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 冬の公園の陽だまりで、「密」など気にしないかの様に、至近距離で、普段通りに話をしている四、五人の年配者がおいでです。去年の今頃でしょうか、家内と二人で、みなさんのいるあたりから離れた所にあるベンチで、日向ぼっこをしようとしていましたら、一人の方が、ご自分が座っていた陽当たりのよいベンチを家内に譲ってくれたのです。

 話を聞きますと、奥さんを病気で亡くされて、子無しなので寂しそうにされていました、砂利トラの運転手をしてきたと言っていました。そんな風には見えない方だったのですが。自分では食事を作らないので、スーパーに行っては弁当を買ってきて、食べていると言っていました。家内の勧めで、日野原重明さんの書き物を手渡すと、しばらく読んでおいででした。奥さんが読書家で、この方は、日野原さんをご存知でした。

 話の話題に合わなかったり、引っ込み思案な方は、群れを離れて生きていけるのでしょうか、でもちょっと寂しそうで気になったのです。でも家内は、まだ完全に回復していませんし、コロナもありますから、家にお呼びすることもできずに時が過ぎてしまいました。

 そんなみなさんの横を、自転車や歩きで通って、近くのスーパーに買い物に行くのですが、男ばかりの同窓会みたいで、女性は、介護施設に出掛けるのでしょうか、公園に姿はほとんどありません。昨年秋頃から家内も、介護施設デビューをして、週一で参加しています。楽しい二時間を過ごして、喜んで帰って来るのです。もちろんコロナには十分意注意しながらですが。

 そこには男性はいない様です。男は定年を迎えて、職場を去ると、どうも所在なしで、さりとて新しい関係を作っていくのは面倒になっていくのでしょう。そこも競争社会の残り滓が残っていて、昔自慢でもされてしまうと、やっていけなくて足が向かなくなってしまうのでしょう。

 ご多聞に漏れず、彼らの交流も、政治や宗教の話題は禁物なのでしょう。テレビはないし、新聞は図書館で読む程度、ラジオでニュースを聞く程度の私の情報量では、話が合わないことでしょう。でもiPadでは、色々検索ができますが、もうそんなに情報を必要としなくなっているのです。それで、市民講座にでもと思っているところでおります。

 ところが市の企画の講座も、市内にある短期大学の市民参加講座も、コロナ禍で開講されないまま時が過ぎて、新年度も開講の兆しはなさそうです。高校が近くにあって、ここも市民参加型の講座があるのですが、様子待ちで開講の予定はないのです。

 もう忙しくない人生の晩期を迎えて、四六時中狭い家にいながら、互いに嫌がらないで、それでも相手の世界を、互いに認め合い、程よい距離を置きながら、二人で過ごしています。図書館通いや散歩や通院や買い物、近所のご婦人たちとに出会いや交流を、家内は楽しんでいます。マスクなしのアジア系の留学生に語りかけては、別れ際には、ポシェットに入れてあるマスクを上げることもある様です。コヒガンザクラの名木の下で再会した、昨年来仲良くなっご婦人と手を取り合って、互いに『会いたかった!』と言い合ったそうです。

 「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言23章25節)」

 昨日は、6週に一度の通院での治療を終えて、毎回送り迎えをしてくれている息子の運転で、日光市内の山間部の温泉施設に来ています。息子も一緒に一泊してくれるというので、夕食前に温泉に入って、普段ない父子の語らいの時を持ちました。夕食後にも、家内と3人でしばらくの交わりを持ちました。母親にとっては、《最高の薬》の様です。自分たちの兄が、母親の助けをしているの知らされて、弟妹が《いいね》のサインをしています。

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