だれの所為

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 『娘の起こした問題は、私の所為(せい)です。教育を間違えました。』と、一人の父親の謝罪の言葉を聞いたことがあります。また映画俳優や司会者、会社の経営者が、また女優の母親が、息子や娘の起こした問題を、マイクの前で謝罪するのを、度々耳目しています。それは、『おかししなことだ!』と思うのです。

 私たちの国では、今では十八歳になると、選挙権が与えられるのですが、酒もタバコはまだ禁止されていています。でも今では法的にも社会的にも「大人」と認められているのです。日本では、二十五歳になると、被選挙権が与えられ、衆議院議員や都道府県議員や市町村議員、市町村長になることができます。三十歳になると、都道府県知事、参議院議員になれます。

 私は、極めて甘く譲歩して、二十四歳までは、親が責任を感じたり、謝罪したり、賠償したりしても、まあ好いことにしようと思っています。つまり、市長になれる前日まではという意味です。ところが、男でも女でも、「不惑」という年齢になったら、それは<個人>の責任であって、親には無関係です。ですから、新聞社やテレビ局が、問題を起こした者の親の所に、責任追及に行ったり、談話を求めに行くなどということは、するべきではないのです。

 「しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。(ヨハネ9章21節)」

 もうとっくに自立している年齢で、二十歳から数えて、すでに二十年の歳月が経って、会社の幹部になっている年齢ではありませんか。「大人」なのですから、100%の責任は、彼らにあります。だから、『あれに聞いてください!』で好いのです。

 私たちには、四人の子どもがいます。彼らは私と家内の子であることは事実ですが、親元を巣立って、自活し始めた日から、「一人の大人」と認めたのです。でも相談があるなら、それに喜んで、それにのります。一緒に、『お寿司を食べよう!』と食事を誘われたら断ったことはありません。彼らのところに泊まりたいなら、『泊めてください!』と、私はお願いするでしょう。親子の交流は変わりません。

 また、彼らが、物心両面で援助してくれるなら、喜んで受けようと思っています。体力も弱くなり、病気がちになっている今を、もう迎えているのです。あれやこれやと言ってきてくれます。すでに今では、彼らの方が生活力が上ですし、社会的な認知度も、現役を退いた親の私たちよりも高いのですから。ただ、自分で切り盛りできる内は、私は家内の夫として、その責務を果たそうと思っています。できなくなったら、 彼らにお願いすることになるでしょう。

 子どもたちは、自立しているのです。自分の責任で生きています。権利と義務を混同したり、忘れたりしません。もし法を犯すようなこと、社会に迷惑なことを起こすなら、自分で責任をとることでしょう。彼らは、大人だからです。そう教えて育ててきたつもりです。市民として、国民として、この国の法を、しっかり守り、責任を負って生きていくようにと願っているのです。もちろん、親子の絆の強さは変わりません。

(写真は”百度”から「雪割草」です)

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