。

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富士山

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 作詞が巌谷小波、作曲者不詳で、小学校二年生が、音楽の時間に歌った、文部省唱歌の「ふじの山」です。

あたまを雲の上に出し
四方の山を見おろして
かみなりさまを下に聞く
富士は日本一の山

青空高くそびえたち
からだに雪の着物着て
かすみのすそを遠くひく
富士は日本一の山

 北関東の栃木市の四階の南側のベランダから、富士山が、建物が少々邪魔をしていますが遠望できます。火山国の日本には、噴火によって、この富士山の形に似た山が、あちらこちらにあります。蝦夷富士(羊蹄山)、出羽富士(鳥海山)、若狭富士(多田ケ岳)、伯耆富士(大山)、薩摩富士(開門岳)などがあり、わが栃木では、男体山を「下野富士」と言うそうです。次女の住む、アメリカの西海岸にも、富士山に似た形状の山があったりします。

 夏場の黒富士も、冬場に雪を戴いた白富士も美しい山です。私の弟は、夏場のアルバイトで、富士山の「剛力(ごうりき)」をしていたことがります。冬場に備えての食料や機材を、背負子(しょいこ)で担いで歩いて、山小屋に運び上げたのです。大変な重労働ですが、体力のあふれた若い頃の自慢の仕事だったのでしょう。

 その弟の住む家から、下野富士が見えるのだそうです。本物の富士を、ここから私たちが見、彼が擬似富士を眺めていると言う、両者の立ち位置が面白くてなりません。ある人たちは、この山の上に登って、四方に向かってでしょうか、何か宗教的な事をしていると聞いています。信仰の対象でも、宗教行事の場でもなく、私には、ただ「美麗(美しい)」だけの山が、「富士」なのです。

 先日の雨の日に、雷が轟く音が、遠くに聞こえました。なぜか私は、この雷が好きでならないのです。見聞きする雷光も雷鳴も雷雨も、私の内にある不要なものが、追い出されていく様に感じて嬉しくなるのです。まだ十九歳ほどだった頃、住んでいた父の家の庭に、石鹸と手拭いを持って飛び出して、雷雨で体を洗いたくなって、そんな衝動的なことを実行したのです。若気の愚行でしたが、あんなにサッパリした沐浴は、それ以降したことがありません。今でも懐かしくて仕方がありません。

 懐かしさだけではなく、してみたい衝動に、今でも駆られるのです。男だからでしょうか、幼なさや未熟さでしょうか、衝動的なのでしょうか、自分に呆れてしまいます。今夏は、どこか人の目に付かない死角を見つけて、雷雨を浴びてみようかなと思っています。家内には、『風邪をひいてこじらせて伏せて、死ぬといけないからやめて!』と言われそうで、やはりやめにします。

 戦前、台湾統治時代には、「日本一の山」が、標高3952mの「新高山」でした。正式名称は「玉山」と言ったそうです。あの真珠湾攻撃の時の暗号指令は、『フジサンノボレ!』ではなく、この新高山だったのですから、よその国を自分の国の様に支配し、私たちの国の歴史をみますと、ずいぶんと厚顔国家だったことが分かります。

 それにしても晴れた日の朝な夕なに、遠くに望む富士の山は綺麗です。それに負けす劣らず、室内に置いた鉢の隅に咲き出した黄色く小さな花が、富士に負けずに美しいのです。自然界は驚くべき《創造の美》なのだと納得してしまいます。でも人間が一番美しいのでしょう。創造者の手で、創造者に似せてお造りになられたからです。醜くなってしまった人が、当初の美しさに帰っていけたら、「再創造」になることでしょう。

(「オレゴン富士」都法人に呼ばれる “ Mount Hood “ です)

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