1900年(明治33年)に、大和田建樹の作詞、多梅稚の作曲で、「鉄道唱歌」が発表されました。
汽笛一声(いっせい)新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕(あたご)の山に入りのこる
月を旅路の友として
右は高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載(せんざい)の後までも
窓より近く品川の
台場も見えて波白く
海のあなたにうすがすむ
山は上総(かずさ)か房州か
梅に名をえし大森を
すぐれば早も川崎の
大師河原(だいしがわら)は程ちかし
急げや電気の道すぐに
鶴見神奈川あとにして
ゆけば横浜ステーシヨン
湊を見れば百舟(ももふね)の
煙は空をこがすまで
横須賀ゆきは乗替と
呼ばれておるる大船の
つぎは鎌倉鶴が岡
源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん
八幡宮の石段に
立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)
別当公曉(くぎょう)のかくれしと
歴史にあるは此蔭(このかげ)よ
ここに開きし頼朝が
幕府のあとは何かたぞ
松風さむく日は暮れて
こたへぬ石碑は苔あをし
(以下省略)
東海道新幹線の走る今、悠長な鉄道の旅をしたことを思い返して、『もう一度!』と思うのでです。父の出身地も、この中にあります。
汽車より逗子(ずし)をながめつつ
はや横須賀に着きにけり
見よやドックに集まりし
わが軍艦の壮大を
また、母の出身地も出て来ます。
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今市町を後にして
西に向かえば杵築町
大国主を奉りたる
出雲大社に詣でなん
(山陰編31番/「今市町」は現在の出雲市です)
小学校一年の時に、母のふるさとの「出雲」まで、母に連れられて、二人の兄と弟とで旅行をしたことがあります。汽車は超満員だったのを覚えています。『女は弱し、されど母は強し!』で、鈍行列車の旅は、若い母にも大変だったことでしょう。
「 あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。(出エジプト20章12節)」
母と父とに、何か問題や事情があって、母は父を置いて、四人の子を連れての帰郷でした。東海道線から乗り継いで、山陰線での旅でした。兄たちは、空いた車掌室に潜り込んでいたそうで、弟と私を抱えた母は大変だったのでしょう。自分には苦痛の記憶はないので、その分、まだ三十代の母は大変だったはずです。
あの列車は、まだ電化していませんでしたので、モクモクと煙をはいて、汽笛を鳴らす蒸気機関車が牽引していました。なぜか、駅弁やお茶や、それに「福知山駅」を覚えているのです。けっこう長い旅だったのを感じました。それで、わがままな私は、グズグズ言って、きっと母を困らせたのではないでしょうか。でも母に抓(つね)られた記憶はありません。
あんな長旅ができた経験は、級友たちにはできなかったことをさせてもらって得意満面でしたが、忍耐強い母にしては、あの故郷回帰は、ずいぶん考え抜いた末の決意だったのでしょう。大人になって、家内が家出をしたことがあって、あの時の母の決心が、少しだけ分かったのです。今では笑い話で家内は済ませていますが、夫婦には人には言えない色々なことがあるわけです。
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さて、日本の鉄道ですが、「日本鉄道の父」と呼ばれた、「井上勝」がいます。幕末の長州は萩の人で、長州藩の藩士でした。藩主の命令で、イギリスに留学をし、鉱山技術や鉄道技術を学んでいるのです。東海道線を新橋と横浜間の開業から始まって、全線開通まで担当し、国内の鉄道網の拡大に関わります。貴族院議員、鉄道庁長官などにもなり、長官を退任後は、鉄道車両の製造にも携わっています。私鉄の開業にも寄与し、当時私鉄だった今現在のJR水戸線、時々利用するJR両毛線の開業にも関わっています。
政界ではなく、技術畑で活躍した明治期の重要な運輸事業に従事した大物だったのです。母の故郷の長旅ができたのも、その基礎を築いた、井上勝のお陰だったわけです。私の父は、鉱山学を学んだのですが、戦後は、旧国鉄時代の車両の部品製造の会社をやっていた時期がありました。日本国有鉄道は、三公社の一つでした。
(山陰本線の東洋一の余部鉄橋を走る汽車、出雲市駅付近、萩城址です)
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