霞と朧

.

.
 1914年(大正3年)に、「尋常小学唱歌」の6年生用に歌われた歌で、作詞が、高野辰之、作曲が岡野貞一の「朧月夜(おぼろづきよ)」は、春を感じさせてくれる歌でしょう。

1 菜の花畠に 入日薄れ
見わたす山の端(は) 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて におい淡し

2 里わの火影(ほかげ)も 森の色も
田中の小路(こみち)を たどる人も
蛙(かわず)の鳴くねも 鐘の音も
さながら霞める 朧月(おぼろづき)

 この歌詞の中に、「霞める朧月」とありますが、最近の科学的な研究ででしょうか、その月が、霞んで見えたり、おぼろげに見えたりする原因が、中国大陸から飛来する「黄砂」だとニュースが伝えていました。

 春は長閑な季節だと、詩的に思っていましたが、科学が原因を究明したわけです。なんとなく眠気を起こさせたり、ムズムズさせられたりするのが、大陸から飛んで来る微粒子状になった黄砂だと聞くと、長閑な思いではいられなくなりそうです。喘息などの呼吸器疾患の原因の一つは、これかも知れません。

 そう言った事情から、『緑の地球防衛基金」という公益法人があります。中国を始め、ヴェトナム、タンザニヤ、タイなどで「植林活動」を展開してきておいでです。現在は、中国の〈楡林市横山県東陽山とその周辺〉で、緑化事業への技術、資金、物資の支援を行なっていると報告されています。この市は、陝西省の北部にあって、黄河を境として山西省、北は内蒙古に接しているそうです。

 『楡林市全体が、モウス砂漠から黄土高原への移行地帯に位置している街である。』そうで、やはり年間雨量が少ないのです。かつては市の名前の様に、楡の木が茂っていた緑の街でしたが、砂漠化が進んでしまっています。それで、樟子松6,480株、クルミ4,455株が植林され、順調に成長しているそうです。(2019年8月の時点)この基金は、1980年台初頭に始まっています。

 このところ「ソメイヨシノ」の開花宣言が、多くの町で発せられて、寒い冬が終わり、暖かな季節がやってきたと思って喜んでいるのですが、春霞の原因が、大陸から吹いてくる黄色い砂だったのは意外でした。そう言えば、天津の街にいた時に、電動自転車や自転車に乗ったり、歩いているご婦人たちが、ストッキングの様な細かい網で、覆面していたのを思い出します。
.


.
 どうもその〈砂漠化〉の速度が、年々早くなってきているのを危惧している様です。その原因が、燃料を得るために、木を切り倒して使って、畑や森を育てることを怠ったり、食糧の増産のために、地下水を多く組み上げた結果だと言っています。

 先週、聞いた友人の日曜の礼拝の説教に、生態学者の宮脇昭氏のことがでてきました。この方を中心に、1998年からは、中国の万里の長城で、「モウコナラ」の植樹を行うプロジェクトを進めているそうです。《日本一多く木を植えた人》と言われている宮脇氏の働きは、海外にも広がり、自然界の回復への貢献は多大なののです。

 子どもの頃に遊んだ、里山、どこの町や村にもあった「鎮守の森」には、木だけではなく、多くの昆虫や虫がいて、その糞尿が培養土を作り出し、森や林や草花を育ててきていたのです。子どもの頃里山に入って、「陣地」を作ったり、木の実を採って食べたりしたことがあります。
.


.
 「柳絮(りゅうじょ)」も、今頃だったでしょうか。丸くて白いボールの様に、柳の芽から出るワタを増し加えながら、路上を転がっているのを、天津の街中で見ました。あれも春の到来の兆でした。

(里山、モウコナラの木の苗を持つ宮脇氏、柳絮です)

.

漢(おとこ)

.

.
 男の子には、「漢(おとこ/男)」になるためのモデルが必要だと言われました。最初のモデルは「父親」でしょうか。なんでも知っていて、何でもできて、体も大きくヒゲも生えていて立派な男でした。隣のおじさんと比較など考えませんでしたから、最高の「父親」でした。やがて、父親の弱さや、足りなさが分かってくると、もう偶像視しなくなりました。

 次には、映画やプロマイドや新聞などを見て、「格好いい男」に出会います。最初は、石原裕次郎でしょうか。ポマードでリーゼントを決め込んでいない、スカッとした男でした。歩き方も、バスケットボールで膝を痛めたとかで、少し足を引きずって歩く姿がカッコよかったのです。

 次には、ジェームス・デーンでした。アメリカの物質や色彩の豊かさの中に立っているジミーの姿が、人種や国籍を超えて、惹きつけられてしまいます。上野のアメ横に出かけて行っては、ジーンズを買ってきたり、ジージャンも欲しくなったり、カカトの高い靴も欲しくなったのです。

 彼らは、映画の中で演じているスターであって、本当の彼らではないのが、かえって格好いい様に目に映ったのでしょう。「真似する世代」でした。自分は自分だと言う年齢になって、そう言った偶像への憧れはなくなっていき、人差し指と中指との間にタバコを挟んだ様な外側の仕草からは離れていき、自己発見に至るのでしょうか。

 逆に自分の結果に欠点や不足を見つけ出す様になっていきます。唇が厚いし、モミアゲやヒゲがないし、耳の格好が貧乏くさいしのです。好きな女の子に何も言えないし、思春期に悩みでした。司馬遼太郎の影響でしょう、水戸龍馬や高杉晋作に、理想像を見つけようともしたのです。

 その頃になると、スクリーンに映す出される映画スターにも歴史上の実在の人物にも、裏や実像が見えてきて、自分の理想には程遠いことが分かり始めてきました。自分の内に、何か良いものを見つけて、それで理想の実現をしていかなけらばならない様な思いにされました。

 学校に入った時の身体検査で、上半身裸の私を見た医師が、『君、いい体してるね!』と言ってくれたことが、自分をありのままで受け入れられる様になったきっかけになりました。あまり勉強をしないで、アルバイトに精出した年月でしたが、社会の実態を学ぶことができました。母校の恩師の紹介で、仕事を紹介され、けっこうバリバリと働きました。

 よく地方に出張があって、学校を出たてなのに、その機関の代表者の代理の様な顔と態度で出かけて行っては、いわゆる接待を受ける様になりました。もう一端の男、大人になったと思ったのです。でも足りなさや空虚さが、心の中を隙間風の様に吹いていました。

 そんな頃に、兄の変化を出張に行った途中の街で見てから、そこに自分の人生の基点がある様に感じたのです。そして、母が信じ続け、兄が信じ、伝道者の道に行った、同じ道に、《本物》がある様に思ってしまいました。

 私は、パウロの様にダマスコへの道の途中にではなく、母が自分の魂を委ねた教会の中で、キリストと出会ったのです。もう地位も出世も金も欲しくなくなってしまいました。真理への渇望とか、生きていく行くべき道、人生を賭けうる道とかを見出せたのだと思います。このパウロは、

 「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。 (1テモテ2章8節)」

と勧めました。暴力を振るう者から、祈る人に、福音を異邦人に宣教する人に変えられたのです。私も暴力する者から、人のために執りなしの祈りをする者に変えられたのです。これは奇跡です。

 その日の決断から五十年が経ちました。生き方に、少しのブレもありません。いまだ借家に住み、年金で生き、人生の伴侶と共に、北関東のかつての商都で過ごすことができて、何の不足もありません。朝な夕なに、筑波山、男体山、富士山、大平山を遠くに望み、足もとに流れる巴波川に目をやりながら、静かな時を過ごせて、感謝しております。

(思い出の学び舎の一廓です)

.