塩梅

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 「二泊三日」、これは小旅行の日程ではありません。親元でも兄弟姉妹の家でも、近い親族の家で、『ゆっくりしていらっしゃいよ!』と言われても、滞在期間の最長限度だそうです。いわんや、友人や同僚の家以外に滞在するなら、一泊二日が最適なのかも知れません。

 私たちは、子育てをし、子どもたちが一人一人出て行くのを見守り、空の巣になるまで、アパート、マンション、事務所の中、借家、市営住宅、県営アパート、友人所有のマンションと、何度も何度も引越しを繰り返しながら住みました。子育て中は、事務所と向かい側の借家と住む場所が多かったので、お預かりしたり、行く先のない方を招いたりして、同居した方が何人もいたりで、多くの時は合宿のような生活をしていました。

 そんな状況でしたから、他人がいても気にしないで生活をすることができました。そのような生活に慣れていたので、よその家にお邪魔する時に、限界を超えてしまって、長居をした事が何度かありました。今思い返すと、私たちを迎えて下さった相手にとっては、大変に迷惑なことだったんだろうなと思えて、申し訳ない気持ちがしてくるのです。

 家内が親しい友人と話していた時、『どんなに親しくっても三日が限度ね!』と言われて、『そうなんだ!』と初めて思った様です。私たちの生き方が、相当<甘い>ことを知らされたのです。泊めて頂く家に、自分の親がいても、兄弟たちの奥さんがいて子どもがいたら、状況は違うわけです。短期滞在でしたら喜ばれ、長居すれば<歓迎されない客>になってしまうのが通常のことなのです。それで、昔からの知恵は、『三日が限度、二泊三日が丁度よし!』 なのでしょう。

 私の尊敬したアメリカ人事業家は、子どもさんが5人いました。アメリカには、ご自分の家を持っていなかったのです。日本でも借家にお住みでした。そして、家族は、ほとんど帰国する事はなかったのです。今思うに、七人家族が、アメリカに帰って、泊まれるスペースというのは、どこにもないわけです。『訪ねれば、きっと迷惑になる!』のが分かって、帰国を必要最低限度に制限していたのです。

 そういった理由が、同じ様に、祖国に家を持たないで、海外生活を続けていた私に、理解できる様になったのです。泊めて頂いた家で、小さな子から、『いつ帰るの?』と聞かれた時には、当然の様にしてお邪魔していた私の頭を、ポカリと殴られたかの様でした。どうしたらいいのか、さりとて行く当てがなくて、結局、感謝して、退散したことがありました。その子には、罪はありません。でも家内は、辛かったのでしょう。

 それで、人の好意に、どこまで甘えていいのか、どんなに親しくて関係が近くても注意しないといけないことを学んだわけです。帰国中、家内が通院する必要がありますから、一週間で、中国に戻ると言うわけにはいかないのでした。最低でも三、四週間は、帰国中は、どこかに滞在しなければなりませんでした。

 あの大家族のアメリカ人の実業家が、喜んでされていた働きを思い出して、大いに励まされたことがありました。その方と同じ仕事に携わっていたのですが、家内も私も、病んで老いを生きる今に驚くべき祝福があるのが分かるのです。そして、実際面でも、私たちの「永久雇用主」が、全てのことを塩梅(あんばい)してくれています。

 滞華中、弟の家には、家内と私が帰国した時に使える様にと、彼が用意してくれた部屋が用意されていました。また、ある方が、『空いてる家を使ってください!』とも言ってくれたりしました。でも今は、家内の通院に便利な街に、彼女のお気に入りの家を借りて住んでいます。終局的には、そう天に用意してくれている「お屋敷」に住むことができることでしょう。去年の11月1日から住み始めた、このアパートの一室は、気を使ったり、遠慮したりしないで住むことができて感謝です。

 ただ自分が召された後の家内の将来や、嫁いで行った娘たちが帰る実家とを考え、自分が家を持たないのは、ちょっと心残りがあるのです。でも、『いいよ、大丈夫、ご心配なく!』と娘たちも、家内も言ってくれています。今日を生きれることの毎日への感謝を、積み上げて過ごすことにしています。

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上海

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 上海の福州路(以前の四馬路です)の道の端に、小さなホテルがあって、上海と大阪を結ぶ航路の「蘇州号」に乗船するために、出航の前夜、そこに投宿したことがあります。建物も部屋の造りもnostalgicで、戦前からあるホテルに違いありません。そこは、かつての上海の一大中心地で、日本租界も近くにあり、長江からの黄浦江の流れの岸を「外灘waitan」と呼んで、今では河岸公園になっています。

 そこから少し離れたところに、上海港(马头matou)があって、多くの船が往来しています。この上海を舞台に作られた、「上海の花売り娘」が、日本統治中の1940年に流行りました。戦前、大陸に夢をつなごうとした人たちが、この港を乗り降りしたのを歌ったのでしょうか。作詞が川俣栄一、作曲が上原げんと、歌唱が岡晴夫でした。
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(一)
紅いランタン 仄かに揺れる
宵の上海 花売り娘
誰のかたみか 可愛い指輪
じっと見つめて 優しい瞳
ああ上海の 花売り娘

(二)
霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売り娘
白い花籠 ピンクのリボン
繻子(しゅす)も懐かし 黄色の小靴
ああ上海の 花売り娘

(三)
星も胡弓も 琥珀(こはく)の酒も
夢の上海 花売り娘
パイプくわえた マドロス達の
ふかす煙りの 消えゆく影に
ああ上海の 花売り娘

 幕末には、函館や横浜や神戸には、外人居留地がありましたが、中国には、中国の治外法権で、手出しのできない一角が、「租界」と呼ばれて、あちこちに作られていたのです。そして虎視眈々と中国を我が物にしようとする、欧米列強や日本が、策略を練っていたわけです。
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 覇権を競い合う欧米列強、それに日本が加わって、〈眠れる獅子〉と、その潜在能力を持っていた中国は、太平天国に乱、アヘン戦争後の混乱に乗じて、様々な思惑が働く国でした。とくに上海は、東洋の魔界の様に、欲望の渦巻く街だったと歴史は伝えています。私は、何度か上海の港を利用したのですが、中国らしくない街で、興味深かったのを感じたものでした。

 教え子のご両親が、その老舗のホテルの近くで、ご自分のホテル経営をしていたのです。ネット予約をした後に、そのことを知ったので、そこは利用しないままでした。ちょうど上海に、その教え子が帰省していて、友人と二人で、中国新幹線の駅に、私を迎えに出てくれました。遠距離寝台バスを利用することが多かったのですが、新規に作られた新幹線は、とても便利で快適でした。

 東アジア最大の街の上海は、exoticで、私たちは長く過ごした華南の街とは、雰囲気が、また違っていたのです。紹興出身の魯迅が、活動した街で、日本人の内山完造(内山書店の店主)との間に素晴らしい関わりがあった様です。この書店も、上海の日本街の「虹口hongkou)」にあって、10万人もいた日本人と中国の文化人との文化的交流の場だったと言われています。

 この上海は、東京に対する大阪的な存在感を持つ街の様に、北京から離れた商業都市と言えるでしょうか。大阪は訪ねたことがありますし、家内の誕生地です。他人との付き合いもざっくばらんで、人情味に熱いのを感じます。上海に思い入れがある様に、私には大阪もそんな街でしょうか。日本人は、戦前は上海に憧れ、戦後はハワイに憧れがありましたが、多様化の二十一世紀の現在の憧れはどこなのでしょうか。

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晩秋の田園風景

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 小朋友のお母さんが送信してくれた写真です。こちらの稲刈りの後の田圃です。刈り取った稲をロールして、牧養家が牛舎に運んで、家畜の餌にするのでしょう。私の育った東京の三多摩地区では、刈り取り、脱穀した稲を、畑の一廓に積んで、稲村にしていていました。今では、多くの場合、裁断にかけてしまうのでしょうか。わらじや縄をなうこともなくなってしまったからです。

 その刈り株から出てくる若芽を、「蘖(ひこばえひこばえ/孫生え)」と呼びますが、種子島では、それが成長して、二度目の稲の収穫が、以前にはあったそうです。収穫後の田んぼは、休みに入って、寒い冬に耐えて、春になったら再び耕されるのでしょう。でも、ここでは、「ビール麦」を育てるようにビール工場から依頼されているそうです。麦の穂が、徐々に青だって行くのも冬場の楽しみです。

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背中を押してくる

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 「サッちゃん」という童謡を作詞した阪田寛夫は、大阪の人で、数多くの詩を残しておられます。子どもの心を詠んだものばかりでした。子どもたちの小学校の音楽の教科書の楽譜の上に、よくお名前が出ていたのです。その多くの詩の中に、「夕日が背中を押してくる」がありました。

夕日が背中を 押してくる
まっかな腕(うで)で 押してくる
歩くぼくらの うしろから
でっかい声で よびかける
さよなら さよなら
さよなら きみたち
晩ごはんが 待ってるぞ
あしたの朝 ねすごすな

夕日が背中を 押してくる
そんなに押すな あわてるな
くるりふりむき 太陽に
ぼくらも負けず どなるんだ
さよなら さよなら
さよなら 太陽
晩ごはんが 待ってるぞ
あしたの朝 ねすごすな

夕日が背中を 押してくる
でっかい腕で 押してくる
握手(あくしゅ)しようか わかれ道
ぼくらはうたう 太陽と
さよなら さよなら
さよなら きょうの日
すてきな いい日だね
あしたの朝 またあおう

さよなら きょうの日
さようなら

 確かに、お腹は空くのですが、遊びが楽しくて、だれ一人、『帰ろう!』なんて言わないで、鬼ごっこや宝島取りや馬乗り、馬跳びなどをやり続けていたのです。でも、今頃の夕日は、つるべ落としの様に落ちていき、まるで真っ赤な腕が押す様にして、しかも優しく『暗くなったから、家に帰りなさい!』と、語りかけていると、作者は詠み、しぶしぶ家に帰ったのを思い出します。
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 家から離れた広場で遊んでいて、『ご飯ですよーっ!』と、お母さんたちの呼ぶ声の代わりに、夕日が、そんな風に語りかけ、帰宅を促していたのです。こういった光栄は、今では見られないのかも知れません。ことさら、コロナ禍の今年は見られませんし、そんな広場だって、もうなくなってしまいました。

 毎日毎日、疲れることも、うむこともなく、母が朝餉(あさげ)夕餉の支度をしてくれ、卓袱台を囲んで、みんなで感謝して、猛烈に食べまくっていました。何せ、父の家は男の子四人、私の家は男女二人づつの同じく子どもたちが四人、まるで小戦争の様でした。でも楽しかったのです。

 子どもたちは、どんな家庭を作ってるのでしょうか。孫たちは、赤い夕日の腕に押されて、『ただいま!』と言いながら家に帰って来るのでしょうか。泣いて帰って来た日も、しょんぼりの日もあったかな。帰る家、待っていてくれる親がいて、みんな大きくなったのでしょう。家って、「堡塁(ほるい)」や「避難壕」だったり、「真綿の様な巣」だったりでしょうか。

 そんな帰る家が、天にあるのです。そこは戦いも競争もない世界です。一番力に漲って、綺麗な時の父も母も、叔父も叔母も、従兄弟も従姉妹も、孫たちも、そこにいることでしょう。

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開封

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 日本には、「京都」があります、「平安京」に遷都されてから、そこは明治維新まで日本の首都でした。中国には、「北京」、「南京」、「西京(漢代の「長安」、現在の「西安」の旧称です)」があるのですが、「東京」が見当たりません。しかし、北宋の首都だった「开(開)封Kaifeng」は、かつては「東京開封府」と呼ばれ、正式には「東京」であったそうです。この「開封」は、中国の河南省にあります。金の国に滅ぼされるまでは、驚くほどの隆盛を極めた都だったのです。

 実は、この宋代の「開封」に、ユダヤ人共同体があったと言われています。皇帝が、アジア諸地域から優秀な人材を求めた時に、ユダヤ人もまた、呼び集められて、ここに落ち着いたようです。”ウイキペディア”によると、「ティベリウ・ワイスによれば、バビロン捕囚の後、紀元前6世紀に、異民族との婚姻を理由に預言者エズラにより追放され、インドの北西部(石碑では「天竺」と記述されている)に移住した支族レヴィ族と司祭の一族が、開封のユダヤ人の起源であるという。」と記してありますから、ユダヤ人の中国での居住の歴史は、ずいぶんと長いことになります。

 明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ名乗ったのです(ウイキペディアによる)。この姓を名乗る中国のみなさんは、ユダヤ系である可能性があるのでしょうか。親しい友人に、これらの苗字を持つ方が、何人もいました。

 現在でも、開封にはユダヤ人が住んでいて、中国人と結婚して、中国社会に溶け込んでいるそうです。統計上、どれだけのユダヤ人がいるかを知ることは困難であって、推定の域を越えないようです。日本でも、「離散したユダヤ民族(イスラエルの十部族)」がいると主張する方がいますが、それもあり得ることでしょう。56の民族で構成される中国に、ユダヤ民族は入っていませんが、少数民族に、その血を受け継いでいる人々がいることは事実です。
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 中国の街のコンクリートの作りの集合住宅の各家の玄関には、例外なく、どの家の玄関の扉の上方の鴨居と、扉の左右の門柱に、紅い紙に、黒く印刷された文字が書かれているのです。それを「春联(聯 )chunlian」と呼んでいます。

 それは、イスラエル民族の歴史の中の「過越の日」に、各戸の家の鴨居と門柱に、小羊の血が塗られた出来事を彷彿とさせられます。紀元前のパレスチナから移り住んだ人たちの子孫が、この開封の街の中にいないとは限りません。歴史の浪漫を感じさせられて、興味が尽きません。そうでなくとも、ユダヤ人に伝承されている習慣と、現代の中国人の生活とに、何か脈略があるように感じているのです。

 それにしても、心残りは、華南の街に住んでいる間に、この「開封」を訪ねてみたかったのです。地図を見、列車の乗り継ぎなど調べたことがありましたが、叶えられずに帰国してしまったからです。機会があったら、ぜひ訪ねたい街なのです。

(開封市内の街の古い記念の建物です)

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配慮

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 華南の街の古街の一郭に残る、たぶん清朝に作られた家並が、残されてありました。古く由緒のあるものを、後の代に遺したらいいのですが、今では、多くの街で壊されていたり、人の手が入ってしまって、建築当時の趣が薄れてしまっています。屋根の端、隣家に繋がる部分に、見事な「梲(うだつ)」が残されていました。それだけを見たくて、なんども足を運んだのです。とった写真が、どこかに行ってしまったのは残念です。

 その役割は、火事が延焼しないための防火壁なのです。今住んでいます家の隣りに、去年の19号台風で、私たちと同じ様に被災した家族が、同じ時期に前後して、移り住んでこられています。ご夫婦は三十代前半で、小さな子さんが二人おいでです。先日、駐車場でお会いして、しばらく話をしていました。『そう、家を買いまして、来月引越しすることにしたのです。しばらくでしたが、お世話になりました!』と、ご主人がおっしゃられたのです。

 そうしますと、この若いご主人は、まもなく《梲を上げられる男》になるのです。〈梲が上がらない〉という言葉が、次の様に解説されてありました。

『町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになります。
自己の財力を誇示するための手段として当時の豪商たちがその富を競い合うようにそれぞれに立派なうだつを設けました。
うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、比較的裕福な家に限られていた。これが、生活や地位が向上しない・状態が今ひとつ良くない・見栄えがしない、という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられます。』

 そうしますと、この私は、〈梲の上がらない男〉で終えそうなので、ちょっと羨ましく、その引越しの話を聞いていたのです。中学一年の時に、国語の教師から、『準、こんな字を書いていたら、お前は出世しないぞ!』と言われたのですが、言われた通りに、無出世で今日に至りました。持ち家に住もうとする願いも、全くなかったのです。家内も、私に、『自分たちの家が欲しい!』などと、一度も言わずに、

 ♭ この世では貧しい家に住んでいても 心楽し
 み国では 約束の家が待っている ♯

と歌うだけで、なんとも思っていません。でも先人たちが、自分の家が火元になって、隣家に延焼してはいけないと、どれほどの効果があったか分かりませんが、防火壁を設けたというのは、心掛けとしては心憎い配慮であったわけです。

 この栃木の街は、火災に何度かあったとかで、今ある古民家は、幕末から明治期に建てられいて、火災を免れたものだそうです。それに、一軒一軒が独立していますので、屋根に立派な瓦が載っていますが、「梲」は見当たりません。川のほとりに家を建てたのも、そう言った配慮からだったかも知れません。

(絵の中央部に見える白い壁の部分が「梲」です)

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ブルームーン

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 昨夜、東京の空に見えた「ブルームーン」だと、息子が撮って送信してくれました。地の表ばかり見ていて、空を見上げなかったので、見損ないました。幽玄な、秋の寒空に孤高の光を放つ見事な月ですね。

 自然界は、静寂で落ち着いています。いよいよ十一月になりました。コロナ騒動は、どうなるのでしょうか。アメリカ大統領選挙は、どなたが選ばれるのでしょうか。台風は、このまま上陸なしで終わるのでしょうか。栃木県知事選の行方は。2020年まだまだ、話題や課題が山積しています。

 先が見えないことは、私たちに救いですね。ことが起こって、初めて分かって、それを喜んだり、悲しんだりするのが好いのでしょう。好いひと月でありますように、心から願っております。

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紅茶の日

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 今日、11月1日は「紅茶の日」です。わが家の今朝の食事は、パン食ですので、サラダ(お決まりのトマト、きゅうり、レタス、玉ねぎ、にんじんを切り刻んで自家製ドレッシングをかけます)と、トーストした食パンやフライパンで納豆パウダーで作ったパンケーキに、目玉焼き、それに、件(くだん)の紅茶を淹れて摂るのです。

 ほとんど毎朝同じで、時々、フレンチトーストにしたりしています。ところが、紅茶には、ちょっとした拘りがあるのです。華南で生活していた間、「アールグレイ」の紅茶を、好んで飲んでいました。それまで、独特なブランドの物などなく、なんでも感謝していただいていたのに、急変して拘ってしまったのです。

 底をつくことがあると、「メトロ」というイギリス系のスーパーに行った時、棚の中に見つけたので、それ以来、バスに乗って買いに行くのが常になってしまいました。実は、ちょっと前までは、飲み物や食べ物は、何でも好かったのです。シンガポールいた娘が送ってくれた小包の中に、この「アールグレイ」が入っていて、これを飲んだ瞬間から、この拘りが始まってしまったわけです。

 これを華南の街のスーパーで見つけたわけです。この紅茶は、”チャールズ・グレイ伯爵”と言われた元英国首相が、好んだもので、「茶葉」に、ミカンの一種の「ベルガモット」で香り付けにしてあるのです。その紅茶に、自分の名をつけてしまうほど、この方にも拘りがあったことになりますね。

 日本に初めて英国の紅茶が輸入されたのは、1887(明治20)年だったと言われています。英語では、” black tea ” と呼ばれ、中国からインドやセイロンに伝わり、その茶葉がイギリスに運び出された物が、巡り巡って日本でも飲まれる様になったわけです。この「紅茶」を、最初に飲んだ日本人は、「大黒屋光太夫(伊勢国、現在の三重の船頭)」だったそうです。

この光太夫が乗った船が、嵐に遭って、漂流し、アリューシャン列島の島にたどり着いたのです。帰国の許可を得るため、首都サンクトペテルブルクに、エカテリーナ2世(女帝)に謁見(えっけん)します。この女帝が出してくれたのが、その紅茶だったわけです。その茶会の日が、1791年11月1日だったとかで、今日が「紅茶の日」になっています。

 イギリス人が、この「紅茶」に、それほど拘る気持ちが、だんだんと私に分かる様になってきています。もちろん、コーヒーも淹れて飲むのですが。朝食には、何と言っても、「アールグレイ紅茶」です。『これ美味しいんでよ!』と言ってお出しすると、ほとんどの人が、『美味しい!』と言われます。 どうぞお出でください。一緒に、お茶にでもいたしましょう。もちろん「アールグレイ」で!

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